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'''ソユーズ11号''' (Союз 11 / Soyuz 11) は、ソ連の有人[[宇宙船]]。コールサインは「ヤンタル([[コハク|琥珀]])」。世界初の[[宇宙ステーション]]、[[サリュート1号]]へのドッキングに初めて成功したが、[[大気圏再突入]]の準備中に宇宙船内の空気が失われ、搭乗していた3人の[[宇宙飛行士]]が窒息死するという悲劇に終わった。 |
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== ミッション == |
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ソユーズ11号は1971年6月6日に[[カザフ・ソビエト社会主義共和国]]にある[[バイコヌール宇宙基地]]から打ち上げられた。数ヶ月前、[[ソユーズ10号]]がサリュート1号への初のドッキングを目指したが、失敗していた。しかしソユーズ11号のサリュート1号へのドッキングは6月7日に成功し、3人の |
ソユーズ11号は[[1971年]][[6月6日]]に[[カザフ・ソビエト社会主義共和国]](現:[[カザフスタン]])にある[[バイコヌール宇宙基地]]から打ち上げられた。数ヶ月前、[[ソユーズ10号]]がサリュート1号への初のドッキングを目指したが、失敗していた。しかしソユーズ11号のサリュート1号へのドッキングは6月7日に成功し、[[ゲオルギー・ドブロボルスキー]]、[[ウラディスラフ・ボルコフ]]、[[ビクトル・パツァーエフ]]の3人のクルーは22日間滞在した。これは1973年5月から6月にかけて[[アメリカ合衆国]]の[[スカイラブ2号]]のミッションが行われるまで宇宙滞在の世界記録だった。 |
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サリュートに乗り込むと、彼らは煙臭い、焦げた匂いに気づいた。そして次の日は換気システムの修理に費やし、空気が清浄になるまでソユーズで待機することになった。サリュートでの滞在はとても生産的で、テレビの生放送なども行った。しかし11日目に火災が発生し、ステーションは |
サリュートに乗り込むと、彼らは煙臭い、焦げた匂いに気づいた。そして次の日は換気システムの修理に費やし、空気が清浄になるまでソユーズで待機することになった。サリュートでの滞在はとても生産的で、テレビの生放送なども行った。しかし11日目に火災が発生し、ステーション滞在は1週間短縮されることになった。ミッションの最大の目的は[[N-1]]ブースターの出来をみることだったが、この計画は延期された。また、彼らは1日に2回[[トレッドミル]]で運動することを求められていたが、トレッドミルを使うとステーション全体が振動してしまうということも分かった。[[プラウダ]]はミッションの間中、ミッションのニュースや最新情報を伝えた。 |
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== クルーの死 == |
== クルーの死 == |
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1971年[[6月30日]]、ソユーズ11号の帰還モジュール(再突入カプセル)は通常通り大気圏再突入をしたかに見えたが、カプセルを開けると死亡した3人の宇宙飛行士が発見された。3人は[[窒息死]]していたことがすぐに明らかになった。 |
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原因を究明すると、帰還モジュールとソユーズ本体を繋ぐバルブの部分に欠陥が見つかった。直径1mm以下のそのバルブは着陸の瞬間までカプセル内の気圧を保つはずだったが、この時は再突入前からカプセル内の空気を宇宙に漏らしてしまっていた。バルブは飛行士の椅子の下にあったので、空気がなくなる前に穴の場所を特定して塞ぐのは不可能であったと思われた。まだ上空168kmにいる時点で、わずか30秒の間にカプセル内の空気は全て失われたと推定された。数秒のうちにドブロボルスキーは異変に気づき、椅子を外してバルブを塞ごうとしたらしいが、残った時間が少なすぎた。バルブを手動で閉めるには60秒は必要で、ドブロボルスキーは亡くなる前に半分まで閉めていた。カプセル内には動けるスペースがほとんどなかったため、パツァーエフとボルコフは実質的に何もできなかった。 |
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当時のソユーズ宇宙船の帰還モジュールは、3人のクルーが[[宇宙服]]を着たまま乗り込める構造になっていなかった。[[ソユーズ10号]]がサリュートとのドッキングに失敗した後、11号のクルーを2人に減らして宇宙服を着せ、ドッキング前に[[宇宙遊泳|船外活動]]を行ってドッキングシステムを点検することも提案されていたが、クルー候補たちは船外活動の訓練を受けていなかったため却下された。 |
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後に公開された映画では、[[心肺蘇生法]]に取り組むサポートクルーの姿が描かれた。彼らは、減圧事故が起こってすぐの場合は助かる場合が多いことに希望を持って蘇生を行ったが、現在は、当時既に呼吸停止から15分以上たっており、宇宙船が着陸した時には既に絶命していたことが分かっている。 |
後に公開された映画では、[[心肺蘇生法]]に取り組むサポートクルーの姿が描かれた。彼らは、減圧事故が起こってすぐの場合は助かる場合が多いことに希望を持って蘇生を行ったが、現在は、当時既に呼吸停止から15分以上たっており、宇宙船が着陸した時には既に絶命していたことが分かっている。 |
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3人に対しては盛大な[[国葬]]が行われ、[[モスクワ]]の[[赤の広場]]にある共同墓地に葬られた。アメリカ人宇宙飛行士の[[トーマス・スタフォード]]は葬儀で棺を担いだ一人である。3人の名前は、[[月]]の[[クレーター]]、[[小惑星番号]]1789番から1791番の[[小惑星]] |
3人に対しては盛大な[[国葬]]が行われ、[[モスクワ]]の[[赤の広場]]にある共同墓地に葬られた。アメリカ人宇宙飛行士の[[トーマス・スタッフォード]]は葬儀で棺を担いだ一人である。3人の名前は、[[月]]の[[クレーター]]、[[小惑星番号]]1789番から1791番の[[小惑星]]([[ドブロボルスキー (小惑星)|ドブロボルスキー]]、[[ボルコフ (小惑星)|ボルコフ]]、[[パツァーエフ (小惑星)|パツァーエフ]])にも付けられている。 |
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この事故の後、ソユーズは2人乗り専用になり、全面的に改造され、発射と着陸の時には |
この事故の後、ソユーズは2人乗り専用になり、全面的に改造され、発射と着陸の時には宇宙服を着用するようになった。1980年に初の有人飛行が行われた[[ソユーズの一覧#ソユーズT|ソユーズT]]からは再び3人乗りになったが、帰還モジュールには3人が宇宙服を着て搭乗できる広いスペースが設けられた。 |
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* ゲオルギー・ドブロボルスキー |
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ドブロボルスキーとパツァーエフにとってはこれが初飛行、ボルコフにとっては2度目の飛行だった。 |
ドブロボルスキーとパツァーエフにとってはこれが初飛行、ボルコフにとっては2度目の飛行だった。飛行経験のあるボルコフではなくドブロボルスキーが船長になったことは、船内の人間関係に悪影響を及ぼした。 |
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ソユーズ11号には当初、[[アレクセイ・レオーノフ]]、[[ヴァレリー・クバソフ]]、[[ピョートル・コロディン]]の3人が搭乗予定だったが、打ち上げの4日前に行われた[[X線]]検査でクバソフが[[結核]]に感染していることが発見され、規定によりバックアップ・クルーの3人と交代になった。 |
ソユーズ11号には当初、[[アレクセイ・レオーノフ]]、[[ヴァレリー・クバソフ]]、[[ピョートル・コロディン]]の3人が搭乗予定だったが、打ち上げの4日前に行われた[[X線]]検査でクバソフが[[結核]]に感染していることが発見され、規定によりバックアップ・クルーの3人と交代になった。 |
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レオーノフは問題のバルブがしばしば誤作動を起こしていたことを認識しており、突入前の宇宙船との交信で、自動ではなく手動でバルブを操作するようにとアドバイスしていたが、結局クルーが手動でバルブを操作することはなく事故につながった。事故後レオーノフは自分がソユーズ11号に乗っていれば事故は起こらなかったと自責の念にかられたという<ref>[[デイヴィッド・スコット]]、アレクセイ・レオーノフ共著 |
レオーノフは問題のバルブがしばしば誤作動を起こしていたことを認識しており、突入前の宇宙船との交信で、自動ではなく手動でバルブを操作するようにとアドバイスしていたが、結局クルーが手動でバルブを操作することはなく事故につながった。事故後レオーノフは自分がソユーズ11号に乗っていれば事故は起こらなかったと自責の念にかられたという<ref>[[デイヴィッド・スコット]]、アレクセイ・レオーノフ共著『アポロとソユーズ』[[奥沢駿]]、[[鈴木律子]]訳、[[ソニー・マガジンズ]]、2005年、367頁</ref>。 |
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[[サリュート2号]]の軌道投入の失敗の後、クバソフとレオーノフは1975年に行われた[[アポロ・ソユーズテスト計画]]に揃って参加した。 |
[[サリュート2号]]の軌道投入の失敗の後、クバソフとレオーノフは1975年に行われた[[アポロ・ソユーズテスト計画]]に揃って参加した。 |
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== 外部リンク == |
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* [http://spacesite.biz/ussrspace13.htm 運命のいたずら(上) 宇宙ステーションのコンセプト(ロシア宇宙開発史13)] |
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* [http://spacesite.biz/ussrspace14.htm 運命のいたずら(下)誰も想像だにしなかった悲劇(ロシア宇宙開発史14)] |
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{{DEFAULTSORT:そゆす11こう}} |
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[[Category:ソユーズ計画|11]] |
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[[Category:宇宙事故|そゆうす11こう]] |
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[[Category:宇宙事故]] |
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[[bg:Союз 11]] |
[[bg:Союз 11]] |
2009年3月21日 (土) 14:58時点における版
ソユーズ11号 | |
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ミッションの情報 | |
ミッション名 | ソユーズ11号 |
質量 | 6,790 kg |
乗員数 | 3 |
コールサイン | Янтарь(「琥珀」) |
打上げ日時 | 1971年6月6日 07:55:09 (UTC) |
着陸または着水日時 | 1971年6月30日 02:16:52 (UTC) |
ミッション期間 | 23日18時間21分43秒 |
周回数 | ? |
遠地点 | 237 km |
近地点 | 163 km |
公転周期 | 88.4 分 |
軌道傾斜角 | 51.5 度 |
ソユーズ11号 (Союз 11 / Soyuz 11) は、ソ連の有人宇宙船。コールサインは「ヤンタル(琥珀)」。世界初の宇宙ステーション、サリュート1号へのドッキングに初めて成功したが、大気圏再突入の準備中に宇宙船内の空気が失われ、搭乗していた3人の宇宙飛行士が窒息死するという悲劇に終わった。
ミッション
ソユーズ11号は1971年6月6日にカザフ・ソビエト社会主義共和国(現:カザフスタン)にあるバイコヌール宇宙基地から打ち上げられた。数ヶ月前、ソユーズ10号がサリュート1号への初のドッキングを目指したが、失敗していた。しかしソユーズ11号のサリュート1号へのドッキングは6月7日に成功し、ゲオルギー・ドブロボルスキー、ウラディスラフ・ボルコフ、ビクトル・パツァーエフの3人のクルーは22日間滞在した。これは1973年5月から6月にかけてアメリカ合衆国のスカイラブ2号のミッションが行われるまで宇宙滞在の世界記録だった。
サリュートに乗り込むと、彼らは煙臭い、焦げた匂いに気づいた。そして次の日は換気システムの修理に費やし、空気が清浄になるまでソユーズで待機することになった。サリュートでの滞在はとても生産的で、テレビの生放送なども行った。しかし11日目に火災が発生し、ステーション滞在は1週間短縮されることになった。ミッションの最大の目的はN-1ブースターの出来をみることだったが、この計画は延期された。また、彼らは1日に2回トレッドミルで運動することを求められていたが、トレッドミルを使うとステーション全体が振動してしまうということも分かった。プラウダはミッションの間中、ミッションのニュースや最新情報を伝えた。
クルーの死
1971年6月30日、ソユーズ11号の帰還モジュール(再突入カプセル)は通常通り大気圏再突入をしたかに見えたが、カプセルを開けると死亡した3人の宇宙飛行士が発見された。3人は窒息死していたことがすぐに明らかになった。
原因を究明すると、帰還モジュールとソユーズ本体を繋ぐバルブの部分に欠陥が見つかった。直径1mm以下のそのバルブは着陸の瞬間までカプセル内の気圧を保つはずだったが、この時は再突入前からカプセル内の空気を宇宙に漏らしてしまっていた。バルブは飛行士の椅子の下にあったので、空気がなくなる前に穴の場所を特定して塞ぐのは不可能であったと思われた。まだ上空168kmにいる時点で、わずか30秒の間にカプセル内の空気は全て失われたと推定された。数秒のうちにドブロボルスキーは異変に気づき、椅子を外してバルブを塞ごうとしたらしいが、残った時間が少なすぎた。バルブを手動で閉めるには60秒は必要で、ドブロボルスキーは亡くなる前に半分まで閉めていた。カプセル内には動けるスペースがほとんどなかったため、パツァーエフとボルコフは実質的に何もできなかった。
当時のソユーズ宇宙船の帰還モジュールは、3人のクルーが宇宙服を着たまま乗り込める構造になっていなかった。ソユーズ10号がサリュートとのドッキングに失敗した後、11号のクルーを2人に減らして宇宙服を着せ、ドッキング前に船外活動を行ってドッキングシステムを点検することも提案されていたが、クルー候補たちは船外活動の訓練を受けていなかったため却下された。
後に公開された映画では、心肺蘇生法に取り組むサポートクルーの姿が描かれた。彼らは、減圧事故が起こってすぐの場合は助かる場合が多いことに希望を持って蘇生を行ったが、現在は、当時既に呼吸停止から15分以上たっており、宇宙船が着陸した時には既に絶命していたことが分かっている。
3人に対しては盛大な国葬が行われ、モスクワの赤の広場にある共同墓地に葬られた。アメリカ人宇宙飛行士のトーマス・スタッフォードは葬儀で棺を担いだ一人である。3人の名前は、月のクレーター、小惑星番号1789番から1791番の小惑星(ドブロボルスキー、ボルコフ、パツァーエフ)にも付けられている。
この事故の後、ソユーズは2人乗り専用になり、全面的に改造され、発射と着陸の時には宇宙服を着用するようになった。1980年に初の有人飛行が行われたソユーズTからは再び3人乗りになったが、帰還モジュールには3人が宇宙服を着て搭乗できる広いスペースが設けられた。
クルー
- ゲオルギー・ドブロボルスキー
- ウラディスラフ・ボルコフ
- ビクトル・パツァーエフ
ドブロボルスキーとパツァーエフにとってはこれが初飛行、ボルコフにとっては2度目の飛行だった。飛行経験のあるボルコフではなくドブロボルスキーが船長になったことは、船内の人間関係に悪影響を及ぼした。
ソユーズ11号には当初、アレクセイ・レオーノフ、ヴァレリー・クバソフ、ピョートル・コロディンの3人が搭乗予定だったが、打ち上げの4日前に行われたX線検査でクバソフが結核に感染していることが発見され、規定によりバックアップ・クルーの3人と交代になった。
レオーノフは問題のバルブがしばしば誤作動を起こしていたことを認識しており、突入前の宇宙船との交信で、自動ではなく手動でバルブを操作するようにとアドバイスしていたが、結局クルーが手動でバルブを操作することはなく事故につながった。事故後レオーノフは自分がソユーズ11号に乗っていれば事故は起こらなかったと自責の念にかられたという[1]。
サリュート2号の軌道投入の失敗の後、クバソフとレオーノフは1975年に行われたアポロ・ソユーズテスト計画に揃って参加した。
脚注
- ^ デイヴィッド・スコット、アレクセイ・レオーノフ共著『アポロとソユーズ』奥沢駿、鈴木律子訳、ソニー・マガジンズ、2005年、367頁