「モダニズム建築」の版間の差分
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'''モダニズム建築'''(モダニズムけんちく、{{lang-en-short|Modern Architecture}})または'''[[近代建築]]'''(きんだいけんちく)は、機能的、合理的な造形理念に基づく建築である。[[産業革命]]以降の工業化社会を背景として19世紀末から新しい建築を求めるさまざまな試行錯誤が各国で行われ、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立した。[[19世紀]]以前の様式建築(歴史的な意匠)を否定し、工業生産による材料(鉄・コンクリート、ガラス)を用いて、それらの材料に特有の構造、表現をもつ<ref>『建築大辞典』第2版(彰国社、1995年)、『日本国語大辞典』第2版(小学館、2001年)、『広辞苑』第6版(岩波書店、2008年)の「近代建築」の定義を参照。2000年代以降、日本の建築史家が明治時代の西洋館などを含む「[[近代建築]]」(欧米の影響のもと、新技術を導入して建てられた建物)と、近代建築運動に基づく建築(20世紀の機能的、合理的な建築)を区別するため、「モダニズム建築」という用語を使うようになった。</ref>。 |
'''モダニズム建築'''(モダニズムけんちく、{{lang-en-short|Modern Architecture}})または'''[[近代建築]]'''(きんだいけんちく)は、機能的、合理的な造形理念に基づく建築である。[[産業革命]]以降の工業化社会を背景として19世紀末から新しい建築を求めるさまざまな試行錯誤が各国で行われ、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立した。[[19世紀]]以前の[[様式建築]](歴史的な意匠)を否定し、工業生産による材料(鉄・コンクリート、ガラス)を用いて、それらの材料に特有の構造、表現をもつ<ref>『建築大辞典』第2版(彰国社、1995年)、『日本国語大辞典』第2版(小学館、2001年)、『広辞苑』第6版(岩波書店、2008年)の「近代建築」の定義を参照。2000年代以降、日本の建築史家が明治時代の西洋館などを含む「[[近代建築]]」(欧米の影響のもと、新技術を導入して建てられた建物)と、近代建築運動に基づく建築(20世紀の機能的、合理的な建築)を区別するため、「モダニズム建築」という用語を使うようになった。</ref>。 |
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[[20世紀]]の建築と都市計画に影響を与えた建築家は、[[ル・コルビュジエ]]、[[ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ]]、[[ヴァルター・グロピウス]]、[[フランク・ロイド・ライト]]、[[アルヴァ・アアルト]]などである。 |
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代表的な作品は、[[ヴァルター・グロピウス|グロピウス]]の[[ヴァイマルとデッサウのバウハウスとその関連遺産群|バウハウス校舎]](1926年)、[[ミース・ファン・デル・ローエ]]の[[バルセロナ・パビリオン]](1929年)、[[ル・コルビュジエ]]の[[サヴォア邸]](1931年)などである。 |
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== モダニズム建築 == |
== モダニズム建築 == |
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1927年の[[国際連盟]]コンペでは入選9案のうちに[[ル・コルビュジエ]]の計画案を含まれていたが、審査員の中の保守派達([[エコール・デ・ボザール|ボザール]]流の旧式な建築家)はル・コルビュジエ案は規約違反であるとして排斥し、保守派と近代建築運動側の対立が表面化した。これをきっかけに翌年'''[[CIAM]]'''(Congrès International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)が開催され、グロピウス、[[ミース・ファン・デル・ローエ]]、[[ル・コルビュジエ]]ら24人の建築家が参加した(CIAMは1956年まで各国で開催された)。CIAMを中心にした建築家たちの主張と実践により、新しい建築の理念が確立され、これらの動向は各国に急速に浸透し、機能的・合理的で装飾のない建築が国境を超えていった。 |
1927年の[[国際連盟]]コンペでは入選9案のうちに[[ル・コルビュジエ]]の計画案を含まれていたが、審査員の中の保守派達([[エコール・デ・ボザール|ボザール]]流の旧式な建築家)はル・コルビュジエ案は規約違反であるとして排斥し、保守派と近代建築運動側の対立が表面化した。これをきっかけに翌年'''[[CIAM]]'''(Congrès International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)が開催され、グロピウス、[[ミース・ファン・デル・ローエ]]、[[ル・コルビュジエ]]ら24人の建築家が参加した(CIAMは1956年まで各国で開催された)。CIAMを中心にした建築家たちの主張と実践により、新しい建築の理念が確立され、これらの動向は各国に急速に浸透し、機能的・合理的で装飾のない建築が国境を超えていった。 |
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1932年には、[[ニューヨーク近代美術館]](MOMA)で[[フィリップ・ジョンソン]]とヘンリー・ヒッチコックの企画によりCIAMの建築家らの作品を紹介した「近代建築展」が開催された。同展の図録『インターナショナル・スタイル』も大きな影響を及ぼし、[[インターナショナル・スタイル]](国際様式)建築という呼び方も一般的になった。 |
1932年には、[[ニューヨーク近代美術館]](MOMA)で[[フィリップ・ジョンソン]]と[[ヘンリー・ヒッチコック]]の企画によりCIAMの建築家らの作品を紹介した「近代建築展」が開催された。同展の図録『インターナショナル・スタイル』も大きな影響を及ぼし、[[インターナショナル・スタイル]](国際様式)建築という呼び方も一般的になった。 |
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これらの1920年代をピークとする建築運動を'''近代建築運動'''(Modern Movements in Architecture)という。近年は[[機能主義建築]]、合理主義建築、あるいは[[インターナショナル・スタイル]]建築として主張されてきたこれらの動向を総合してモダニズム建築と呼ぶことが多い<ref>大川三雄・川向正人・初田亨・吉田鋼市『図説 近代建築の系譜』(彰国社、1997)。</ref>。 |
これらの1920年代をピークとする建築運動を'''近代建築運動'''(Modern Movements in Architecture)という。近年は[[機能主義建築]]、合理主義建築、あるいは[[インターナショナル・スタイル]]建築として主張されてきたこれらの動向を総合してモダニズム建築と呼ぶことが多い<ref>大川三雄・川向正人・初田亨・吉田鋼市『図説 近代建築の系譜』(彰国社、1997)。</ref>。 |
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=== 新技術による作品例 === |
=== 新技術による作品例 === |
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Crystal Palace.PNG|[[水晶宮]](クリスタル・パレス。[[ロンドン]] [[ハイド・パーク]]、1851年)。鋳鉄製のフレームでサポートされている[[キャスト]]板ガラス窓を持っている最初の建物の一つ |
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Maison François Coignet 2.jpg|フランソワ・コワニェ([[:fr:François Coignet|fr]], [[:en:François Coignet|en]])によって設計された[[鉄筋コンクリート]]造の最初の家([[パリ]]近郊[[サン=ドニ|サンドニ]]、1853年) |
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Home Insurance Building.JPG|[[ウィリアム・ル・バロン・ジェニー]]作、住宅保険ビル([[シカゴ]]、1884年) |
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Construction tour eiffel5.JPG|建設中の[[エッフェル塔]]([[7区 (パリ)|パリ7区]]、1887年 - 1889年8月) |
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! 建造物名 !! 設計者 !! 年 !! 所在地 !! 備考 |
! 建造物名 !! 設計者 !! 年 !! 所在地 !! 備考 |
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| {{Display none|/}}フランクリン街のアパート|| [[オーギュスト・ペレ]] || 1903年 || |
| {{Display none|/}}フランクリン街のアパート|| [[オーギュスト・ペレ]] || 1903年 || フランス, [[16区 (パリ)|パリ16区]]|| 鉄筋コンクリートによる先駆的作品 |
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| {{Display none|/}}AEGタービン工場|| [[ペーター・ベーレンス]] || 1910年 || |
| {{Display none|/}}AEGタービン工場|| [[ペーター・ベーレンス]] || 1910年 || ドイツ || |
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| {{Display none|/}}[[シュレーダー邸]]|| [[ヘリット・リートフェルト]] || 1924年 || |
| {{Display none|/}}[[シュレーダー邸]]|| [[ヘリット・リートフェルト]] || 1924年 || オランダ || |
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| {{Display none|/}}[[バウハウス]]校舎|| [[ヴァルター・グロピウス]] || 1926年 || |
| {{Display none|/}}[[バウハウス]]校舎|| [[ヴァルター・グロピウス]] || 1926年 || ドイツ || |
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| {{Display none|/}}[[バルセロナ・パビリオン]]|| [[ミース・ファン・デル・ローエ]] || 1930年 || スペイン || |
| {{Display none|/}}[[バルセロナ・パビリオン]]|| [[ミース・ファン・デル・ローエ]] || 1930年 || スペイン || |
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| {{Display none|/}}[[ブラジリア]]の都市計画・建築群|| [[オスカー・ニーマイヤー]] || 1956-60年 || アメリカ || |
| {{Display none|/}}[[ブラジリア]]の都市計画・建築群|| [[オスカー・ニーマイヤー]] || 1956-60年 || アメリカ || |
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| {{Display none|/}}[[イスラエル]]・[[テルアビブ]]の「[[テルアビブの白い都市|白い街]]」|| |
| {{Display none|/}}[[イスラエル]]・[[テルアビブ]]の「[[テルアビブの白い都市|白い街]]」|| || || イスラエル || |
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=== ヨーロッパにおける初期モダニズム建築(1890年代-1914) === |
=== ヨーロッパにおける初期モダニズム建築(1890年代-1914) === |
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Schoolofart1.jpg|[[グラスゴー美術学校]](1896–99) / [[チャールズ・レニー・マッキントッシュ]]設計 |
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Paris 16 (25437741212).jpg|フランクリン街のアパート(1903) / [[オーギュスト・ペレ]]設計 |
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Vienna - PSK Otto Wagner's Postsparkasse - 5977.jpg|ウィーン郵便貯金局(1904-1906) / [[オットー・ワーグナー]]設計 |
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Berlin AEG Turbinenfabrik.jpg|[[AEG]]タービン工場(1909) / [[ペーター・ベーレンス]]設計 |
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Wien Hietzing, St.-Veit-Gasse 10 - 1.JPG|ウィーンのシュタイナー・ハウス (1910) / [[アドルフ・ロース]]設計 |
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Théâtre des Champs-Élysées DSC09330.jpg|パリの[[シャンゼリゼ劇場]] (1911-1913)/ [[オーギュスト・ペレ]]設計 |
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01Sauvage26rueVavin.JPG|パリの階段式コンクリートマンション(1912-1914)/ [[:en:Henri Sauvage|アンリ・ソヴァージュ]]設計 |
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Fagus-Werke-01.jpg|[[ファグス工場]](1911–13)/ [[ヴァルター・グロピウス]]、[[アドルフ・マイヤー]]設計 |
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Taut Glass Pavilion exterior 1914.jpg|ガラス・パヴィリオン(1914) / [[ブルーノ・タウト]]設計 |
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=== アメリカの初期モダニズム建築(1890年代-1914) === |
=== アメリカの初期モダニズム建築(1890年代-1914) === |
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William H. Winslow House Front Facade.jpg|イリノイ州リバーフォレストの[[:en:William H. Winslow House|ウィンズロー邸]](1893-94)/ [[フランク・ロイド・ライト]]設計 |
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Oak park house2.jpg|イリノイ州オークパークの[[:en:Arthur Heurtley House|アーサー・ハートリー邸]](1902) |
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LarkinAdministrationBuilding1906.jpg|[[:en:Larkin Administration Building|ラーキンビル]](1904-1906)/ [[フランク・ロイド・ライト]]設計 |
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Unity Temple - Oak Park IL 9 (3224132995).jpg|[[:en:Unity Temple|ユニティテンプル]]の内部(1905–1908) / [[フランク・ロイド・ライト]]設計 |
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Frederick C. Robie House.JPG| [[:en:Robie House|ロビー邸]](1909)/ [[フランク・ロイド・ライト]]設計 |
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=== 初期の高層ビル === |
=== 初期の高層ビル === |
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Home Insurance Building.JPG|シカゴの[[ホーム・インシュアランス・ビル]](1883)/ [[ウィリアム・ル・バロン・ジェニー]]設計 |
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Prudential buffalo louis sullivan.jpg|[[:en:Buffalo, New York|ニューヨーク州バッファロー]]の[[:en:Prudential (Guaranty) Building|ギャランティ・ビル(元プルデンシャル・ビル)]](1896) / [[ルイス・サリヴァン]]設計 |
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Detroit Photographic Company (0645).jpg|[[ニューヨーク]]の[[フラットアイアンビルディング]] (1903) |
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Carson Pirie Scott building, Chicago, Illinois - Louis Sullivan.jpg|シカゴの[[:en:Carson, Pirie, Scott and Company Building|カーソン・ピリー・スコット・ストア]](1904-1906)/ [[ルイス・サリヴァン]]設計 |
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Woolworth Building and City Hall Park, New York City 1910s retouched.png| [[ウールワース・ビルディング]]とニューヨークのスカイライン。内側はモダンだが外側は[[ゴシック・リヴァイヴァル建築|ネオゴシック様式]] 。 |
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WoolworthBuilding crop.jpg|[[ウールワース・ビルディング]](1912)のネオゴシック様式の頭頂部 / [[キャス・ギルバート]]設計 |
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==== インターナショナル・スタイル(1918-1950年代) ==== |
==== インターナショナル・スタイル(1918-1950年代) ==== |
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Weissenhof Corbusier 03.jpg|[[ヴァイセンホーフ・ジードルング]](1927) |
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Weissenhof photo house citrohan east façade Le Corbusier & Pierre Jeanneret Stuttgart Germany 2005-10-08.jpg|[[ヴァイセンホーフ・ジードルング]](1927)/ [[ル・コルビュジエ]]設計 |
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サヴォア邸.jpg|[[サヴォア邸]] (1928–31) / ル・コルビュジエ設計 |
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MalletStevensMezy2.jpg|[[:en:Villa Paul Poiret|ポール・ポワレ別邸]](1921-1925)/ [[ロベール・マレ=ステヴァンス]]設計 |
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Villa Noailles (Mallet-Stevens, 1923).JPG|[[ノアイユ子爵夫妻邸]](1923)/ ロベール・マレ=ステヴァンス設計 |
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Villa des frères Martel construite par Robert Mallet-Stevens au 10 rue Mallet-Stevens (Paris), en 1927.jpg|マレ=ステヴァンス通り(フランス語版)の集合住宅 (1926–1927) / ロベール・マレ=ステヴァンス設計 |
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==== バウハウスとドイツのヴェルクバンド(1919-1932) ==== |
==== バウハウスとドイツのヴェルクバンド(1919-1932) ==== |
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Bauhaus.JPG|デッサウ・バウハウス(1926)/ [[ヴァルター・グロピウス]]設計 |
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Bernau bei Berlin ADGB Schule Wohntrakte vorne.jpg|ベルナウのドイツ労働組合学校(1928-30)/ [[ハンネス・マイヤー]]設計 |
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Haus am Horn, Weimar (Südwestansicht).jpg|[[:en:Haus am Horn|ハウス・アム・ホルン]](1923) / [[:en:Georg Muche|ゲオルク・ムッヘ]]設計 |
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The Barcelona Pavilion, Barcelona, 2010.jpg|[[バルセロナ・パビリオン]](1929) / [[ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ]]設計 |
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WeissenhofsiedlungJJPOud-pjt.jpg|[[ヴァイセンホーフ・ジードルング]] (1927) / [[ドイツ工作連盟]]設計 |
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==== 表現主義建築(1918-1931) ==== |
==== 表現主義建築(1918-1931) ==== |
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Berlin Grosses Schauspielhaus Poelzig Foyer.jpg|ベルリン大劇場ホワイエ (1919) / [[ハンス・ペルツィヒ]]設計 |
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Einsteinturm 7443.jpg|[[アインシュタイン塔]] (1920–24) / [[エーリヒ・メンデルゾーン]]設計 |
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Berlin, Mitte, Schuetzenstrasse, Mosse-Zentrum 05.jpg|ベルリンのモスハウス(1921-23) / [[エーリヒ・メンデルゾーン]]設計 |
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Chilehaus - Hamburg.jpg|[[:en:Chilehaus|チリハウス]] (1921-1924) / [[:en:Fritz Höger|フリッツ・ヘーガー]]設計 |
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Berlin Hufeisensiedlung UAV 04-2017.jpg|[[:en:Hufeisensiedlung|馬蹄型集合住宅]] (1925)/ [[ブルーノ・タウト]]設計 |
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Goetheanum im Winter von Süden.jpg|第二[[ゲーテアヌム]] (1924 - 1928)/ [[ルドルフ・シュタイナー]]設計 |
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Aschool1.jpg|[[:en:Het Schip|ヘット・シップ]](1917-1920) / [[:en:Michel de Klerk|ミシェル・ド・クラーク]]設計 |
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Den Haag De Bijenkorf 001.JPG|[[:en:De Bijenkorf|デ・バイエンコルフ]]百貨店(1924 - 1926) / [[:en:Piet Kramer|ピート・クレイマー]]設計 |
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==== 構成主義建築(1919-1931) ==== |
==== 構成主義建築(1919-1931) ==== |
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Tatlin's Tower maket 1919 year.jpg|第三インターナショナル記念塔の模型(1919)/ [[ウラジーミル・タトリン]]設計 |
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Lenin Mausoleum.jpg| モスクワの[[レーニン廟]](1924) / [[アレクセイ・シューセフ]]設計 |
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Pavillon de l'URSS Paris (1925).jpg|パリ万国博覧会のソ連パビリオン(1925) / [[:en:Konstantin Melnikov|コンスタンティン・メルニコフ]]設計 |
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Moscow RusakovWorkersClub 2253.jpg|モスクワのルサコフ労働者クラブ(1928)/ [[:en:Konstantin Melnikov|コンスタンティン・メルニコフ]]設計 |
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Zonstrhoofd02achter.jpg|[[:en:Zonnestraal (estate)|ゾンネストレイナル療養所]](1926-1928) /[[:en:Jan Duiker|ジャン・ダイカー]]とB・ベイフゥート 設計 |
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ファイル:Будинок Державної промишенності (Держпром), Харків.JPG|ハリコフの国営工業(1928) |
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Openluchtschool - Open-air School (8157211576).jpg|[[アムステルダム]]の[[:en:Open air school|野外学校]] (1929-1930)/[[:en:Jan Duiker|ジャン・ダイカー]]設計 |
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ファイル:Openluchtschool - Open-air School (8157211576).jpg|[[アムステルダム]]の[[:en:Open air school|野外学校]] (1929-1930)/[[:en:Jan Duiker|ジャン・ダイカー]]設計 |
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=== アールデコ === |
=== アールデコ === |
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Paris-FR-75-Expo 1925 Arts décoratifs-pavillon des Galeries Lafayette.jpg|[[パリ万国博覧会 (1925年)|パリ万国博覧会]](1925)における[[ギャラリー・ラファイエット]]のパビリオン |
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P1030956 Paris Ier La Samaritaine rwk.JPG|[[サマリテーヌ百貨店]]デパート (1925–28)/ [[:en:Henri Sauvage|アンリ・ソヴァージュ]]設計 |
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==== アメリカにおけるアールデコ。超高層ビルのスタイル(1919–1939) ==== |
==== アメリカにおけるアールデコ。超高層ビルのスタイル(1919–1939) ==== |
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American Radiator Building.jpg|[[アメリカン・ラジエター・ビル]](1924)/ [[レイモンド・フッド]]設計 |
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Guardian Building Detroit Interior Clock.jpg|デトロイトの[[ガーディアン・ビルディング]](1927–29) / [[:en:Wirt C. Rowland|ワート・C・ロウランド]]設計 |
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Chrysler Building spire, Manhattan, by Carol Highsmith (LOC highsm.04444).jpg|[[クライスラー・ビルディング]](1928–30)/ [[:en:William Van Alen|ウィリアム・ヴァン・アレン]]設計 |
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GeneralElectricBuilding-Crown.jpg|[[ゼネラルエレクトリックビル]](1933) / [[:en:Cross & Cross|Cross&Cross]]設計 |
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GE Building by David Shankbone.JPG| [[コムキャスト・ビルディング]](1933) / [[レイモンド・フッド]]設計 |
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==== 流線型のスタイルと公共事業行政(1933-1939) ==== |
==== 流線型のスタイルと公共事業行政(1933-1939) ==== |
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Pan-Pacific Auditorium entrance.jpg|[[:en:Pan-Pacific Auditorium|パンパシフィック・オーディトリアム]] 、ロサンゼルス(1936) |
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SFMaritimeMuseum.jpg|[[:en:San Francisco Maritime Museum|サンフランシスコ海事博物館]](1936)もともとは公衆浴場だった |
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Hoover Dam (3467678621).jpg|[[フーバーダム]]取水塔(1931–36) |
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U.S. Post Office (Long Beach Main).jpg|[[:en:Long Beach Main Post Office|ロングビーチ中央郵便局]] (1933–34) |
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=== アメリカにおけるモダニズム建築(1919-1939) === |
=== アメリカにおけるモダニズム建築(1919-1939) === |
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Ennis House front view 2005.jpg|[[:en:Ennis House|エニスハウス]](1924) / フランク・ロイド・ライト設計 |
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Fallingwater - by Frank Lloyd Wright.jpg|[[落水荘]] (1928-1934) / フランク・ロイド・ライト設計 |
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Lovell Beach House 02.jpg|[[:en:Lovell Beach House|ローヴェル・ビーチ・ハウス]](1926)/ [[ルドルフ・シンドラー]]設計 |
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Lovell House 2.jpg|[[:en:Lovell House|ロヴェル邸]](1927-29)/ [[リチャード・ノイトラ]]設計 |
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=== 1937年のパリ国際博覧会と独裁者の建築 === |
=== 1937年のパリ国際博覧会と独裁者の建築 === |
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Paris 75016 Fontaines du Trocadéro 20090815.jpg|[[パリ万国博覧会 (1937年)|1937年パリ国際博覧会]] [[:en:Louis-Hippolyte Boileau|ルイ・ヒポリット・ボイロー]] 、 [[:en:Jacques Carlu|ジャック・カルル]] 、 [[:en:Léon Azéma|レオン・アゼマ]]による[[シャイヨ宮]] |
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Exposition Internationale des Arts et Techniques dans la Vie Moderne (Paris-1937).jpg|1937年のパリ万国博覧会で、[[アルベルト・シュペーア]]設計のナチス・ドイツのパビリオン(左)は[[ボリス・イオファン]]設計のソビエト連邦のパビリオン(右)と対峙していた |
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Rutes Històriques a Horta-Guinardó-pabello republica 02.jpg|スペイン第2共和国パビリオン(1937/復元)/ [[ホセ・ルイ・セルト]]設計 |
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Nazi party rally grounds (1938) 3.jpg|ナチス党の[[ナチ党党大会|党大会]]のために建てられた[[ニュルンベルク]] の[[ナチ党党大会会場|ツェッペリンフィールドスタジアム]](1934)/ [[アルベルト・シュペーア]]設計 |
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Como, ex casa del fascio 04.JPG|イタリア、コモの''カサ・デル・ファシオ'' (ファシズムの家)(1932-1936)/ [[ジュゼッペ・テラーニ]]設計 |
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ファイル:Palais de Tokyo, Musée d'Art Moderne de la Ville de Paris.jpg|[[パレ・ド・トーキョー]] 、[[:en:Musée d'Art Moderne de la Ville de Paris|パリ近郊の現代美術館]] |
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=== ニューヨーク万国博覧会(1939) === |
=== ニューヨーク万国博覧会(1939) === |
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1939fairhelicline.jpg| TrylonとPerisphere、1939年の世界博覧会のシンボル |
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World Fair 1939 LOC gsc.5a03061.jpg| フォードのパビリオン、 [[ストリームライン・モダン]]スタイル |
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RCA Exhibit Building 1939 World's Fair Postcard 2007.016 front.tif| RCAパビリオンは最初の公共テレビ放送を特集した |
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House of Glass Worlds Fair 1939 LOC gsc.5a03199.jpg|将来の家がどのように見えるかを示す、ガラスの家のリビングルーム |
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=== 第二次世界大戦:戦時中の技術革新と戦後の再建(1939-1945) === |
=== 第二次世界大戦:戦時中の技術革新と戦後の再建(1939-1945) === |
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Le Havre hiver 1944-1945.JPG| 1944年に爆撃で破壊された[[ル・アーブル]]の中心 |
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LeHavre.jpg|[[:en:Auguste Perret|オーギュスト・ペレ]] (1946年 - 1964年)によって再建された[[Le Havre|ル・アーヴル]]の中心 |
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Quonset hut emplacement in Japan.jpg|日本に向かう途中の[[クォンセット・ハット]] (1945) |
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====ル・コルビュジエとシテ・ラディウス (1947年 - 1952年)==== |
====ル・コルビュジエとシテ・ラディウス (1947年 - 1952年)==== |
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Unite d'Habitation salon.jpg|パリの[[:en:Cité de l'Architecture et du Patrimoine|シティドアーキテクチャーエデュパトリモーヌ]]で開催された[[:en:Unité d'Habitation|ユビテーゼの]]元ユニットのサロンとテラス(1952) |
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<!--File:RonchampCorbu.jpg|ロンシャンのノートルダムデュオーの[[礼拝堂]] (1950年 - 1955年) --> |
<!--File:RonchampCorbu.jpg|ロンシャンのノートルダムデュオーの[[礼拝堂]] (1950年 - 1955年) --> |
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==== フランク・ロイド・ライト ==== |
==== フランク・ロイド・ライト ==== |
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Lakeland FSC Pfeiffer Chapel01.jpg|[[:en:Florida Southern College|フロリダサザンカレッジ]]のファイファーチャペル設計:Frank Lloyd Wright(1941-1958) |
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Building, globe, and grounds of the S.C. Johnson and son headquarters building, designed by Frank Lloyd Wright, Racine, Wisconsin LCCN2011634906.jpg|[[:en:Johnson Wax Headquarters|ジョンソンワックス本部]]および研究センター(1944-1950) |
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Price Tower - Bartlesville.jpg|オクラホマ州[[:en:Bartlesville|バートルズビル]]の[[:en:Price Tower|プライスタワー]] (1956) |
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NYC - Guggenheim Museum.jpg|[[ソロモン・R・グッゲンハイム美術館]] 、 [[フランク・ロイド・ライト]](1946-1959) |
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====ヴァルター・グロピウスとマルセル・ブロイヤー==== |
====ヴァルター・グロピウスとマルセル・ブロイヤー==== |
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Story Hall, Harvard University, Cambridge MA.jpg|[[ハーバード・ロー・スクール]] / [[ヴァルター・グロピウス]]および[[:en:The Architects Collaborative|The Architects Collaborative]] |
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Walter Gropius photo MetLife Building fassade New York USA 2005-10-03.jpg|ニューヨークのパンナムビル(現在は[[メットライフ・ビルディング]] )(1958-1963)/ [[ヴァルター・グロピウス]]およびThe Architects Collaborative |
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==== ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ ==== |
==== ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ ==== |
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Barcelona (4728498040).jpg|[[ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ]]による[[バルセロナ・パビリオン]]は、 [[バルセロナ万国博覧会 (1929年)|1929年のバルセロナ国際博覧会]]ドイツ館として作られた |
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Farnsworth House by Mies Van Der Rohe - exterior-8.jpg|[[:en:Plano, Illinois|イリノイ州プラノ]]の[[:en:Farnsworth House|ファーンズワース邸]] (1945–51) |
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S.R. Crown Hall.jpg|シカゴの[[:en:Illinois Institute of Technology|イリノイ工科大学]] [[:en:Crown Hall|クラウンホール]] (1956年) |
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Seagrambuilding.jpg|[[ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ]]設計、1958年、ニューヨーク市の[[シーグラム・ビルディング]] |
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==== リチャード・ノイトラとチャールズ&レイ・イームズ ==== |
==== リチャード・ノイトラとチャールズ&レイ・イームズ ==== |
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Eames House0.jpg|[[:en:Charles and Ray Eames|チャールズ&レイ・イームズ]]による[[:en:Eames House|イームズ・ハウス]] 、[[:en:Pacific Palisades, Los Angeles|パシフィック・パリセーズ]] 、(1949) |
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NeutraOfficeBldg.1.jpg|[[:en:Richard Neutra|リチャード・ノイトラ]]によるロサンゼルス(1950)の[[:en:Neutra Office Building|ニュートラ事務所ビル]] |
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Constance Perkins House.jpg|[[:en:Constance Perkins House|コンスタンスパーキンスハウス]] [[リチャード・ノイトラ]] 、ロサンゼルス(1962) |
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==== スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリルとウォレス・ハリソン ==== |
==== スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリルとウォレス・ハリソン ==== |
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Lever House by David Shankbone.jpg|[[リーバ・ハウス]](1951–52)設計:[[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル]] |
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Manufacturers Trust Company Building 510 Fifth Avenue.jpg|[[:en:Manufacturers Trust Company Building|メーカー・トラスト・カンパニーの構築]]によって、 [[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル]]、ニューヨーク(1954) |
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Yale-beinecke-library.jpg|[[イェール大学]] [[:en:Beinecke Library|Beinecke図書館]] 、 [[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル]] (1963) |
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United Nations Headquarters.JPG|[[:en:Oscar Niemeyer|オスカーニーマイヤー]]と[[ル・コルビュジエ]] (1952)と[[:en:Wallace Harrison|ウォレスハリソン]]によるニューヨークの[[国連本部]] 、 |
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CFiorentini007.jpg|ニューヨークの[[Lincoln Center|リンカーンセンター]]の[[:en:Metropolitan Opera House (Lincoln Center)|メトロポリタンオペラハウス]]設計:[[:en:Wallace Harrison]] (1966) |
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==== フィリップ・ジョンソン ==== |
==== フィリップ・ジョンソン ==== |
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Glasshouse-philip-johnson.jpg|[[:en:New Canaan, Connecticut|コネチカット州ニューカナン]] [[:en:Philip Johnson|フィリップ・ジョンソン]]による[[Glass House|グラスハウス]] (1953) |
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IDS reflecting Wells Fargo.jpg|ミネソタ州ミネアポリスの[[:en:IDS Center|IDSセンター]] 、Philip Johnson設計:(1969–72) |
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Crys-ext.jpg|[[:en:Crystal Cathedral|クリスタル大聖堂]] Philip Johnson設計:(1977–80) |
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Williamstower.jpg|テキサス州[[ヒューストン]]の[[:en:Williams Tower|ウィリアムズタワー]] 、Philip Johnson(1981-1983) |
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Pittsburgh-pennsylvania-ppg-place-2007.jpg|ペンシルベニア州[[ピッツバーグ]] [[:en:PPG Place|PPGプレイス]] 、Philip Johnson設計:(1981–84) |
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==== エーロ・サーリネン ==== |
==== エーロ・サーリネン ==== |
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St Louis night expblend cropped.jpg|ミズーリ州[[セントルイス]]の[[:en:Gateway Arch|ゲートウェイアーチ]] (1948年 - 1965年) |
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GMTechCenter.jpg|[[:en:General Motors Technical Center|ゼネラルモーターズテクニカルセンター]]本館(1949 - 55年) |
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Ingalls Rink Highsmith.jpg|コネチカット州[[:en:New Haven|ニューヘイブン]]の[[:en:Ingalls Rink|インガルスリンク]] (1953 - 58年) |
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Jfkairport.jpg|ニューヨークのJFK空港の[[TWAフライトセンター|TWAターミナル]]、 [[エーロ・サーリネン]]設計:(1956 - 62年) |
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==== ルイス・I・カーン ==== |
==== ルイス・I・カーン ==== |
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First Unitarian Church of Rochester NY North Side at West end 1227-8.jpg|[[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]の[[:en:First Unitarian Church of Rochester|ファースト・ユニテリアン教会]](1962) |
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Salk Institute1.jpg|[[ソーク研究所]] (1962–63) |
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WTP2 Mike Reali 01d.jpg|[[:en:Richards Medical Research Laboratories|リチャーズ医学研究所]] (1957–61) |
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Kimbell Art Museum Dusk Highsmith.jpg|テキサス州[[フォートワース]]の[[キンベル美術館]] (1966–72) |
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Jatiyo Sangshad Bhaban (Roehl).jpg|[[国会議事堂 (バングラデシュ)|バングラデシュ国会議事堂]] (1962 - 74年) |
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==== イオ・ミン・ペイ ==== |
==== イオ・ミン・ペイ ==== |
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Green Building, MIT, Cambridge, Massachusetts.JPG|[[:en:Massachusetts Institute of Technology|マサチューセッツ工科大学]] [[:en:Green Building (MIT)|グリーンビル]](1962-64) |
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National Center for Atmospheric Research - Boulder, Colorado.jpg|[[:en:Boulder, Colorado|コロラド州ボールダー]]の[[:en:National Center for Atmospheric Research|国立大気研究センター]] (1963 - 67年) |
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Johnson Museum of Art, Cornell Univ Ithaca NY USA.jpg|[[:en:Ithaca, New York|ニューヨーク州イサカにある]] [[コーネル大学]] [[:en:Herbert F. Johnson Museum of Art|ハーバートF.ジョンソン美術館、]](1973) |
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National Gallery East Wing by Matthew Bisanz.JPG|ワシントンDCの[[:en:National Gallery of Art|ナショナル・ギャラリー・オブ・アートの]]イーストウィング(1978) |
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Louvre Museum Wikimedia Commons.jpg| パリの[[ルーブル美術館]] ピラミッド(1983年 - 89年) |
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=== ヨーロッパにおける戦後モダニズム建築(1945-1975) === |
=== ヨーロッパにおける戦後モダニズム建築(1945-1975) === |
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National Theatre, London.jpg|ロンドンの[[:en:Royal National Theatre|ロイヤルナショナルシアター]] 、 [[Denys Lasdun]] (1967 - 1976) |
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Helsinki University of Technology auditorium.jpg|ヘルシンキ工科大学講堂、 [[アルヴァ・アールト]] (1964) |
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Academisch ziekenhuis C.H.U..jpg|ベルギー、 [[リエージュ]]大学病院センターby Charles Vandenhove(1962–82) |
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02 Fondation Maeght.JPG|[[ホセ・ルイ・セルト]] (1959年 - 1964年)によって [[:en:Fondation Maeght]] |
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Katholische Kirche Idstein 022.JPG|[[St. Martin, Idstein|聖マーティン]]教会、[[:en:St. Martin, Idstein|イドシュタイン]]ドイツバイ[[Johannes Krahn]] (1965) |
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Warszawa 1975 WDC 42783.jpg|ポーランドの[[ワルシャワ]]中央駅(Arseniusz Romanowicz(1975)) |
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Orphanage-1a.Aldo van Eyck.jpg|市立孤児院[[アムステルダム]] [[アルド・ファン・アイク]] (1960)、「数の美学」、建築運動 [[:en:Structuralism (architecture)|構造主義]] 。 |
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=== ラテンアメリカにおけるモダニズム建築 === |
=== ラテンアメリカにおけるモダニズム建築 === |
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MESP4.jpg|[[リオデジャネイロ]]の保健教育省(1936–43)[[ルシオ・コスタ]] |
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MAM - Museu de Arte Moderna do Rio de Janeiro 02.jpg|[[:en:Museum of Modern Art, Rio de Janeiro|MAMリオ]]博物館(1960) [[:en:Affonso Eduardo Reidy]] |
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Congresso Nacional.jpg|[[国会議事堂 (ブラジル)|ブラジル国会議事堂]](1956年 - 61年)[[オスカー・ニーマイヤー]] |
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Catedral de Bsb.jpg|[[ブラジリア大聖堂]] (1958年 - 1970年)オスカー・ニーマイヤー |
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06-11-2014 Novembro Azul (15546341448).jpg|[[プラナルト宮殿|ブラジル大統領府]](1958年 - 1960年) オスカー・ニーマイヤー |
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Torre Latinoamericana 1.jpg|[[メキシコシティ]]の[[ラテンアメリカ・タワー]](1956)[[:en:Augusto H. Alvarez|アウグスト・H・アルバレ]] |
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Explanada de El Colegio de México.jpg|[[:en:Colegio de México|コレヒオ・デ・メキシコ]](1976) [[:en:Teodoro González de León|テオドロ・ゴンサレス・デ・レオン]]と[[:en:Abraham Zabludovsky|アブラハム・ザブルードスキー]] |
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Luis Barragan - Casa Luis Barragan 張基義老師拍攝 010.jpg|[[ルイス・バラガン邸と仕事場|ルイスバラガンの家]](1948)[[ルイス・バラガン]] |
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=== その他地域におけるモダニズム建築 === |
=== その他地域におけるモダニズム建築 === |
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Sydney Opera House Sails edit02.jpg|[[シドニー・オペラハウス]] オーストラリアのシドニー、 [[ヨーン・ウツソン]] (1973) |
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== 日本における展開 == |
== 日本における展開 == |
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日本にも[[明治|明治時代]]末から[[大正|大正時代]]に鉄筋コンクリート造という新しい技術が伝えられ、[[遠藤於莵]]、[[本野精吾]]らによって装飾の少ないモダニズムの先駆的な作品が造られた。 |
日本にも[[明治|明治時代]]末から[[大正|大正時代]]に[[鉄筋コンクリート]]造という新しい技術が伝えられ、[[遠藤於莵]]、[[本野精吾]]らによって装飾の少ないモダニズムの先駆的な作品が造られた。 |
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一般に日本の近代建築運動の始まりは[[山田守]]・[[石本喜久治]]・[[堀口捨己]]らの[[分離派建築会]]に置かれる。当時の建築界では鉄筋コンクリート造等の構造技術的な側面に注目が集まる一方、[[ |
一般に日本の近代建築運動の始まりは[[山田守]]・[[石本喜久治]]・[[堀口捨己]]らの[[分離派建築会]]に置かれる。当時の建築界では鉄筋コンクリート造等の構造技術的な側面に注目が集まる一方、[[折衷主義]]的な建築観が主流であり、装飾のない建築は評価されなかった。こうした中、建築が芸術であることを主張し、過去の様式や装飾を否定した新しい造形を試みた分離派建築会の作品には、ドイツ[[表現主義]]の影響が見られる。 |
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旧式な折衷主義とモダニズムの対立として象徴的な例とされたのが[[東京国立博物館|帝室博物館]]の設計 |
旧式な折衷主義とモダニズムの対立として象徴的な例とされたのが1931年の[[東京国立博物館|帝室博物館]]の[[設計競技]]である。結果は[[帝冠様式]]の[[渡辺仁]]の案が当選し、26歳の[[前川國男]]の案は敗れた。後に前川自身が「あの案で建てられていたら、自分は顔を上げて上野を歩けなかっただろう」と述べているように、一概にモダニズム建築の方が優れているとは言い切れない。それはともかく、建築雑誌に紹介される作品は次第にモダニズム建築が主流になっていった。 |
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[[軍国主義]]の台頭を背景として、和風要素が設計競技の規定で要求されることも少なくなかった。1930年代には[[愛知県庁]]、[[名古屋市役所]]等の帝冠様式の建築が生まれた。[[満州]]など日本影響下の外地の方でも積極的に採用された(国内よりもむしろ影響力誇示のため日本的な意匠がより強く求められたためと考えられる)。 |
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第二次世界大戦後は、モダニズムの旗手として前川國男 |
[[第二次世界大戦]]後は、モダニズムの旗手として[[村野藤吾]]や[[前川國男]]、[[丹下健三]]らが建築界をリードした。また、日本の伝統建築(伊勢神宮や[[桂離宮]]などの[[数寄屋造り|数寄屋]]建築)とモダニズムの近親性が論じられた。これは柱と梁で構成される日本の伝統的建築と、煉瓦や石を積み上げて造る西洋の建築を対比し、前者がモダニズムの理念と適合しているとするものである。 |
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このように日本においては、モダニズム建築の理念が第二次世界大戦による中断を含みながらも急速に普及し、過去の歴史様式をまとった建築は否定されるようになった。この背景には、戦争の激化とともに物資が乏しくなったため、また戦後になると戦災から一刻も早く立ち直るため、とにかく時間をかけず廉価に建設することが社会的な要請として最優先され、[[職人]]が腕を振るって装飾を付けるようなことは無意味であり無駄だと考えられたこと、 |
このように日本においては、モダニズム建築の理念が第二次世界大戦による中断を含みながらも急速に普及し、過去の歴史様式をまとった建築は否定されるようになった。この背景には、戦争の激化とともに物資が乏しくなったため、また戦後になると戦災から一刻も早く立ち直るため、とにかく時間をかけず廉価に建設することが社会的な要請として最優先され、[[職人]]が腕を振るって装飾を付けるようなことは無意味であり無駄だと考えられたこと、海外及び日本の建築雑誌に紹介されるのはモダニズム建築ばかりであったこと、歴史主義建築がファシズム的と捉えられたことなどが理由として挙げられる。 |
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<!--現役の建築家では[[槇文彦]]や[[谷口吉生]]らがモダニズム建築の流れを汲む正統派とされる。[[磯崎新]]はポストモダンの代表的な建築家の一人とされる。(まるで彼らが抜きん出た代表格のような表現なので、誤解を生みます)--> |
<!--現役の建築家では[[槇文彦]]や[[谷口吉生]]らがモダニズム建築の流れを汲む正統派とされる。[[磯崎新]]はポストモダンの代表的な建築家の一人とされる。(まるで彼らが抜きん出た代表格のような表現なので、誤解を生みます)--> |
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! 建造物名 !! 設計者 !! 年 !! 所在地 !! 現況 !! 指定 |
! 建造物名 !! 設計者 !! 年 !! 所在地 !! 現況 !! 指定 |
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| {{Display none|/}}三井物産横浜 |
| {{Display none|/}}[[三井物産横浜ビル]]|| [[遠藤於莵]] || 1911年 || {{神奈川}}県横浜市|| style="text-align:center" | ○ || |
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| {{Display none|/}}西陣織物館|| [[本野精吾]] || 1915年 || |
| {{Display none|/}}[[京都市考古資料館]](旧西陣織物館)|| [[本野精吾]] || 1915年 || {{京都}}市上京区|| style="text-align:center" | ○ ||京都市指定文化財 |
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| {{Display none|/}} |
| {{Display none|/}}京都中央電話局西陣分局|| [[岩元禄]] || 1921年 || {{京都}}市上京区|| style="text-align:center" | ○ || [[重要文化財]] |
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| {{Display none|/}} |
| {{Display none|/}}京都中央電話局上分局|| [[吉田鉄郎]] || 1923年 || {{京都}}市上京区|| style="text-align:center" | ○ || 登録有形文化財 |
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| {{Display none|/}} |
| {{Display none|/}}[[旧山邑家住宅]]|| [[フランク・ロイド・ライト]] || 1924年 || {{兵庫}}県芦屋市|| style="text-align:center" | ○ || [[重要文化財]] |
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| {{Display none|/}} |
| {{Display none|/}}自邸|| [[アントニン・レーモンド]] || 1925年 || {{東京}}都港区|| style="text-align:center" | ✕ || |
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| {{Display none|/}} |
| {{Display none|/}}東京中央電信局|| [[山田守]] || 1925年 || {{東京}}都千代田区|| style="text-align:center" | ✕ || |
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| {{Display none|/}}[[ |
| {{Display none|/}}[[白木屋 (デパート)|白木屋]]本店|| [[石本喜久治]] || 1928年 || {{東京}}都中央区|| style="text-align:center" | ✕ || |
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| {{Display none|/}}[[ |
| {{Display none|/}}[[近三ビルヂング]]|| [[村野藤吾]] || 1931年 || {{東京}}都中央区|| style="text-align:center" | ○ || |
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| {{Display none|/}}[[ |
| {{Display none|/}}[[大阪朝日ビル]]|| [[竹中工務店]]([[石川純一郎 (建築家)|石川純一郎]]) || 1931年 || {{大阪}}市北区|| style="text-align:center" | ✕ || |
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| {{Display none|/}}[[大阪瓦斯ビルヂング]]|| [[安井武雄]] || 1933年 || {{大阪}}市中央区|| style="text-align:center" | ○ || |
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| {{Display none|/}}[[東京中央郵便局#旧局舎の概要|東京中央郵便局]]|| [[吉田鉄郎]] || 1933年 || {{東京}}都千代田区|| style="text-align:center" | △ || |
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| {{Display none|/}}[[同潤会アパート|同潤会江戸川アパート]]|| [[同潤会]] || 1934年 || {{東京}}都新宿区|| style="text-align:center" | ✕ || |
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|[[大阪市立大学]]本館 |
|[[大阪市立大学]]本館 |
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|1934年 |
|1934年 |
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|大阪市住吉区 |
|大阪市住吉区 |
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| style="text-align:center" | ○ |
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|[[登録有形文化財]] |
|[[登録有形文化財]] |
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| {{Display none|/}}黒部川第2発電所|| [[山口文象]] || 1935年 || |
| {{Display none|/}}[[小屋平ダム]](黒部川第2発電所)|| [[山口文象]] || 1935年 || {{富山}}県黒部市|| style="text-align:center" | ○ || |
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| {{Display none|/}}自邸|| [[土浦亀城]] || 1935年 || |
| {{Display none|/}}自邸|| [[土浦亀城]] || 1935年 || {{東京}}都品川区|| style="text-align:center" | ○ || 東京都指定文化財 |
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| {{Display none|/}}[[交通博物館]]|| [[土橋長俊]] |
| {{Display none|/}}[[交通博物館]]|| [[土橋長俊]]|| 1936年 || {{東京}}都千代田区|| style="text-align:center" | ✕ || |
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| {{Display none|/}}[[宇部市渡辺翁記念会館]]|| [[村野藤吾]] || 1937年 || |
| {{Display none|/}}[[宇部市渡辺翁記念会館]]|| [[村野藤吾]] || 1937年 || {{山口}}県宇部市|| style="text-align:center" | ○ || [[重要文化財]] |
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| {{Display none|/}}若狭邸|| [[堀口捨己]] || 1937年 || |
| {{Display none|/}}若狭邸|| [[堀口捨己]] || 1937年 || {{東京}}都目黒区|| style="text-align:center" | ✕ || |
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| {{Display none|/}}[[大阪中央郵便局#旧局舎|大阪中央郵便局]]|| [[吉田鉄郎]] || 1939年 || |
| {{Display none|/}}[[大阪中央郵便局#旧局舎時代|大阪中央郵便局]]|| [[吉田鉄郎]] || 1939年 || {{大阪}}市北区|| style="text-align:center" | ✕ || |
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| {{Display none|/}}旧神奈川県立近代美術館鎌倉館|| [[坂倉準三]] || 1951年 || |
| {{Display none|/}}旧神奈川県立近代美術館鎌倉館|| [[坂倉準三]] || 1951年 || {{神奈川}}県鎌倉市|| style="text-align:center" | ○ || |
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| {{Display none|/}}[[広島平和記念公園]]|| [[丹下健三]] || 1952年 || |
| {{Display none|/}}[[広島平和記念公園]]|| [[丹下健三]] || 1952年 || {{広島}}市中区|| style="text-align:center" | ○ || |
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| {{Display none|/}}[[日本真珠会館]]|| [[光安義光]] |
| {{Display none|/}}[[日本真珠会館]]|| [[光安義光]]|| 1952年 || {{兵庫}}県神戸市|| style="text-align:center" | ✕ || |
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| {{Display none|/}}[[駐大阪・神戸米国総領事館|在神戸米国総領事館]]|| [[ミノル・ヤマサキ]] || 1954年 || |
| {{Display none|/}}[[駐大阪・神戸米国総領事館|在神戸米国総領事館]]|| [[ミノル・ヤマサキ]] || 1954年 || {{兵庫}}県神戸市|| style="text-align:center" | ✕ || |
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| {{Display none|/}}[[世界平和記念聖堂]]|| [[村野藤吾]] || 1954年 || |
| {{Display none|/}}[[世界平和記念聖堂]]|| [[村野藤吾]] || 1954年 || {{広島}}市中区|| style="text-align:center" | ○ || 重要文化財 |
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| {{Display none|/}}法政大学55年館・58年館|| [[大江宏]] || 1955・58年 || {{東京}}都千代田区|| |
| {{Display none|/}}法政大学55年館・58年館|| [[大江宏]] || 1955・58年 || {{東京}}都千代田区|| style="text-align:center" | ✕ || |
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| {{Display none|/}}[[くまもと森都総合病院|熊本逓信病院]]|| [[山田守]] || 1956年 || |
| {{Display none|/}}[[くまもと森都総合病院|熊本逓信病院]]|| [[山田守]] || 1956年 || {{熊本}}市中央区|| style="text-align:center" | ○ || |
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| {{Display none|/}}[[ |
| {{Display none|/}}[[日比谷図書文化館|日比谷図書館]]|| [[高橋武士]] || 1957年 || {{東京}}都千代田区|| style="text-align:center" | ○ || |
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| {{Display none|/}}[[ |
| {{Display none|/}}[[香川県庁舎]]東館|| [[丹下健三]] || 1958年 || {{香川}}県高松市|| style="text-align:center" | ○ || |
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| {{Display none|/}}[[ |
| {{Display none|/}}[[京都会館]]|| [[前川國男]] || 1960年 || {{京都}}市左京区|| style="text-align:center" | ○ || |
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| {{Display none|/}}[[ |
| {{Display none|/}}[[NTT日比谷ビル|日比谷電電ビル]]|| [[國方秀男]] || 1961年 || {{東京}}都千代田区|| style="text-align:center" | ✕ || |
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Yamamura house07n4272.jpg|旧山邑家住宅 / 1924 |
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Osaka Gas Building Osaka Japan02-r.jpg|大阪瓦斯ビルヂング / 1933 |
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東京中央郵便局 全景.jpg|東京中央郵便局 / 1933 |
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House-Kunio-Maekawa-03.jpg|東京の[[前川國男]]邸(1935 |
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Transportation Museum.JPG|交通博物館 / 1936 |
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Watanabe Memorial Hall (Ube).jpg|宇部市渡辺翁記念会館 / 1937 |
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大阪中央郵便局 20071111.jpg|大阪中央郵便局 / 1939 |
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55年館.jpg|法政大学55年館 / 1955 |
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International House of Japan.jpg|国際文化会館 / 1955 |
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NTT west japan kyushu hospital 1.jpg|熊本逓信病院 / 1956 |
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Kagawa-Pref-Office-east.jpg|香川県庁舎東館 / 1958 |
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京都会館.jpg|京都会館 / 1960 |
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NTT Communications (headquarters).jpg|日比谷電電ビル / 1961 |
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Yoyogi National Gymnasium 2008.jpg|[[国立代々木競技場]] / 1964 |
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Igakukan Hall.JPG|立命館大学以学館 / 1965 |
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[[ファイル:Tokyo Metropolitan Government Building 2007-October.jpg|thumb|right|150px|東京都庁舎 / 丹下健三設計]] |
[[ファイル:Tokyo Metropolitan Government Building 2007-October.jpg|thumb|right|150px|東京都庁舎 / 丹下健三設計]] |
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<!--なんで?→ 東京都庁は工房設計色が強くまた重要ではなく作例として適切とは考えられないので、文中の例示と画像変更を検討ください--> |
<!--なんで?→ 東京都庁は工房設計色が強くまた重要ではなく作例として適切とは考えられないので、文中の例示と画像変更を検討ください--> |
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モダニズム建築の理念が普及し、白い箱のような装飾の無い建物や高層ビルの並ぶ街並みが生れたが、こうした都市・建築は合理性・機能性を重視するあまり、味気なくなってしまったのではないか、という批判が起こり、都市景観の破壊者とされるようになってしまった<ref>篠原修[http://www.engineer-architect.jp/news/files/2012/12/maekawa100906.pdf 前川國男の 5 原則 ー モダニズム建築に都市への貢献は不可能だったのか ー]</ref>。 |
モダニズム建築の理念が普及し、白い箱のような装飾の無い建物や高層ビルの並ぶ街並みが生れたが、こうした都市・建築は合理性・機能性を重視するあまり、味気なくなってしまったのではないか、という批判が起こり、都市の魅力や景観、歴史、風土の破壊者とされるようになってしまった<ref>篠原修 [http://www.engineer-architect.jp/news/files/2012/12/maekawa100906.pdf 前川國男の 5 原則 ー モダニズム建築に都市への貢献は不可能だったのか ー]</ref>。 |
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1960年代後半頃よりモダニズム運動は退潮に向かい<ref name="toushin">[https://www.toshin.com/sekai/interview/19/ 1万キロのユーロ=アジア世界にきらめく文明史 ~装飾から人類の営みを探る~ | SEKAI 未来を広げるWEBマガジン] by [[東進]]</ref>、[[1972年]]には[[ロバート・ヴェンチューリ]]らが著書『ラスベガス』(Learning from Las Vegas)を出版し、モダニズムの理想は一般の人々のためには高尚過ぎると批判、むしろ猥雑で張りぼてのような[[ラスベガス]]や全米のロードサイドなどの日常的風景などを観察してその建築的シンボルを学ぶべきだと提唱、論議を呼んだ。 |
1960年代後半頃よりモダニズム運動は退潮に向かい<ref name="toushin">[https://www.toshin.com/sekai/interview/19/ 1万キロのユーロ=アジア世界にきらめく文明史 ~装飾から人類の営みを探る~ | SEKAI 未来を広げるWEBマガジン] by [[東進]]</ref>、[[1972年]]には[[ロバート・ヴェンチューリ]]らが著書『ラスベガス』(Learning from Las Vegas)を出版し、モダニズムの理想は一般の人々のためには高尚過ぎると批判、むしろ猥雑で張りぼてのような[[ラスベガス]]や全米のロードサイドなどの日常的風景などを観察してその建築的シンボルを学ぶべきだと提唱、論議を呼んだ。 |
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== モダニズム建築の評価 == |
== モダニズム建築の評価 == |
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かつての「モダニズム建築の旗手」たちが設計した建築は既に築後数十年が経過して老朽化が進み、今日の目から見ればさすがに時代性を感じさせており、機能的にも不十分な点が見られるほか、一般への理解のされにくさからデベロッパーや自治体にとってもさほど「売り」にならず、解体される事が多い。21世紀に入り丸の内周辺の初期モダニズム建築が次々解体されるも大衆的関心を集めない一方で、非モダニズムの[[東京駅]]駅舎が復元され大衆的な支持も受けたことはモダニズムの敗北と受け止められた<ref>[https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00261/041500005/?P=2 日本唯一?編集長がイラストを描く建築ルポはこうして始まった(2ページ目) | 日経クロステック(xTECH)]</ref><ref>[https://www.10plus1.jp/monthly/2012/12/issue00.php 10+1 website|東京駅──再生と復元の美学|テンプラスワン・ウェブサイト]</ref>。 |
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{{独自研究|date=2021-5}} |
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⚫ | モダニズム建築の良さは一般に理解されにくい。例えば、「ミースの[[シーグラム・ビルディング]]や[[SOM]]の[[リーバ・ハウス]]は、デザイン的にも機能的にもきわめて優れたモダニズムの超高層建築であるが、その優れた点をきちんと理解していないその後の建築家らが、表面的な物真似をして、平凡で粗悪な、四角い箱というだけの無味乾燥な建築を作り続けたために、モダニズム建築は誤解され、批判ばかりを助長する結果となった」というような言い方をされることがある。これは、おそらく正しいことを書き記しているのであろうが、素人には、十分に理解できないところがある。その理由として、モダニズム建築のよさ、または、よいモダニズム建築とそうでないものとの違いを、単なる表層に限ることなく、機能や思想まで含めて、具体的に、具体例をもって、示さないからである。したがって、感覚的にしかモダニズム建築の良さが理解できない面があり、「この作品は、とても端整である」といったイメージの評価や抽象的な評価に留まることがある。この点については、建築家でさえ全ての点を理解できないことがあるのだから無理もないとする意見がある一方で、モダニズム建築の優れた点を素人にも判るレベルで具体的に示す努力を怠ってきた建築家や建築評論家への批判もある。 |
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保存を望む声もある一方、更新を続ける社会の耐久消費財として作られたのだから安易な保存は不要とする[[馬場璋造]]のような意見もある。また、[[都城市民会館]]解体問題の際にその設計者の[[菊竹清訓]]は、単純な保存ではなく大屋根をガラスに置き換えることを提案した<ref name="kurakata">[https://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/729/ モダニズム建築の保存はなぜ難しいのか? | 倉方俊輔 ‹ Issue No.49 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース]</ref>。1990年代までは文化財保存の動きもあったものの、その後の[[バブル崩壊]]で成熟した社会への移行に失敗したことから、再びスクラップアンドビルドによって稼ぐほかなくなったという事情もある<ref>[https://mi-mollet.com/articles/-/25323?page=2 日本の歴史的建物が次々と壊されている本当の理由 | 社会の今、未来の私 | mi-mollet(ミモレ) | 明日の私へ、小さな一歩!(2/2)]</ref>。 |
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⚫ | モダニズム建築の良さは一般に理解されにくい。例えば、「ミースの[[シーグラム・ビルディング]]や[[SOM]]の[[リーバ・ハウス]]は、デザイン的にも機能的にもきわめて優れたモダニズムの超高層建築であるが、その優れた点をきちんと理解していないその後の建築家らが、表面的な物真似をして、平凡で粗悪な、四角い箱というだけの無味乾燥な建築を作り続けたために、モダニズム建築は誤解され、批判ばかりを助長する結果となった」というような言い方をされることがある。これは、おそらく正しいことを書き記しているのであろうが、素人には、十分に理解できないところがある。その理由として、モダニズム建築のよさ、または、よいモダニズム建築とそうでないものとの違いを、単なる表層に限ることなく、機能や思想まで含めて、具体的に、具体例をもって、示さないからである。したがって、感覚的にしかモダニズム建築の良さが理解できない面があり、「この作品は、とても端整である」といったイメージの評価や抽象的な評価に留まることがある。この点については、建築家でさえ全ての点を理解できないことがあるのだから無理もないとする意見がある一方で、モダニズム建築の優れた点を素人にも判るレベルで具体的に示す努力を怠ってきた建築家や建築評論家への批判もある{{要出典|date=2022-04-22}}。 |
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== 脚注 == |
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2024年10月25日 (金) 15:10時点における最新版
モダニズム建築(モダニズムけんちく、英: Modern Architecture)または近代建築(きんだいけんちく)は、機能的、合理的な造形理念に基づく建築である。産業革命以降の工業化社会を背景として19世紀末から新しい建築を求めるさまざまな試行錯誤が各国で行われ、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立した。19世紀以前の様式建築(歴史的な意匠)を否定し、工業生産による材料(鉄・コンクリート、ガラス)を用いて、それらの材料に特有の構造、表現をもつ[1]。
20世紀の建築と都市計画に影響を与えた建築家は、ル・コルビュジエ、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロピウス、フランク・ロイド・ライト、アルヴァ・アアルトなどである。
代表的な作品は、グロピウスのバウハウス校舎(1926年)、ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナ・パビリオン(1929年)、ル・コルビュジエのサヴォア邸(1931年)などである。
モダニズム建築
[編集]アーツ・アンド・クラフツに影響を受けたドイツ工作連盟の活動と、芸術学校バウハウスの開設がモダニズム建築の展開のうえで大きな推進力になった。ドイツ工作連盟によって産業と芸術の統一が意図され、ペーター・ベーレンスのAEGタービン工場(1910年)が新しい建築のあり方を提示した。ベーレンスの元で学んだヴァルター・グロピウスは、バウハウス(1919年)の教育において建築を中心にした総合芸術を目指した。グロピウスはロシア構成主義やオランダのデ・ステイルの合理主義・機能主義からも影響を受けた。1925年にはバウハウス叢書として『国際建築』(Internationale Architektur)が刊行された。
1927年の国際連盟コンペでは入選9案のうちにル・コルビュジエの計画案を含まれていたが、審査員の中の保守派達(ボザール流の旧式な建築家)はル・コルビュジエ案は規約違反であるとして排斥し、保守派と近代建築運動側の対立が表面化した。これをきっかけに翌年CIAM(Congrès International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)が開催され、グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエら24人の建築家が参加した(CIAMは1956年まで各国で開催された)。CIAMを中心にした建築家たちの主張と実践により、新しい建築の理念が確立され、これらの動向は各国に急速に浸透し、機能的・合理的で装飾のない建築が国境を超えていった。
1932年には、ニューヨーク近代美術館(MOMA)でフィリップ・ジョンソンとヘンリー・ヒッチコックの企画によりCIAMの建築家らの作品を紹介した「近代建築展」が開催された。同展の図録『インターナショナル・スタイル』も大きな影響を及ぼし、インターナショナル・スタイル(国際様式)建築という呼び方も一般的になった。
これらの1920年代をピークとする建築運動を近代建築運動(Modern Movements in Architecture)という。近年は機能主義建築、合理主義建築、あるいはインターナショナル・スタイル建築として主張されてきたこれらの動向を総合してモダニズム建築と呼ぶことが多い[2]。
特徴
[編集]ル・コルビュジエは、「新しい建築の5つの要点(いわゆる近代建築の五原則)」としてピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面を挙げたが、これらは鉄筋コンクリート造や鉄骨造という新しい技術によって、石造・煉瓦造が持っていた制約から自由になったことで可能になったものである。モダニズム建築の多くは装飾のない直線的構成を持つ立方体を特徴とし、「豆腐のような」「白い箱」と揶揄される。機能的・合理的で、地域性や民族性を超えた普遍的なデザインとされた。
またモダニズムの建築家は都市改造、社会改革にも深い関心を持ち、ドイツのジードルング(公営集合住宅)建設や、都市問題解決のための提言(例:ル・コルビュジエのパリ改造計画=輝く都市やCIAMのアテネ憲章)などの活動を行った。
しかし20世紀半ばになると、装飾のない建物が一般的になり、近代建築運動は次第に革新性を失っていった。(CIAMの崩壊=1956年が一つの指標になるだろう)
1954年、ジークフリート・ギーディオンが新地方主義の構想を発表した。モダニズム建築がアジア・アフリカ各国にも普及するに従い、風土への適用が課題となったものである。ル・コルビュジエのチャンディーガルも新地方主義の実践の一つといわれる。
成立の背景
[編集]近世以降のヨーロッパでは、古代ギリシア・ローマ建築に起源を持ち、ルネサンス建築で復興された建築様式が長く主流とされてきた。建築家は過去の歴史的様式を深く理解し、芸術的な作品を造ることが求められてきた。しかし、鉄・コンクリートといった新しい素材が使われるようになり、また社会生活も多様となって建築に対する様々な要求が起こってくると、過去の様式を桎梏として、そこから離脱しようという試みが行われるようになってきた。
建築、工芸におけるモダンデザインの起源は、19世紀イギリスのウィリアム・モリスによるアーツ・アンド・クラフツ運動に置かれることが多い[3]。産業革命の先進国イギリスでは機械による大量生産が進み、安価であるが低俗なデザインの製品があふれていた。モリスはこうした状況を批判し、中世の職人が手仕事で作り出した工芸品に憧れ、生活と芸術の統一を主張した。モリスの邸宅としてフィリップ・ウェッブが設計した「赤い家」(レッド・ハウス、1860年)は煉瓦造で中世風の外観を持つ。一見、過去への回顧的な装いであるが、素材とデザインを統一させた中に美を表現しようとする合理的、革新的な要素を持っていた。モリスが始めたアーツ・アンド・クラフツ運動は各国に大きな影響を与えた。
フランスではアール・ヌーヴォーの建築が過去の装飾を否定し、植物からモチーフを取った曲線的、自由なデザインを用いた。 ドイツのユーゲント・シュティール、オーストリアのゼツェッシオン(ウィーン分離派)なども、国や作家の個性により多様ではあるが、歴史主義から離れた自由な装飾を用いている点で同様の傾向を示している。
ウィーン分離派の中心人物オットー・ワーグナーは「芸術はただ必要によってのみ支配される」[4]として、機能性、合理性を重視した近代建築の理念を表現した。その影響を受けたアドルフ・ロースはさらに「装飾は犯罪である」と宣言し、装飾そのものを否定した[5]。建築は用途や素材に従って設計するべきであり、装飾を付けるのは原始人の刺青のようなもので、文化の程度が低いことを示すものだという主張は大きな反響を呼んだ。
また、アメリカのフランク・ロイド・ライトの作品(例:ロビー邸、1909年)は間仕切りのない流れるような空間構成によってモダニスムの建築家に影響を与えた[6]。
新技術の導入
[編集]技術的には、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の普及、大量生産が可能になった板ガラスがモダニズム建築の前提条件となった。鉄骨造の構造物としては、鉄橋、駅舎、博覧会施設(クリスタルパレス、エッフェル塔)などが先駆となって、後に高層ビルの建設にも適用された(特にアメリカでシカゴ大火の復興に際して高層ビルの建設が相次いだ)。当初、鉄筋コンクリートは石材の代用品とみなされていたが、やがてオーギュスト・ペレなどの実践によってコンクリート特有の造形表現が知られるようになった。
新技術による作品例
[編集]-
ウィリアム・ル・バロン・ジェニー作、住宅保険ビル(シカゴ、1884年)
モダニズム建築の代表作品
[編集]建造物名 | 設計者 | 年 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
フランクリン街のアパート | オーギュスト・ペレ | 1903年 | フランス, パリ16区 | 鉄筋コンクリートによる先駆的作品 |
AEGタービン工場 | ペーター・ベーレンス | 1910年 | ドイツ | |
シュレーダー邸 | ヘリット・リートフェルト | 1924年 | オランダ | |
バウハウス校舎 | ヴァルター・グロピウス | 1926年 | ドイツ | |
バルセロナ・パビリオン | ミース・ファン・デル・ローエ | 1930年 | スペイン | |
サヴォア邸 | ル・コルビュジエ | 1931年 | フランス | |
ユニテ・ダビタシオン | ル・コルビュジエ | 1952年 | フランス | |
国連本部ビル | オスカー・ニーマイヤーほか | 1952年 | アメリカ | |
リーバ・ハウス | SOM | 1952年 | アメリカ | |
シーグラム・ビルディング | ミース・ファン・デル・ローエ | 1958年 | アメリカ | |
ブラジリアの都市計画・建築群 | オスカー・ニーマイヤー | 1956-60年 | アメリカ | |
イスラエル・テルアビブの「白い街」 | イスラエル |
ギャラリー
[編集]ヨーロッパにおける初期モダニズム建築(1890年代-1914)
[編集]-
グラスゴー美術学校(1896–99) / チャールズ・レニー・マッキントッシュ設計
-
フランクリン街のアパート(1903) / オーギュスト・ペレ設計
-
ウィーン郵便貯金局(1904-1906) / オットー・ワーグナー設計
-
AEGタービン工場(1909) / ペーター・ベーレンス設計
-
ウィーンのシュタイナー・ハウス (1910) / アドルフ・ロース設計
-
パリの階段式コンクリートマンション(1912-1914)/ アンリ・ソヴァージュ設計
-
ガラス・パヴィリオン(1914) / ブルーノ・タウト設計
アメリカの初期モダニズム建築(1890年代-1914)
[編集]-
イリノイ州リバーフォレストのウィンズロー邸(1893-94)/ フランク・ロイド・ライト設計
-
イリノイ州オークパークのアーサー・ハートリー邸(1902)
-
ラーキンビル(1904-1906)/ フランク・ロイド・ライト設計
-
ユニティテンプルの内部(1905–1908) / フランク・ロイド・ライト設計
-
ロビー邸(1909)/ フランク・ロイド・ライト設計
初期の高層ビル
[編集]-
シカゴのホーム・インシュアランス・ビル(1883)/ ウィリアム・ル・バロン・ジェニー設計
-
ニューヨークのフラットアイアンビルディング (1903)
-
シカゴのカーソン・ピリー・スコット・ストア(1904-1906)/ ルイス・サリヴァン設計
-
ウールワース・ビルディングとニューヨークのスカイライン。内側はモダンだが外側はネオゴシック様式 。
-
ウールワース・ビルディング(1912)のネオゴシック様式の頭頂部 / キャス・ギルバート設計
ヨーロッパとロシアにおける近代主義の台頭(1918-1931)
[編集]インターナショナル・スタイル(1918-1950年代)
[編集]-
ヴァイセンホーフ・ジードルング(1927)
-
ヴァイセンホーフ・ジードルング(1927)/ ル・コルビュジエ設計
-
サヴォア邸 (1928–31) / ル・コルビュジエ設計
-
ポール・ポワレ別邸(1921-1925)/ ロベール・マレ=ステヴァンス設計
-
ノアイユ子爵夫妻邸(1923)/ ロベール・マレ=ステヴァンス設計
-
マレ=ステヴァンス通り(フランス語版)の集合住宅 (1926–1927) / ロベール・マレ=ステヴァンス設計
バウハウスとドイツのヴェルクバンド(1919-1932)
[編集]-
デッサウ・バウハウス(1926)/ ヴァルター・グロピウス設計
-
ベルナウのドイツ労働組合学校(1928-30)/ ハンネス・マイヤー設計
-
ハウス・アム・ホルン(1923) / ゲオルク・ムッヘ設計
-
バルセロナ・パビリオン(1929) / ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ設計
-
ヴァイセンホーフ・ジードルング (1927) / ドイツ工作連盟設計
表現主義建築(1918-1931)
[編集]-
ベルリン大劇場ホワイエ (1919) / ハンス・ペルツィヒ設計
-
アインシュタイン塔 (1920–24) / エーリヒ・メンデルゾーン設計
-
ベルリンのモスハウス(1921-23) / エーリヒ・メンデルゾーン設計
-
第二ゲーテアヌム (1924 - 1928)/ ルドルフ・シュタイナー設計
-
ヘット・シップ(1917-1920) / ミシェル・ド・クラーク設計
構成主義建築(1919-1931)
[編集]-
第三インターナショナル記念塔の模型(1919)/ ウラジーミル・タトリン設計
-
モスクワのレーニン廟(1924) / アレクセイ・シューセフ設計
-
パリ万国博覧会のソ連パビリオン(1925) / コンスタンティン・メルニコフ設計
-
モスクワのルサコフ労働者クラブ(1928)/ コンスタンティン・メルニコフ設計
-
ゾンネストレイナル療養所(1926-1928) /ジャン・ダイカーとB・ベイフゥート 設計
アールデコ
[編集]-
パリ万国博覧会(1925)におけるギャラリー・ラファイエットのパビリオン
-
サマリテーヌ百貨店デパート (1925–28)/ アンリ・ソヴァージュ設計
アメリカにおけるアールデコ。超高層ビルのスタイル(1919–1939)
[編集]-
アメリカン・ラジエター・ビル(1924)/ レイモンド・フッド設計
-
デトロイトのガーディアン・ビルディング(1927–29) / ワート・C・ロウランド設計
-
クライスラー・ビルディング(1928–30)/ ウィリアム・ヴァン・アレン設計
-
ゼネラルエレクトリックビル(1933) / Cross&Cross設計
-
コムキャスト・ビルディング(1933) / レイモンド・フッド設計
流線型のスタイルと公共事業行政(1933-1939)
[編集]-
パンパシフィック・オーディトリアム 、ロサンゼルス(1936)
-
サンフランシスコ海事博物館(1936)もともとは公衆浴場だった
-
フーバーダム取水塔(1931–36)
-
ロングビーチ中央郵便局 (1933–34)
アメリカにおけるモダニズム建築(1919-1939)
[編集]-
エニスハウス(1924) / フランク・ロイド・ライト設計
-
落水荘 (1928-1934) / フランク・ロイド・ライト設計
-
ローヴェル・ビーチ・ハウス(1926)/ ルドルフ・シンドラー設計
-
ロヴェル邸(1927-29)/ リチャード・ノイトラ設計
1937年のパリ国際博覧会と独裁者の建築
[編集]-
1937年のパリ万国博覧会で、アルベルト・シュペーア設計のナチス・ドイツのパビリオン(左)はボリス・イオファン設計のソビエト連邦のパビリオン(右)と対峙していた
-
スペイン第2共和国パビリオン(1937/復元)/ ホセ・ルイ・セルト設計
-
イタリア、コモのカサ・デル・ファシオ (ファシズムの家)(1932-1936)/ ジュゼッペ・テラーニ設計
ニューヨーク万国博覧会(1939)
[編集]-
TrylonとPerisphere、1939年の世界博覧会のシンボル
-
フォードのパビリオン、 ストリームライン・モダンスタイル
-
RCAパビリオンは最初の公共テレビ放送を特集した
-
将来の家がどのように見えるかを示す、ガラスの家のリビングルーム
第二次世界大戦:戦時中の技術革新と戦後の再建(1939-1945)
[編集]-
1944年に爆撃で破壊されたル・アーブルの中心
-
日本に向かう途中のクォンセット・ハット (1945)
ル・コルビュジエとシテ・ラディウス (1947年 - 1952年)
[編集]-
パリのシティドアーキテクチャーエデュパトリモーヌで開催されたユビテーゼの元ユニットのサロンとテラス(1952)
アメリカにおける戦後モダニズム建築(1945-1985)
[編集]フランク・ロイド・ライト
[編集]-
フロリダサザンカレッジのファイファーチャペル設計:Frank Lloyd Wright(1941-1958)
-
ジョンソンワックス本部および研究センター(1944-1950)
-
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館 、 フランク・ロイド・ライト(1946-1959)
ヴァルター・グロピウスとマルセル・ブロイヤー
[編集]-
ニューヨークのパンナムビル(現在はメットライフ・ビルディング )(1958-1963)/ ヴァルター・グロピウスおよびThe Architects Collaborative
ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ
[編集]-
ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ設計、1958年、ニューヨーク市のシーグラム・ビルディング
リチャード・ノイトラとチャールズ&レイ・イームズ
[編集]-
リチャード・ノイトラによるロサンゼルス(1950)のニュートラ事務所ビル
-
コンスタンスパーキンスハウス リチャード・ノイトラ 、ロサンゼルス(1962)
スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリルとウォレス・ハリソン
[編集]-
リーバ・ハウス(1951–52)設計:スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル
-
メーカー・トラスト・カンパニーの構築によって、 スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル、ニューヨーク(1954)
フィリップ・ジョンソン
[編集]エーロ・サーリネン
[編集]-
ゼネラルモーターズテクニカルセンター本館(1949 - 55年)
ルイス・I・カーン
[編集]-
ロチェスターのファースト・ユニテリアン教会(1962)
-
ソーク研究所 (1962–63)
-
リチャーズ医学研究所 (1957–61)
-
バングラデシュ国会議事堂 (1962 - 74年)
イオ・ミン・ペイ
[編集]-
マサチューセッツ工科大学 グリーンビル(1962-64)
-
コロラド州ボールダーの国立大気研究センター (1963 - 67年)
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ワシントンDCのナショナル・ギャラリー・オブ・アートのイーストウィング(1978)
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パリのルーブル美術館 ピラミッド(1983年 - 89年)
ヨーロッパにおける戦後モダニズム建築(1945-1975)
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ロンドンのロイヤルナショナルシアター 、 Denys Lasdun (1967 - 1976)
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ヘルシンキ工科大学講堂、 アルヴァ・アールト (1964)
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ベルギー、 リエージュ大学病院センターby Charles Vandenhove(1962–82)
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ホセ・ルイ・セルト (1959年 - 1964年)によって en:Fondation Maeght
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ポーランドのワルシャワ中央駅(Arseniusz Romanowicz(1975))
ラテンアメリカにおけるモダニズム建築
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MAMリオ博物館(1960) en:Affonso Eduardo Reidy
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ブラジル国会議事堂(1956年 - 61年)オスカー・ニーマイヤー
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ブラジリア大聖堂 (1958年 - 1970年)オスカー・ニーマイヤー
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ブラジル大統領府(1958年 - 1960年) オスカー・ニーマイヤー
その他地域におけるモダニズム建築
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シドニー・オペラハウス オーストラリアのシドニー、 ヨーン・ウツソン (1973)
日本における展開
[編集]日本にも明治時代末から大正時代に鉄筋コンクリート造という新しい技術が伝えられ、遠藤於莵、本野精吾らによって装飾の少ないモダニズムの先駆的な作品が造られた。
一般に日本の近代建築運動の始まりは山田守・石本喜久治・堀口捨己らの分離派建築会に置かれる。当時の建築界では鉄筋コンクリート造等の構造技術的な側面に注目が集まる一方、折衷主義的な建築観が主流であり、装飾のない建築は評価されなかった。こうした中、建築が芸術であることを主張し、過去の様式や装飾を否定した新しい造形を試みた分離派建築会の作品には、ドイツ表現主義の影響が見られる。
旧式な折衷主義とモダニズムの対立として象徴的な例とされたのが1931年の帝室博物館の設計競技である。結果は帝冠様式の渡辺仁の案が当選し、26歳の前川國男の案は敗れた。後に前川自身が「あの案で建てられていたら、自分は顔を上げて上野を歩けなかっただろう」と述べているように、一概にモダニズム建築の方が優れているとは言い切れない。それはともかく、建築雑誌に紹介される作品は次第にモダニズム建築が主流になっていった。
軍国主義の台頭を背景として、和風要素が設計競技の規定で要求されることも少なくなかった。1930年代には愛知県庁、名古屋市役所等の帝冠様式の建築が生まれた。満州など日本影響下の外地の方でも積極的に採用された(国内よりもむしろ影響力誇示のため日本的な意匠がより強く求められたためと考えられる)。
第二次世界大戦後は、モダニズムの旗手として村野藤吾や前川國男、丹下健三らが建築界をリードした。また、日本の伝統建築(伊勢神宮や桂離宮などの数寄屋建築)とモダニズムの近親性が論じられた。これは柱と梁で構成される日本の伝統的建築と、煉瓦や石を積み上げて造る西洋の建築を対比し、前者がモダニズムの理念と適合しているとするものである。
このように日本においては、モダニズム建築の理念が第二次世界大戦による中断を含みながらも急速に普及し、過去の歴史様式をまとった建築は否定されるようになった。この背景には、戦争の激化とともに物資が乏しくなったため、また戦後になると戦災から一刻も早く立ち直るため、とにかく時間をかけず廉価に建設することが社会的な要請として最優先され、職人が腕を振るって装飾を付けるようなことは無意味であり無駄だと考えられたこと、海外及び日本の建築雑誌に紹介されるのはモダニズム建築ばかりであったこと、歴史主義建築がファシズム的と捉えられたことなどが理由として挙げられる。
日本の代表作品
[編集]現況欄の○は現存、✕は現存せず、△は一部現存
建造物名 | 設計者 | 年 | 所在地 | 現況 | 指定 |
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三井物産横浜ビル | 遠藤於莵 | 1911年 | 神奈川県横浜市 | ○ | |
京都市考古資料館(旧西陣織物館) | 本野精吾 | 1915年 | 京都市上京区 | ○ | 京都市指定文化財 |
京都中央電話局西陣分局 | 岩元禄 | 1921年 | 京都市上京区 | ○ | 重要文化財 |
京都中央電話局上分局 | 吉田鉄郎 | 1923年 | 京都市上京区 | ○ | 登録有形文化財 |
旧山邑家住宅 | フランク・ロイド・ライト | 1924年 | 兵庫県芦屋市 | ○ | 重要文化財 |
自邸 | アントニン・レーモンド | 1925年 | 東京都港区 | ✕ | |
東京中央電信局 | 山田守 | 1925年 | 東京都千代田区 | ✕ | |
白木屋本店 | 石本喜久治 | 1928年 | 東京都中央区 | ✕ | |
近三ビルヂング | 村野藤吾 | 1931年 | 東京都中央区 | ○ | |
大阪朝日ビル | 竹中工務店(石川純一郎) | 1931年 | 大阪市北区 | ✕ | |
大阪瓦斯ビルヂング | 安井武雄 | 1933年 | 大阪市中央区 | ○ | |
東京中央郵便局 | 吉田鉄郎 | 1933年 | 東京都千代田区 | △ | |
同潤会江戸川アパート | 同潤会 | 1934年 | 東京都新宿区 | ✕ | |
大阪市立大学本館 | 大阪市建築課(伊藤正文) | 1934年 | 大阪市住吉区 | ○ | 登録有形文化財 |
小屋平ダム(黒部川第2発電所) | 山口文象 | 1935年 | 富山県黒部市 | ○ | |
自邸 | 土浦亀城 | 1935年 | 東京都品川区 | ○ | 東京都指定文化財 |
交通博物館 | 土橋長俊 | 1936年 | 東京都千代田区 | ✕ | |
宇部市渡辺翁記念会館 | 村野藤吾 | 1937年 | 山口県宇部市 | ○ | 重要文化財 |
若狭邸 | 堀口捨己 | 1937年 | 東京都目黒区 | ✕ | |
大阪中央郵便局 | 吉田鉄郎 | 1939年 | 大阪市北区 | ✕ | |
旧神奈川県立近代美術館鎌倉館 | 坂倉準三 | 1951年 | 神奈川県鎌倉市 | ○ | |
広島平和記念公園 | 丹下健三 | 1952年 | 広島市中区 | ○ | |
日本真珠会館 | 光安義光 | 1952年 | 兵庫県神戸市 | ✕ | |
在神戸米国総領事館 | ミノル・ヤマサキ | 1954年 | 兵庫県神戸市 | ✕ | |
世界平和記念聖堂 | 村野藤吾 | 1954年 | 広島市中区 | ○ | 重要文化財 |
法政大学55年館・58年館 | 大江宏 | 1955・58年 | 東京都千代田区 | ✕ | |
熊本逓信病院 | 山田守 | 1956年 | 熊本市中央区 | ○ | |
日比谷図書館 | 高橋武士 | 1957年 | 東京都千代田区 | ○ | |
香川県庁舎東館 | 丹下健三 | 1958年 | 香川県高松市 | ○ | |
京都会館 | 前川國男 | 1960年 | 京都市左京区 | ○ | |
日比谷電電ビル | 國方秀男 | 1961年 | 東京都千代田区 | ✕ | |
立命館大学以学館 | 富家宏泰 | 1965年 | 京都市北区 | ○ | |
愛知県立芸術大学 | 吉村順三 | 1971年 | 愛知県長久手市 | △ |
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旧山邑家住宅 / 1924
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大阪瓦斯ビルヂング / 1933
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東京中央郵便局 / 1933
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東京の前川國男邸(1935
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交通博物館 / 1936
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宇部市渡辺翁記念会館 / 1937
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大阪中央郵便局 / 1939
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法政大学55年館 / 1955
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国際文化会館 / 1955
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熊本逓信病院 / 1956
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香川県庁舎東館 / 1958
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京都会館 / 1960
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日比谷電電ビル / 1961
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国立代々木競技場 / 1964
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立命館大学以学館 / 1965
補足
[編集]モダニズム建築(近代主義建築)は、普遍性・国際性を主張するが、いうまでもなくその表現には幅があり、「まったく同じ様式が世界中に普及した」訳ではない。
モダニズム建築は20世紀になって突然生まれたものではない。建築を理念によって支えるという点は新古典主義建築において萌芽したものであるし、要求に則した建築を機能的に設計するというプロセスは、用途や要求などの諸要素に対応して様々な様式を採用するという19世紀の歴史主義建築の手法においてもみられる現象である。むしろモダニズム建築は、それまでの建築思想を拡張し、再構成することによって成立したと言える。
単に装飾を省略するだけではモダニズム建築は成立しない。18世紀後期に相対化された歴史的様式の代わりに、普遍的な「空間」の概念が導入されている。
モダニズム以降
[編集]モダニズム建築の理念が普及し、白い箱のような装飾の無い建物や高層ビルの並ぶ街並みが生れたが、こうした都市・建築は合理性・機能性を重視するあまり、味気なくなってしまったのではないか、という批判が起こり、都市の魅力や景観、歴史、風土の破壊者とされるようになってしまった[7]。
1960年代後半頃よりモダニズム運動は退潮に向かい[8]、1972年にはロバート・ヴェンチューリらが著書『ラスベガス』(Learning from Las Vegas)を出版し、モダニズムの理想は一般の人々のためには高尚過ぎると批判、むしろ猥雑で張りぼてのようなラスベガスや全米のロードサイドなどの日常的風景などを観察してその建築的シンボルを学ぶべきだと提唱、論議を呼んだ。
日本では坂口安吾が『日本文化私観』において伝統建築も批判したうえでブルーノ・タウトを批判、工場のような「俗悪」な建築の美を主張していたほか、1970年の大阪万博では縄文美術に影響を受けた岡本太郎が太陽の塔を作った[8]。
「近代建築の失敗」の象徴とされたのが、ミズーリ州セントルイスのプルーイット・アイゴー団地(ミノル・ヤマサキ設計、1954年)であった。これはスラムを一掃した後の23haの敷地に建設された高層の集合住宅団地であるが、低予算で建設されたこと、低所得者層が主に住んだことなどで次第にスラムと化し、犯罪の巣窟となってしまった。荒廃のため1972年に取壊されたが、その爆破シーンはモダニズムの終焉を象徴するものと受け止められた。
モダニズムを乗り越えようとするポスト・モダニズム(ポストモダン)が提唱され、モダニズム建築によって否定された装飾や象徴性の復権などが唱えられた(参考:チャールズ・ジェンクス『ポスト・モダニズムの建築言語』1978年)。かつてモダニズム建築の旗手であったフィリップ・ジョンソンのAT&Tビル(古代ギリシアの神殿建築に由来するペディメント=三角破風を持つ)や、磯崎新のつくばセンタービル(マニエリスムなどの歴史的な要素を引用)、丹下健三の東京都庁舎(ゴシック教会堂の形態を思わせる)も、ポストモダンの作例とされる。
ただ、ポストモダンの動きには建築構造の工夫や素材の研究など、建築や空間を改善・改革する実質的・実験的な要素がなく、一時の流行の感も強い。
ポストモダン建築の流行が去ると、新素材の利用やコンピュータを使った構造計算による大胆なフォルムが可能になることでモダニズムの見直しも進み、ネオモダニズム建築が一時代を築いた。代表的な人物にはフランク・ゲーリー、ザハ・ハディド、レム・コールハース、ノーマン・フォスターなどがいる。一方でこれも2008年のリーマン・ショックの大打撃を受けており、次の建築様式への模索は続いている[9]。
モダニズム建築の評価
[編集]かつての「モダニズム建築の旗手」たちが設計した建築は既に築後数十年が経過して老朽化が進み、今日の目から見ればさすがに時代性を感じさせており、機能的にも不十分な点が見られるほか、一般への理解のされにくさからデベロッパーや自治体にとってもさほど「売り」にならず、解体される事が多い。21世紀に入り丸の内周辺の初期モダニズム建築が次々解体されるも大衆的関心を集めない一方で、非モダニズムの東京駅駅舎が復元され大衆的な支持も受けたことはモダニズムの敗北と受け止められた[10][11]。
保存を望む声もある一方、更新を続ける社会の耐久消費財として作られたのだから安易な保存は不要とする馬場璋造のような意見もある。また、都城市民会館解体問題の際にその設計者の菊竹清訓は、単純な保存ではなく大屋根をガラスに置き換えることを提案した[12]。1990年代までは文化財保存の動きもあったものの、その後のバブル崩壊で成熟した社会への移行に失敗したことから、再びスクラップアンドビルドによって稼ぐほかなくなったという事情もある[13]。
モダニズム建築の良さは一般に理解されにくい。例えば、「ミースのシーグラム・ビルディングやSOMのリーバ・ハウスは、デザイン的にも機能的にもきわめて優れたモダニズムの超高層建築であるが、その優れた点をきちんと理解していないその後の建築家らが、表面的な物真似をして、平凡で粗悪な、四角い箱というだけの無味乾燥な建築を作り続けたために、モダニズム建築は誤解され、批判ばかりを助長する結果となった」というような言い方をされることがある。これは、おそらく正しいことを書き記しているのであろうが、素人には、十分に理解できないところがある。その理由として、モダニズム建築のよさ、または、よいモダニズム建築とそうでないものとの違いを、単なる表層に限ることなく、機能や思想まで含めて、具体的に、具体例をもって、示さないからである。したがって、感覚的にしかモダニズム建築の良さが理解できない面があり、「この作品は、とても端整である」といったイメージの評価や抽象的な評価に留まることがある。この点については、建築家でさえ全ての点を理解できないことがあるのだから無理もないとする意見がある一方で、モダニズム建築の優れた点を素人にも判るレベルで具体的に示す努力を怠ってきた建築家や建築評論家への批判もある[要出典]。
脚注
[編集]- ^ 『建築大辞典』第2版(彰国社、1995年)、『日本国語大辞典』第2版(小学館、2001年)、『広辞苑』第6版(岩波書店、2008年)の「近代建築」の定義を参照。2000年代以降、日本の建築史家が明治時代の西洋館などを含む「近代建築」(欧米の影響のもと、新技術を導入して建てられた建物)と、近代建築運動に基づく建築(20世紀の機能的、合理的な建築)を区別するため、「モダニズム建築」という用語を使うようになった。
- ^ 大川三雄・川向正人・初田亨・吉田鋼市『図説 近代建築の系譜』(彰国社、1997)。
- ^ ニコラウス・ペブスナー『モダン・デザインの源泉』(美術出版社、1976)P18-28、藤岡通夫他『建築史』(市ヶ谷出版社、1967)P224-225、柏木博『デザインの20世紀』(NHKブックス、1992)P12-26
- ^ 藤岡通夫他『建築史』P228
- ^ 熊倉洋介他『西洋建築様式史』P165
- ^ 『西洋建築様式史』P166。1911年にライトの作品展がベルリンで開かれ、グロピウスに深い感銘を与えた(グロピウス『建築はどうあるべきか』P243)。
- ^ 篠原修 前川國男の 5 原則 ー モダニズム建築に都市への貢献は不可能だったのか ー
- ^ a b 1万キロのユーロ=アジア世界にきらめく文明史 ~装飾から人類の営みを探る~ | SEKAI 未来を広げるWEBマガジン by 東進
- ^ 「消える建築」を求めて ――隈 研吾の挑戦<後編> (1/3) - T JAPAN:The New York Times Style Magazine 公式サイト
- ^ 日本唯一?編集長がイラストを描く建築ルポはこうして始まった(2ページ目) | 日経クロステック(xTECH)
- ^ 10+1 website|東京駅──再生と復元の美学|テンプラスワン・ウェブサイト
- ^ モダニズム建築の保存はなぜ難しいのか? | 倉方俊輔 ‹ Issue No.49 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース
- ^ 日本の歴史的建物が次々と壊されている本当の理由 | 社会の今、未来の私 | mi-mollet(ミモレ) | 明日の私へ、小さな一歩!(2/2)