オスカー・ニーマイヤー
オスカー・ニーマイヤー | |
---|---|
2008年撮影 | |
生誕 |
1907年12月15日 ブラジル リオデジャネイロ市 |
死没 |
2012年12月5日(104歳没) ブラジル リオデジャネイロ市 |
国籍 | ブラジル |
出身校 | リオデジャネイロ国立芸術大学建築学部 |
職業 | 建築家 |
受賞 |
レーニン国際平和賞(1963年) プリツカー賞(1988年) 高松宮殿下記念世界文化賞(2004年) |
建築物 |
国際連合本部ビル イビラプエラ公園 首都ブラジリアの諸建築 |
オスカー・リベイロ・デ・アルメイダ・ニーマイヤー・ソアーレス・フィーリョ(ポルトガル語: Oscar Ribeiro de Almeida Niemeyer Soares Filho [ˈoskaʁ ni.eˈmajeʁ])、1907年12月15日 - 2012年12月5日)は、ブラジル、リオデジャネイロ市生まれの建築家。
プロフィール
[編集]巨匠とともに
[編集]1907年に、当時ブラジルの首都であったリオ・デ・ジャネイロのドイツ系の家庭で生まれた。なお、本人は「自分にはインディオか黒人の血も混ざっているかもしれない。でもそれは私にとっては誇りである」と語っている[1]。 1929年、バルナピタス高校卒業。1934年にリオデジャネイロ国立芸術大学建築学部を卒業。1935年からリオ・デ・ジャネイロのルシオ・コスタとカルロス・レアンの設計事務所に勤務し、旧教育保健省庁舎の設計に関わった。この際、ルシオ・コスタが設計顧問としてル・コルビュジエを招いたことをきっかけにコルビュジエと出会う。
ブラジリア
[編集]1940年、当時ベロオリゾンテの市長を務めていたジュセリーノ・クビチェックと出会い、パンプーリャ湖畔の開発計画に参加。1945年、ブラジル共産党に入党。第二次世界大戦後の1952年にル・コルビュジエらと共にアメリカ・ニューヨークの国際連合本部ビルをデザインした。
ブラジルの大統領となったクビチェックの呼びかけで1956年から1960年にかけて新首都ブラジリア(首都移転は1960年)建設計画に参加した。コンペを経て選ばれたルシオ・コスタの総合監修の下、大統領官邸や国会議事堂、最高裁判所、法務省、外務省などの主要建築物の設計を行った。
ブラジリアのどの建築物にも、ニーマイヤーが語るところの「自由な曲線」が多用されており、1987年には近代都市では初の世界遺産に登録された。
亡命
[編集]1960年代から1980年代中盤にかけてのブラジルの軍事政権下においては、その左翼的な政治志向が嫌われたため、ブラジルでの設計活動を禁止された。1967年、フランスのパリに亡命に近い形で住み着く。その後の20年程はフランスを活動の拠点として、フランス、イタリア、アルジェリアなどで設計を手がけた。フランス共産党に入党して党本部の設計も行った。
帰国後
[編集]1985年の民政復帰後はブラジルに戻って設計活動を再開し、生まれ故郷のリオ・デ・ジャネイロに在住し設計活動を行った。なおAP通信の報道によると、2006年11月16日に秘書の女性と再婚した。
2012年12月5日、肺炎などのためリオデジャネイロの病院で死去[2]。104歳没[3]。
受賞
[編集]- レーニン国際平和賞(1963年)
- プリツカー賞(1988年)
- アストゥリアス皇太子賞(1989)
- 高松宮殿下記念世界文化賞(2004年)
受勲
[編集]- 大聖グレゴリウス勲章(1990年)- ヨハネ・パウロ2世により受勲[4]。
- スペイン芸術文学勲章(2009年11月) - スペイン政府より受勲。Excelentísimo Señorとして遇される。
作品
[編集]- 1937年 オブラ・デベルコ保育園(リオデジャネイロ)
- 1939年 ニューヨーク博覧会ブラジル館
- 1940年- パンプーリャ湖プロジェクト(ベロオリゾンテ)
- 1942年 カノアスの住宅 (自邸)
- 1943年 ブラジル旧教育保健省庁舍(リオデジャネイロ)
- 1946年 ボア・ビスタ銀行
- アメリカ・ラチーナ保険本社(サンパウロ市、東京海上火災の現地子会社の本社で1970年代に取り壊された)
- 1951年 コパン・コンプレックス(サンパウロ)
- 1951年- イビラプエラ公園プロジェクト(サンパウロ)
- ビエンナーレ 産業パヴィリオン(サンパウロ・ビエンナーレなどの会場、1951年)
- オカ・パヴィリオン(1951年)
- 劇場(2005年)
- 1952年 国際連合本部ビル(ニューヨーク、正式には建築家国際委員会の設計となっている)
- 1956年- ブラジリア都市計画
- 1959年 南アメリカ病院(リオデジャネイロ)
- 1964年 ハイファ大学キャンパス(ハイファ)
- 1972年 コンスタンティーヌ大学(コンスタンティーヌ)
- 1975年 モンダドーリ出版社本社(ミラノ)
- 1978年 セーヌ=サン=ドニ県労働組合協会(ボビニー)
- 1981年 ル・アーヴル文化センター ル・ヴォルカン(パリ)
- 1981年 フランス共産党本部(パリ)
- 1983年 サンボードロモ・ダ・マルケス・ジ・サプカイ(リオデジャネイロ)
- 1986年-89年 ラテンアメリカ・メモリアル・コンプレックス(サンパウロ)
- 劇場(1988年)
- 国会議事堂(1988年)
- イベントルーム(1988年)
- 図書館(1988年)
- 1989年 リュマニテ新聞本部(サン=ドニ)
- 1991年 アニェンビ・サンボードロモ(サンパウロ)
- 1996年 ニテロイ現代美術館(ニテロイ)
- 2002年 オスカー・ニーマイヤー美術館(クリチバ)
- 2003年 サーペンタイン・ギャラリー・パビリオン(ロンドン)
- 2006年 ゴイアニアの文化センター(ゴイアニア)
- 2007年 ポピュラー・シアター(ニテロイ)
- 2007年 バルパライソの文化センター(バルパライソ)
- 2011年 オスカー・ニーマイヤー国際文化センター(アビレス)
-
サン・フランシスコ礼拝堂 -
ブラジル旧教育保健省庁舍 -
コパン・コンプレックス -
ビエンナーレ 産業パヴィリオン -
ファティマ教会 -
ブラジル国防省 -
ブラジル大統領府 -
ブラジル大統領官邸 -
フンシャルのカジノ -
イビラプエラ公園の劇場 -
ブラジル国立美術館 -
ブラジル国立図書館 -
オスカー・ニーマイヤー国際文化センター
出演
[編集]- ドキュメンタリー映画『Oscar Niemeyer, un architecte engagé dans le siècle』(邦題『20世紀最後の巨匠オスカー・ニーマイヤー』)(2001年 ブラジル・フランス合作 監督:Marc-Henri Wajnberg)[5]
その他
[編集]- 新建築住宅設計競技など審査員を歴任。
関連項目
[編集]- ジュセリーノ・クビチェック
- レトロフューチャー
- 氷上館(朝鮮民主主義人民共和国平壌市) - オスカー・ニーマイヤー作品「ブラジリアのカテドラル」とのデザインの酷似が指摘されている[6]。「平壌市復旧建設総合計画」を担当した北朝鮮建築家金正煕(キム・ジョンヒ)によるデザインとされる。氷上館画像
- ユネスコ記憶遺産 - ブラジルが所有するオスカー・ニーマイヤーに関する資料(設計図・著述・書簡など)が2013年にユネスコ記憶遺産に登録された[7]。
- パンプーリャの近代建築群 - オスカー設計による世界文化遺産。
脚注
[編集]- ^ ドキュメンタリー映画『Oscar Niemeyer, un architecte engagé dans le siècle』(2001年 ブラジル・フランス合作 監督:Marc-Henri Wajnberg)でのインタビュー
- ^ “ニーマイヤー氏が死去 ブラジルの建築家”. 日本経済新聞 (2012年12月6日). 2017年11月5日閲覧。
- ^ “O・ニーマイヤー氏死去、世界遺産ブラジリアの主要建築物設計”. 朝日新聞デジタル. (2012年12月6日) 2020年2月4日閲覧。
- ^ “Fundação Oscar Niemeyer”. 2017年11月5日閲覧。
- ^ Oscar Niemeyer : un architecte engagé dans le siècle(CiNii)
- ^ 雑誌『Casa BRUTUS』No.64 July 2005「PYONGYANG NORTH KOREA やっと目撃!平壌の建築を見るために、建築評論家、五十嵐太郎と旅をしました」(マガジンハウス)参考。
- ^ UNESCO Memory of the World Archives