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遠藤於菟

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遠藤於菟
生誕 1866年2月13日
信濃国筑摩郡福島
(現・長野県木曽郡木曽町
死没 1943年2月17日
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学
職業 建築家
建築物 横浜銀行集会所
三井物産横浜ビル

遠藤 於莵(えんどう おと、1866年2月13日慶応元年12月28日) - 1943年昭和18年)2月17日)は、日本の建築家。日本における鉄筋コンクリート技術の先駆者の一人で、「日本のペレ」とも評される。

経歴

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信濃国筑摩郡福島(現・長野県木曽郡木曽町)生まれ。東京大学予備門第一高等中学校を経て、帝国大学工科大学校造家学科で建築学を学び、1894年卒業。野口孫市大澤三之助矢橋賢吉と同期生。

卒業後、神奈川県技師に就任、また横浜税関倉庫、生糸検査所などの建設に関わった。1898年横浜正金銀行技師になり、妻木頼黄設計の本店建設に従事した(1904年竣工)。以降、鉄筋コンクリートの本格的研究を開始。

1905年、横浜に設計事務所を開設。以降は在野で設計活動を行った(1909年に再び神奈川県技師に任じられたが、8カ月ほどで辞めている)。それとともに著作を刊行し始める。

1929年、日本建築士会建築競技に関する調査委員会委員長。

遠藤は鉄筋コンクリート構造(RC造)の新技術に大きな関心を抱いたが、明治末年当時は試行錯誤の時代であった。まず床や開口部など部分的に使用しはじめ、1910年竣工の三井物産横浜支店倉庫では混構造(外壁は煉瓦造、床は木造で、内部の柱や屋根スラブなどがRC造)としたが、翌年竣工の三井物産横浜ビルでは全面的にRC造を採用した(本格的な事務所建築として日本最初のRC造)。事務所は現存、倉庫は解体された。この他、アールヌーヴォー様式で知られる横浜銀行集会所、関東大震災後の生糸検査所(キーケン)などが代表作である。

作品

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名称 所在地 状態 備考
/横浜正金銀行天津支店(初代) 1903年明治36年) 中国天津市和平区解放 現存せず
/横浜正金銀行本店(現・神奈川県立歴史博物館 1904年(明治37年) 14神奈川県横浜市 重要文化財 妻木頼黄と連名。
/横浜銀行集会所 1905年(明治38年) 14神奈川県横浜市 現存せず
/横浜生糸検査所品位検査室 1908年(明治41年) 14神奈川県横浜市
/旧三井物産横浜支店倉庫 1910年(明治43年) 14神奈川県横浜市 現存せず
/三井物産横浜ビル 1911年(明治44年) 14神奈川県横浜市 酒井祐之助との共同設計[1]
/東京高等商業学校 1916年(大正5年) 13東京都千代田区 現存せず 震災後、岩波書店になった。
/東京日日新聞社屋 1917年(大正6年) 13東京都千代田区 現存せず
/明治大学予科校舎 1920年(大正9年) 13東京都杉並区 現存せず
/今井百貨店小樽支店 1923年(大正12年) 01北海道小樽市 現存せず
/生糸検査所(現・横浜第二合同庁舎 1926年(大正15年) 14神奈川県横浜市 現存せず 取壊し後、同じデザインで再現。
/生糸検査所倉庫事務所(現・北仲BRIC) 1926年(大正15年) 14神奈川県横浜市 後に帝蚕倉庫事務所。再開発予定地内にあるが、保存予定。
/伊勢山皇大神宮本殿(現・鹿島御児神社本殿) 1928年昭和2年) 14神奈川県横浜市 宮城県石巻市鹿島御児神社に移築。
/伊勢山皇大神宮禮典所 1928年(昭和2年) 14神奈川県横浜市 一部現存 玄関車寄せ部分を参道の手水舎として移築。

著作

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  • 『和洋建築設計図会』大倉書店 1914年
  • 『日本住宅百図』大倉書店 1920年
  • 『西洋住宅百図』大倉書店 1926年
  • 『日本向きのバンガロオとコッテェヂ』大倉書店 1929年
  • 『和洋住宅設備図集』大倉書店 1931年
  • 『日本建築構造図説』大倉書店 1936年

出典

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  1. ^ KN日本大通りビル(旧三井物産横浜ビル)および旧三井物産横浜支店倉庫の 保存活用に関する要望書”. 一般社団法人 日本建築学会関東支部. 2023年6月14日閲覧。

参考文献

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  • 堀勇良「日本のモダニズム」近江栄他『日本の建築 明治大正昭和』10 三省堂 1981年
  • 「故名楼正員工学士遠藤於莵君追憶」『日本建築士』1943年6月号
  • 村松貞次郎「鉄筋コンクリート建築の先駆者遠藤於莵」『日本近代建築史ノート』世界書院 1965年
  • 上坂高生他「防災建築を目指した遠藤於莵」『日本の創造力』8 日本放送出版協会 1992年
  • 石田繁之介「遠藤於莵の埋れたる記録」『三井の建築家』三友新聞社 1992年