金子原二郎

日本の政治家

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金子 原二郎(かねこ げんじろう、1944年5月8日 - )は、日本政治家。前長崎県知事(第52-54代(公選第14-16代)、3期)。元衆議院議員(5期)。

金子原二郎
かねこ げんじろう
生年月日 (1944-05-08) 1944年5月8日(80歳)
出生地 長崎県北松浦郡生月町
出身校 慶應義塾大学文学部
所属政党 無所属
親族 金子岩三(父、科学技術庁長官、農林水産大臣)

第52-54代長崎県知事
当選回数 3回
在任期間 1998年3月2日 - 2010年3月1日

日本の旗 衆議院議員
選挙区 長崎県第2区(中選挙区制)
長崎県第4区(小選挙区制)
当選回数 5回
在任期間 1983年 - 1998年

長崎県議会議員
当選回数 3回
在任期間 1975年 - 1983年
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概要

1944年(昭和19年)5月8日、長崎県北松浦郡生月町(現・平戸市)に生まれる。1968年(昭和43年)3月、慶應義塾大学文学部卒業後、日本水産株式会社に入社。1975年(昭和50年)4月長崎県議会議員に初当選(3期)、県議3期目途中の1983年(昭和58年)12月の総選挙自由民主党公認で立候補し初当選(5期)。衆院法務委員長、衆院石炭対策特別委員長、建設政務次官などを歴任した。1998年(平成10年)3月から2010年(平成22年)3月まで長崎県知事(3期)。2005年(平成17年)6月、福岡県麻生渡知事が全国知事会長に就任したことに伴い、後任の九州地方知事会長に就任、知事退任を前に2010年3月1日広瀬勝貞大分県知事に交代するまで務めた[1]

県知事としては市町村合併[2]を積極的にバックアップしたことや、長崎県美術館長崎歴史文化博物館等の観光・文化施設の整備に務めた他、諫早湾干拓事業九州新幹線長崎ルート(西九州ルート)を推進したが、時に「必要性に疑問がある大規模公共事業」の典型例として挙げられることもある後者二事業については、県内外に賛否両論がある。

2009年(平成21年)11月4日、記者会見で2010年2月21日投開票の次期県知事選挙への不出馬を表明した。[1]

2010年3月1日、3期目の任期満了をもって知事職を退任した。その後自由民主党長崎県連の各支部から、参議院長崎県選挙区に自民党の議員がおらず、新人候補者の選定も進んでいなかったことを受け、同年7月の第22回参議院議員通常選挙に金子を自民党公認候補として擁立しようという声が上がった。当初金子は固辞していたものの、県連の要請により出馬の方針を固めた。同年5月、第22回参議院議員通常選挙に長崎県選挙区から自由民主党公認で立候補することが決定した。

発言

県が台湾の総領事館にあたる台北駐福岡経済文化弁事処(福岡市)の周碩穎・処長らの表敬訪問を拒否した問題について、2008年(平成20年)9月12日の定例記者会見で、周処長らの訪問を断った理由として、「私たちは中国は一つの国とみなしている。台湾はその一地方機関。日本国も中国は一つですということになっている」「国も役人は一切台湾には行かない」となどと発言し、問題となった。

また、長崎県や県内の自治体、企業などでつくる同県日中親善協議会(会長・金子原二郎知事)が台湾について、2008年9月に作成されたホームページ[2]で「台湾省」と記載し、中国の行政区域の一つとして扱っていたことがわかった。発覚後、同年11月18日に指摘により同表記は削除された。

人物

趣味はゴルフ。好物は卵かけごはん。父は農水相、科学技術庁長官などを務めた金子岩三。娘は谷川建設の取締役で、娘の夫は衆議院議員谷川弥一の長男であり谷川建設の社長である谷川喜一。

関連項目

脚注

  1. ^ 九州地方知事会の新役員等について(福岡県庁公式サイト)
  2. ^ いわゆる「平成の大合併」では2004年3月1日対馬市及び壱岐市発足から知事在任期間中最後の合併となった2006年3月31日南島原市発足と北松浦郡宇久町・同郡小佐々町佐世保市への編入合併までの約2年余の間にそれまでの79市町村から23市町になった。市町村数の減少率としては全国でも上位になる。なお、在任中に決定した2010年3月31日の北松浦郡江迎町及び鹿町町の佐世保市への編入合併後は21市町(13市8町)になる。

外部リンク

第48-51代
高田勇 (長崎県知事)
  長崎県知事
第52-54代:1998.3 - 2010.3
第55代
中村法道