大喜利 (笑点)

日本テレビ系番組「笑点」のコーナー

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笑点 > 大喜利 (笑点)

このページでは、日本テレビの「笑点」の大喜利コーナーについて記載。

それ以外については笑点を参照。

概説

いわゆる「大喜利」である。通常は演芸(後述)の後に行われるが、時々演芸でも日本テレビのアナウンサー6名による「アナウンサー大喜利」を行うことがある。その際は大喜利メンバーが司会や座布団運びを務める。最近では司会が三遊亭楽太郎三遊亭小遊三で、座布団運びが春風亭昇太林家たい平が務める。

前身番組『金曜夜席』から『笑点』3代目司会の三波伸介まではCMが終わって画面が切り替わった時点で既にメンバー全員が座った状態だったが、4代目司会5代目三遊亭圓楽以降は笑点のオープニング曲に合わせて、上手からメンバーが登場するようになった(現在では、小遊三好楽木久扇昇太楽太郎たい平山田隆夫の順に登場する)。メンバーが座り、一旦全員の姿が映された後で司会者(桂歌丸)が現れ、席に着いた後に扇子を一打ちして大喜利が始まる。このオープニングに変えたのはプロデューサーの「番組に動きを作りたい」「笑点の象徴として定着しているテーマ曲を何とか使えないか」という意向があったためである。

大喜利開始の際に歌丸は「○○な(罵倒ネタ)皆様方のご挨拶からどうぞ」と言い、続いてメンバーによる短めの挨拶(小遊三→好楽…の順)となる。

大喜利の最中に不自然な座布団の増減が見られる時があるが、これは時間調節や下ネタ等の関係でネタがカットされる事があり、カットの中でも座布団をあげたり取ったりする事もある為である。

1年間の締め括りでは3本締めとして、会場のお客さんと共にその年を締めるが、2006年5月14日の放送開始40周年記念特番のエンディングでも行われた。

また、毎年11月ごろになると大喜利終了後に2人の大喜利メンバーが来年の「笑点暦」の告知をする(1976年版が最初)。

ルールの起源

大筋は創設者である立川談志が考えた。 アトラクションとしての大喜利は昔からあり、寄席でも存在し、テレビでも行われていた。駄目な答えのペナルティとして、(あたかも羽子板遊びのように)「顔に墨を塗る」ということなどが行われていた。

前身番組『金曜夜席』で大喜利に関する既成概念をリセットして、どういう構成にするかを一から考え直した。アイデアを出す主力になったのは出演者(大喜利メンバー)自身で、そのうちの誰かが「(江戸時代の)牢名主はどうだ? 昔の監獄では受刑者にも序列があった。受刑者のうち、畳を積み上げて座っている奴が偉いンだ」と提案、すかさずそのアイデアが採用された。ただし、高座では畳は運べないので座布団に変え、作られたのが「良い答えには座布団を積み上げ、良くない答えには座布団を減らす」という番組の独自ルールであった。

基本ルール

司会者(歌丸)が3問出題し、挙手制で指名されたメンバーが機知を利かせた答えを返す。良い答えに座布団1枚(特に優れた答えには2枚、さらにはそれ以上も)が与えられ、酷い答えは座布団を没収される。座布団10枚を獲得すると、座布団運び・裏方から紙吹雪による祝福を受けながら「豪華賞品」が贈られる。なお座布団10枚が達成された翌週は、全員座布団1枚からのスタートとなる。但し24時間テレビのチャリティー大喜利・正月の特番は座布団剥奪・獲得はカウントされない。

座布団を与えるか没収するかは基本的に司会者の裁量であり、これをめぐるメンバーと司会者の絶妙なやりとりが展開される。数週に1度は10枚達成かというシーンがたまにあるが、その時は大抵司会者が取り上げるため、実際は年に1回~2回程度、場合によっては1年間座布団10枚が発生しないこともある。

  • 前田時代には「大喜利ナンバーワン」と称し、後述の通り前田が中央に座り、赤白二組に分けて前田の左右に座り、座布団5枚を奪い合うルールとなっていた。また、大喜利メンバーが6人になってからは通常版とコスチューム大喜利の2本立てで行っていた。
  • 三波時代には罵倒が甚だしい時などは、座布団を全部没収した上にメンバーをその場に立たせたままにすることもあった。
  • CSで放送されている『笑点Jr.』のルールでは「獲得した座布団の枚数が一番少ないメンバーは次回の大喜利に出演できない」というルールがあり、地方収録では「2週目時点で座布団の枚数が一番多いメンバーには「豪華賞品」が贈られる」というルールもある。

座布団獲得・剥奪のパターン(歌丸司会就任以降)

  • 主に楽太郎(ブラック団)の歌丸罵倒ネタに関しては最低でも1枚没収・最悪は全座布団没収(便乗したメンバーも座布団剥奪の対象)
    • 死去ネタ(死去・ご臨終・出棺・火葬・通夜・告別式・お骨上げ・遺体・生ミイラ等)は原則全座布団没収が基本。楽太郎と一緒に「歌丸のお骨上げ」・「合掌」・「通夜の席で酒を交わす」等便乗したメンバー全員の全座布団を剥奪するのが基本。なお、歌丸死去ネタの1度に剥奪された最高記録は現時点では昇太が12枚。答えで「歌丸」と言わない場合(横浜真金町、椎名巌(歌丸の本名)、あのジジイ、等)は、歌丸自身事と察知すれば座布団の剥奪の対象(主に楽太郎)。
    • 禿ネタ(毛がない・ドライヤー要らない(環境汚染につながる)・お題で禿かつらはかぶっても意味がない・女性かつらはかぶらないほうがまし・ナマハゲハゲタカ育毛剤はしても意味がない等)は1枚〜2枚が基本だが、禿ネタでもひどい場合は全座布団没収も対象。歌丸禿ネタでの1度の座布団剥奪の最高記録は楽太郎と昇太の7枚。
      • 唯一、木久扇の「はげちゃびん」ネタだけは、座布団没収はなく歌丸自身が「自分だってばかちゃびんじゃないか」と言い返して終わることが多い。
    • やるかジジイ・司会者の権力乱用ネタ等の歌丸の悪口(問題以外で歌丸が説明時に悪口を言う・挨拶で歌丸を罵倒する・主に小遊三がネタにしている「歌丸が、5代目圓楽同様2問目で番組を締めようとした」も含む)ネタも、原則最低でも1枚の座布団剥奪の対象になる。
    • 冨士子夫人罵倒ネタは場合によっては全座布団剥奪(歌丸政権下では楽太郎が5枚剥奪が最高)。ただし、歌丸が「いえないことを言ってくれた」として、たとえ楽太郎であっても座布団を獲得できるケースもある。
    • 歌丸死去ネタではない場合も、たい平が火曜サスペンス劇場テーマ曲を歌った際に、主に東尋坊から突き落とされたのが「おじいさん」や「ジジイ」である場合は、歌丸死去ネタと勘ぐられることがあり、没収の対象(反対に突き落とされたのが楽太郎の場合は獲得)。なお、歌丸から念押しで「ちょっと伺います、誰が突き落とされたの」確認されることもある。
    • 他メンバーが歌丸罵倒ネタを言って楽太郎が勝手に座布団を渡したものは無効となり、剥奪の対象となる。
    • 他メンバーが「楽太郎が歌丸の悪口(禿・死去ネタ)を言っていた」と言うネタは言っていない楽太郎が没収されるケースが多い。
    • アナウンサー大喜利は大概楽太郎が司会をするが、歌丸死去ネタ・禿ネタ等の歌丸罵倒ネタは座布団獲得できるが、死に損なった・彼岸に渡るのを止めようとした、等は逆に座布団剥奪。
    • 逆に歌丸をよいしょしたネタは最低でも2枚座布団をもらえる(過去の最高記録は3枚)。また、座布団をやる際に「○○師匠に〜」とヨイショすることがある。
  • 他のメンバーを罵倒すれば、罵倒したメンバーのほうに座布団が獲得できるのが基本。傾向としては次の通り。
    • 小遊三罵倒ネタ(犯罪者、銀杏拾い、大月を田舎扱いあるいは大月の(原)住民原始人扱い(しか履いていない、パンツしか身に付けていない)、等)は、最低でも座布団1枚獲得の対象。
      • ただし、2009年8月9日放送では、甲府市からの放送であったため、「山梨県に失礼だ」ということで、ブラック団3人が小遊三罵倒ネタを言い終わった時点でそれぞれ1枚ずつ没収されている。
      • なお、たい平による大月罵倒ネタの直後に、小遊三がより毒のきつい秩父罵倒ネタをした場合は、「こっちのが強烈だ」として、小遊三のみが座布団獲得というケースが多い。
    • 好楽罵倒ネタ(仕事がない、次女の店は「ひまの郷」、(銀座で)おしぼり配達をしている、笑点が打ち切りになれば生活できない、12000円で落語をしに来る、等)は、1枚獲得。ただし、「気の毒だ」として好楽が獲得できる場合もある。
    • 木久扇罵倒ネタ(馬鹿、ラーメンがまずい・返品・焼きそばにして再出荷、食中毒を起こして保健所の職員が来た、独演会・一門会批判、いつまでも襲名披露をしている、実子も馬鹿、手を挙げたあとで答えを忘れる、等)は、最低でも座布団1枚獲得が基本(ただし、「失礼だ」・「本当のことを言ってはいけない」と断りを入れて行うケースが多い。場合によっては、罵倒された木久扇が獲得出来る場合もある)。
      • なお、木久扇が自虐ネタとしてこのネタを披露した場合も、「正直だ」として座布団1〜2枚を獲得できることが多い。
    • 昇太罵倒ネタ(嫁が来ない、答えを嚙む、幼稚園児にカツアゲされる、座布団をほしがる、等)は、概ね座布団1〜2枚程度獲得。
    • 楽太郎罵倒ネタ(死去ネタ・圓楽一門破門ネタ・腹黒・6代目圓楽襲名阻止・友達がいない・不幸の手紙・「6代目圓楽襲名は好楽や木久扇が妥当」・「師匠を尊敬しない」・「圓楽の名前を捨てた」・「陰で歌丸の悪口を言っていた」・「どうせ6代目圓楽をついても近いうち名前を捨てる」・「6代目圓楽を捨てて7代目圓生を襲名する」等)は最低でも座布団1〜2枚が獲得できる。
      • ただし、楽太郎自身も自虐ネタで言えば「自分のことを理解しているんだな」と歌丸から座布団を獲得することができる場合もある。
      • あるいは、罵倒した本人の座布団に変動がない代わりに楽太郎が没収されるケースもある。
    • たい平罵倒ネタ(恐妻家ネタ(「ちか〜、入れてくれ〜」と家から追い出された、夜遅かったため家に入れてもらえない、玄関の鍵を取り替えられた)、浮気ネタ(錦江湾の女を押し倒した、天文館のチーママに貢いだ、等)、CDが廃盤、秩父では神隠しに遭う、師匠に盛るための毒の知識に詳しい、等)は、おおむね1〜2枚獲得(主に小遊三・楽太郎・昇太)。
      • ただし、2008年6月29日放送では、たい平が代理司会だったため、楽太郎がたい平罵倒ネタ(師匠こん平に毒を盛ったネタ)を言い終わった時点で7枚没収されている(本来は所持していた8枚全部没収)。
      • また、秩父ネタは大月ネタ同様、あまりにもネタが不謹慎な場合、1〜3枚の没収になる場合もある。
    • 山田罵倒ネタ(クビになった、歌が下手、等)は山田が没収した座布団の枚数+1〜2枚の座布団か座布団を1〜3枚以上獲得を与えるのが基本。過去に山田罵倒ネタで8枚没収されたが、それ以降は歌丸の采配で座布団が増えることが基本になっている。
  • 笑点メンバーの観客罵倒ネタ(入場料が取れない・地方ロケの悪口等)は最低でも座布団1枚没収の対象(主に昇太)。
  • 5代目圓楽罵倒ネタ(馬面ネタ・楽太郎の圓楽いらない・若竹の借金・餌はニンジン等のネタ)は、馬面ネタで1枚獲得できる時もあるが、楽太郎の場合、5代目圓楽死去ネタ(5代目圓楽の墓には弟子が誰も来ない(ちなみに、既に寿陵として生前建立済みであった)。ただし、本来言おうとした歌丸死去ネタをさえぎられたために、5代目圓楽に置き換えたというだけのこと)で全没収(3枚)になったこともある。
  • 延々とネタを披露することも没収の対象で、最低でも1枚以上は剥奪される。ただし、ひどいケースは全座布団又は3枚〜5枚没収の対象となる。現時点で1度の座布団剥奪最高記録は好楽の7枚。
    • 「歌禁止」ルールに違反したメンバー(特にたい平・好楽・木久扇)は最低でも1枚没収。特に好楽の場合は、どんな歌でも途中で「ラララー」と歌詞が変わるため、その時点で没収されるケースが大半。
    • たい平の花火師ネタ・祭りのかけ声ネタを一緒にやったメンバー(特に楽太郎)は座布団1〜2枚の没収となる(たい平自身は、最悪の場合全没収になるが、主に山田が後ろからこっそり持って行くことも多い)。
    • たい平の歌舞伎役者ネタは最悪の場合全部没収。隣の楽太郎も一緒になって歌舞伎役者がかったせりふを言うこともあり、そろって全部没収という場合が基本。
    • 木久扇に雨乞い師・河童ネタを振ったメンバー(主に好楽)は座布団1〜3枚の没収となる(振った好楽自身は、最悪の場合全没収になる(これまでの最高は7枚で、歌丸就任以降における好楽の1度の没収枚数歴代トップ)。場合によっては、振られた木久扇が座布団を没収される場合もある)。
    • 楽太郎等が「普段は歌禁止なのに何で今回は歌に関するお題は矛盾している」と歌丸に反発した場合も座布団1枚以上の剥奪の対象。
  • 社会を風刺したネタは大概座布団を1枚獲得できる(主に楽太郎)。ただし法律違反ネタ・食事時に相応しくないネタ・下ネタは最低でも座布団を1枚剥奪される(主に小遊三)。
  • 実際に寄席などで演じる落語のネタを用いた場合も最低でも1枚座布団剥奪(歌丸が実際にあるネタを観客に説明している)
  • 歌丸が合いの手を入れる前に答えを言った場合は、1枚没収となる(三波政権時代も同様。主に木久扇)
  • 座布団の状況をネタにした場合(座布団欲しい・いい大人が何で座布団の取り合いするの、あの人(歌丸)が取ってっちゃう、ひざが痛いor寒いから2〜3枚座布団を下さい、座布団が溜まるのはあなた(歌丸)次第)も剥奪の対象。まれに答えがうまくても、「じゃあお言葉に甘えて、○枚持って行きなさい」と没収されることが多い(いずれも主に昇太と楽太郎)。
  • メンバーの座布団が7〜9枚になれば、普通座布団1枚没収で済むところが2〜5枚没収される場合が多い(小遊三、好楽は9枚だった時、本来1枚没収のネタで5枚没収された。また、楽太郎は「司会者が座布団10枚の賞金(賞品の予算)をくすねている」とネタにする)。
    • ただし木久扇の場合は座布団が3〜5枚になれば2枚、6〜7枚になれば全部没収される場合が大半(そのため歌丸が司会になってから木久扇の座布団が7枚以上になったことはない)。
  • 2009年3月の放送より座布団を新調しているが、新調された座布団の枚数が多いと座りにくいため、ネタを言うときでない場合も、「座りにくそうだ」として3枚程度以上の没収をされる場合がある。なお新調されたころは「歌丸罵倒ネタは座布団を3枚獲得」、「良い答えを言えば座布団を剥奪」と普通の剥奪・獲得のパターンとは逆だった。

座布団

現在座布団を作っている会社は荻原舞台美術で、大きさは67cm × 77cmと一番大きい「夫婦判」と呼ばれる規格のものよりさらに横幅が長く取ってある。中綿が通常の座布団の倍近く詰められており、さらに中に小さな座布団を1枚入れているため、重さも1枚4キロある。10枚重なった時でもバランスが保てるといわれている。(「TVおじゃマンボウ」(日本テレビ)でこの座布団を16枚重ねた上にアナウンサーが座っている様子が放送されている。また、「シルシルミシル」(テレビ朝日)でこの座布団をまねて製作した座布団(ただし、製作する際に日本テレビから本物を借りてきたようである)を重ねて何枚座れるか、という企画を放送(挑戦したのは木久扇)し、31枚という記録を達成した)布地にはちりめんが使われており、高級感もある。1枚当たりの製作費は4万円以上する。ちなみに現在、座布団は出演者全員が10枚獲得する事態を考えて60枚用意されている(以前は多く用意されておらず、1992年5月10日の放送で全員が10枚獲得した際には座布団が足りなくなり、5代目圓楽(前司会者)の座っていた座布団や山田が最初の挨拶のときに座っていた赤の座布団を急遽メンバーに渡すという珍事があった)。

また、小遊三がすでに10枚獲得していたのに圓楽が気付かずに11枚目の座布団を与えてしまい、最終的に13枚まで増やしたこともある。ちなみにこの時は10枚以上獲得したメンバーが同時に3人出ている。

放送開始時は淡いブルーの座布団を使っていたが1年ほどでピンクに変わり、三波の司会就任後の1972年に現在の紫色に変わっている。

役目を終えた座布団は大喜利レギュラーの元に引き取られているが、過去には視聴者プレゼントされたり、1973年8月の日本テレビ開局20周年記念イベントとして浅草寺で「笑点まつり」を開き、座布団を読経と奉焼で厳かに供養する「座布団供養」が行われた。

座布団は数年に一度不定期で交換されており、2009年3月22日放送分から最新の座布団が使用されている。そのため新品の座布団は綿が柔らかく厚みがあり、高く積んだ場合にバランスの取り方が難しく、楽太郎曰く「(バランスを取るのに気を取られ)答えを考える暇が無い」。また座布団に座るのも難しく、小遊三と楽太郎が7枚の際は山田の補助を借りてやっと座っている。これは歌丸が「普段座布団剥奪の対象のネタでも積極的に座布団を獲得できる」等で、普段から罵倒合戦が続いている楽太郎にワザと多く座布団を上げた結果で、後に全部没収となっている。

なお、「笑点」が長寿番組となり世間に広く認知されたこともあって、気の利いた表現や面白いことを言った時に「座布団1枚!」、逆に面白くないことを言った時などに「座布団取れ!」などの表現が日常会話で使われることもある。

出題

主な出題例としては以下のものがある。

  • 都々逸/川柳
  • 頭文字シリーズ(地方収録の1週目に多い)
  • あったらいやな/誰だったらどんなシリーズ
  • 二度と行きたくない○○
  • 笑点・新漢字の遊び
  • 笑点お笑い窃盗団○○編(地方収録の2週目に多い)
  • 笑点3人お詫びシリーズ○○編(お詫びをしたあと司会者が「それだけじゃないでしょ」と言った後に答えを返す)
  • 笑点○○自慢合戦(相手のメンバーを1人指名する)
  • 笑点運命の旅シリーズ
  • 笑点イエス・ノークイズ(司会者はどんな場合でも「イエス」としか答えない)
  • 運命の○○年(その年の最後の放送で行われる。メンバーが言う「でも...」のあとにベートーベンの「運命」の曲が流れる)

なお、1966年5月15日放送の第1回目では「この世に女がいなければどうなるか」という問題が出された(後に2001年5月20日放送の35周年記念大喜利でも同じ問題が復刻されている)。

1問目、2問目は多くが最近の時事問題や芸能人の話題をネタにしたものが多いが、「新しい漢字を作る問題」・「都都逸シリーズ」・「あったらいやな/誰だったらどんなシリーズ」が出ることもある(歌丸の司会就任後はあまり出ていない)。ご当地での収録では土地柄にちなんだ問題が必ず用意される。

3問目は「三人お詫びシリーズ」・「笑点お笑い窃盗団○○編」などが出される。

問題では「例のもの」として小道具が用いられることがある。その時は司会者が「山田君、皆さんに例のもの(パターン)を配って下さい」と言うと山田が「はい、かしこまりました」と受け答え、山田を含む3人のアシスタントが配り、その間に問題が紹介される。

「例のもの」として一番多いのは「フリップ」で、折り込み句(ご当地名等を平仮名にし、一文字ずつ文の最初に置いて川柳都々逸調に詠む)シリーズや穴埋め問題などでも登場する。中には「被り物(多くがかつら王冠帽子着ぐるみの頭の部分など)が出てくることがある。被り物ネタでは歌丸が被り物を被った姿がクローズアップされるのがお約束である。

その他の定番としてはチャイムデパートなどでの呼び出し。鉄琴風のタイプ)やコップ・帽子・手拭いマイク拡声機携帯電話などがある。時には1問目から3問目まで、その日の問題全てに道具を使った問題が出ることもある。

笑点メンバー

スタッフが容易に識別できるよう、笑点メンバーは衣装の色によりラベリングされている。談志時代の頃から導入されていたが、その当時カラーテレビの普及率が低かったため、冬場の数ヶ月のみの着用だった。談志の降板後は落語家ではない司会者の前田のみほぼ毎週着用していたが、1970年秋口頃からはメンバーも毎週着用するようになり、そして司会が三波に代わった後でほぼ現在の形に落ち着いた。

カラフルな色紋付を着るようになったのは、カラー放送用の映像の色調整をするためだったという。そのため各人は深く考えずに適当な色紋付を選んだが、これが番組本編内で定着してしまい現在に至ったのである[1]

現在、色紋付は深緑黄色桃色水色薄紫銀鼠橙色朱色の8種類だが、ここでは歴代のメンバー落語家の配色を一覧にして並べることとした。

5月から10月までは羽織を着ない(2008年,2009年は11月,12月も羽織なし)。また、例年8月の放送ではメンバー全員が同じ柄の浴衣もしくは白色の麻の着物で登場する(近年はそれぞれ2週ずつの着用となっているが、収録日の都合で9月の放送でも浴衣や麻の着物で登場することもある。また、例年8月にある24時間テレビや、8月に地方収録がある場合は色紋付を着用している)。

司会者

名前の隣の☆はかつて演芸に出演した司会者で◎はかつて大喜利メンバーだった司会者。
(四角は紋付の色)

  • 1966年 5月15日-1969年11月 2日 立川談志(冬場のみ
  • 1969年11月 9日-1970年12月13日 前田武彦
  • 1970年12月20日-1982年12月26日 □三波伸介☆(当初は
    三波が1982年12月8日に急逝したため1983年の正月特番は司会者・案内役不在で進行し、コーナー司会として林家こん平愛川欽也が臨時にそれぞれの大喜利司会を担当した。
  • 1983年 1月 9日-2006年 5月14日 5代目三遊亭圓楽
    2005年10月23日-2006年3月19日は療養のため休演。この間は、メンバーが交代で大喜利司会を務めた(歌丸→楽太郎→小遊三→好楽→木久蔵→11月27日以降は歌丸で固定)。
  • 2006年 5月21日- 桂歌丸◎(2007年7月29日・24時間テレビまでは・2007年9月9日以降、現在の色に)
    2008年6月29日・7月6日は療養のため休演。

大喜利メンバー

名前の隣の☆はかつて若手大喜利に出演していたメンバー。

現在のメンバー

(舞台下手よりの並び順)

過去のメンバー

(出演開始順)

  • 5代目三遊亭圓楽(冬場のみ1966年5月15日-1969年3月30日・1970年6月21日-1977年3月27日)
  • 桂歌丸(冬場のみ1966年5月15日-1969年3月30日・1969年11月9日-2005年11月20日)(2005年10月23日-2006年3月19日は案内役代理、2005年10月23日・11月27日-2006年5月14日は大喜利司会代理を務めた)
  • 柳亭小痴楽(後の春風亭梅橋)(冬場のみ1966年5月15日-1969年3月30日)
  • 林家こん平(冬場のみ1966年5月15日-1969年3月30日・1972年7月30日-2004年9月5日一時降板・休演中)
  • 4代目三遊亭小圓遊(当初三遊亭金遊の名で出演・1968年9月29日から小圓遊を名乗る)(冬場のみ1966年5月15日-1969年3月30日・1969年11月9日-1980年10月12日)(1980年10月5日急逝のため)
  • 柳家かゑる(現:5代目鈴々舎馬風)(1969年4月6日-1969年11月2日)
  • 三升家勝二(現:8代目三升家小勝)(1969年4月6日-1970年6月14日)
  • 柳家さん吉(1969年4月6日-1970年6月14日)
  • 三遊亭好生(後の春風亭一柳)(1969年4月6日-1969年11月2日)
  • 春風亭栄橋☆(1969年4月6日-1969年11月2日)
  • 2代目三遊亭歌奴(現:3代目三遊亭圓歌)(1969年11月9日-1970年6月14日)
  • 4代目三遊亭金馬(1969年11月9日-1970年6月14日)
  • 柳家小きん☆(後の6代目柳家つば女)(1969年11月9日-1972年7月23日)
  • 6代目三遊亭圓窓(1970年6月21日-1977年8月21日)
  • 三笑亭夢之助(1977年8月28日-1979年9月2日)
  • 7代目桂才賀☆(当初古今亭朝次の名で出演・1985年9月1日から才賀を名乗る)(1980年11月2日-1988年3月27日)

座布団運び

  • 1966年 5月15日-1967年 1月22日 三升家勝松(現:4代目桂文字助
  • 1967年 1月29日-1969年11月 2日 毒蝮三太夫(当初本名である石井伊吉の名で出演、1968年12月15日から毒蝮三太夫に改名)
  • 1969年11月 9日-1970年 6月14日 三遊亭笑遊(現:5代目三遊亭圓遊)・三笑亭夢丸
    前田司会時は2チーム制で、笑遊は金馬チーム(他に歌丸、さん吉、小きん)、夢丸は歌奴チーム(他に小圓遊、勝二、木久蔵)の担当だった。
    地方収録の際、戸塚睦夫伊東四朗が代役として座布団運びを担当したことがある。
  • 1970年 6月21日-1971年 7月11日 小野千春・桂米助(ヨネスケ
    米助は補佐役の位置付けであった。
  • 1971年 7月18日-1984年 9月30日 松崎真
  • 1984年10月 7日- 山田隆夫(当初はを着ていた)
    山田が1998年7月に4週間休演した際は、橘家亀蔵(現:橘家圓十郎)・林家たい平・春風亭柳八(現:5代目春風亭柳好)・春風亭昇太が週代わりで座布団運びを行った。

アシスタント

若手の落語家がアシスタントとして座布団運びの手伝いをする。また、収録前の前説も行っている。大喜利メンバー(あるいは元大喜利メンバー)の弟子が担当するケースが多い。なお着物の色は、男性がorで、女性がorが多い。

ほか多数(座布団運びだった勝松・米助などもアシスタントを担当していた)

歴代席順

「笑点」放送開始時から現在までの席順の一覧表を紹介する(圓楽は全て5代目圓楽)。笑点ではメンバー交代があると席替えが行われるが、メンバー自身の希望等の理由により席替えをする事もある。

最近では、2006年5月21日より歌丸が大喜利メンバーから司会者に昇格、昇太が新加入の様に(こん平の代役でたい平が加入した際も同様)、メンバーの入れ替えがあっても席替えが行われずに、前のメンバーが座っていた場所に新メンバーがそのまま入るケースが続いている(厳密な意味での席替えは、1992年に好楽と小遊三の座る位置が入れ替わったのを最後に行われていない。この時は好楽が師匠・5代目圓楽が隣の席で、答えの後に「師匠どうですか?」と尋ねていた為萎縮気味で、1つ置いた席の方が力を発揮出来るのではないかとスタッフが考えたため)。

歌丸がメンバーだった時代に、馬鹿(木久蔵→木久扇のキャラクター)と腹黒(楽太郎のキャラクター)の間を嫌がるやりとりが定番であった。なお、木久扇と楽太郎は1986年1月以降、代理大喜利司会を置いていた時期を除いては全く位置が替わっていない。

期間 司会 出演メンバー(左側が下手) 座布団運び 備考
1966年5月15日 -
1967年1月22日
談志 金遊 こん平 圓楽 小痴楽 歌丸       勝松 放送開始当時の席順。
1967年1月29日 -
1969年3月30日
談志 金遊
 ↓ 
小圓遊
こん平 圓楽 小痴楽 歌丸       石井
 ↓ 
毒蝮
座布団運びが石井に交代。
1968年9月29日、金遊が小圓遊襲名。
1968年12月15日、石井が毒蝮に改名。
1969年4月6日 -
1969年11月2日
談志 さん吉 栄橋 好生 勝二 かゑる       毒蝮 レギュラーメンバー総入れ替え。
1969年11月9日 -
1970年6月14日
前田 木久蔵 勝二 小圓遊 歌奴 金馬 歌丸 小きん さん吉 笑遊
(金馬チーム)
 ・ 
夢丸
(歌奴チーム)
司会が前田に交代。これまでのメンバーで勝二とさん吉のみが残り、歌奴・金馬・小きん・木久蔵が新加入。歌丸・小圓遊が復帰。座布団運びが笑遊・夢丸に交代。
新司会者・前田の席は左端ではなく、歌奴と金馬の間の中央部分。この間は歌奴・金馬チームによる対抗戦形式であった。
放送日不明 三波 木久蔵 勝二 小圓遊 歌奴 金馬 歌丸 小きん さん吉 戸塚
(歌奴チーム)
 ・ 
伊東
(金馬チーム)
前田が飛行機の欠航により不在。この日は地方収録であり、演芸に出演したてんぷくトリオの内、三波が大喜利司会を代理。戸塚と伊東が座布団運びを担当。
1970年6月21日 -
1970年12月13日
前田 歌丸 木久蔵 圓窓 圓楽 小きん 小圓遊     小野
 ・ 
米助(補佐役)
歌奴・金馬・勝二・さん吉・笑遊・夢丸が卒業。圓楽が弟弟子の圓窓を連れて復帰し、現在のメンバー数が確立する。座布団運びが小野・米助(補佐役)に交代。
1970年秋頃から、毎週メンバー全員色紋付になる。
1970年12月20日 -
1971年7月11日
三波 歌丸 木久蔵 圓窓 圓楽 小きん 小圓遊     小野
 ・ 
米助(補佐役)
司会が三波に交代。
1971年7月18日 -
1972年7月23日
三波 歌丸 木久蔵 圓窓 圓楽 小きん 小圓遊     松崎 座布団運びが松崎に交代。
1971年秋頃に、木久蔵の色紋付が赤から黄色に変わる(それに伴い、浴衣だった松崎が赤の色紋付になる)。
1972年7月30日 -
1977年3月27日
→□三波 歌丸 木久蔵 圓窓 圓楽 こん平 小圓遊     松崎 小きんが卒業し、こん平が復帰。
1972年秋頃に、三波の色紋付が白に変わる。
1977年4月3日 -
1977年8月21日
□三波 歌丸 木久蔵 圓窓 こん平 小圓遊       松崎 圓楽が卒業。この間は5人で大喜利を行う。
1977年8月28日 -
1979年9月2日
□三波 歌丸 木久蔵 楽太郎 夢之助 こん平 小圓遊     松崎 圓窓が卒業し、夢之助と楽太郎が加入。
1979年9月9日 -
1980年10月12日
□三波 楽太郎 こん平 歌丸 九蔵 木久蔵 小圓遊     松崎 夢之助が卒業し、九蔵が加入。
1980年10月19日
1980年10月26日
□三波 楽太郎 こん平 歌丸 九蔵 木久蔵       松崎 10月5日未明に小圓遊が死去。小圓遊追悼で、残りのメンバーで大喜利を行う。
小圓遊の定位置には座布団、その上に折りたたまれた水色の紋付が置かれた。
1980年11月2日 -
1981年12月27日
□三波 楽太郎 木久蔵 歌丸 朝次 九蔵 こん平     松崎 朝次がピンクの紋付で加入。これにより九蔵の色紋付はピンクから水色になる。
1982年1月3日 -
1982年12月26日
□三波 九蔵 こん平 歌丸 朝次 楽太郎 木久蔵     松崎 メンバーの順番が入れ替わる。
1983年1月2日 愛川 歌丸 九蔵 楽太郎 木久蔵 朝次 こん平     松崎 三波が死去。前半のドレミファ大喜利司会をこん平、後半の鶴亀大喜利司会を愛川が担当。
この日は正月特番であるため、全員黒紋付。
これは鶴亀大喜利の席順で、愛川の左側に上方噺家がいる東西対抗戦方式だった。
1983年1月9日 -
1983年10月9日
圓楽 九蔵
  ↓  
好楽
こん平 歌丸 朝次 楽太郎 木久蔵     松崎 圓楽が司会者として復帰。この頃は週代わりで自前の紋付を着ていた。
1983年4月3日、九蔵が圓楽門下に移籍、好楽に改名。
1983年10月16日 -
1984年9月30日
圓楽 楽太郎 木久蔵 小遊三 歌丸 朝次 こん平     松崎 好楽が卒業し、小遊三が加入。
1984年頃に、圓楽の色紋付が紺色に定着する。
1984年10月7日 -
1985年3月31日
圓楽 楽太郎 木久蔵 小遊三 歌丸 朝次 こん平     山田 松崎が卒業し、座布団運びが山田に交代。
1985年4月7日 -
1985年6月30日
圓楽 小遊三 木久蔵 楽太郎 こん平 朝次 歌丸     山田 歌丸が小圓遊の位置に移動。
1985年7月7日 -
1985年12月29日
圓楽 小遊三 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平 朝次
  ↓  
才賀
    山田 歌丸が3列目の位置に移動。
1985年9月1日、朝次が真打昇進・才賀襲名。
1985年秋頃に、山田の紋付の色が朱色に変わる。
1986年1月5日 -
1988年3月27日
圓楽 才賀 小遊三 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平     山田 才賀が左端に移動。
1988年4月3日 -
1992年3月29日
圓楽 好楽 小遊三 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平     山田 才賀が卒業し、好楽が復帰。
1992年4月5日 -
1998年6月28日
圓楽 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平     山田 好楽と小遊三の位置が入れ替わる。
1998年7月5日 圓楽 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平     亀蔵 山田が4週にわたって休演。
以後、大喜利下克上で優勝した若手落語家が週代わりで座布団運びを代理。
1998年7月12日 圓楽 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平     たい平
1998年7月19日 圓楽 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平     柳八
1998年7月26日 圓楽 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平     昇太
1998年8月2日 -
2004年9月5日
圓楽 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平     山田 この回より山田が座布団運びに復帰。
2004年9月12日 -
2004年12月19日
圓楽 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎       山田 こん平が病気療養のため一時降板。この間は5人で大喜利を行う。
こん平の定位置には、残された4枚の座布団が積まれていた。
2004年12月26日 -
2005年10月16日
圓楽 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎 たい平     山田 こん平の代理として弟子のたい平が加入。
2005年10月23日 歌丸 小遊三 好楽 木久蔵 楽太郎 たい平       山田 圓楽が脳梗塞のため休演。
以後、たい平と山田を除くメンバーが交替で大喜利司会を代理。
2005年11月20日、歌丸、大喜利メンバーとしての最後の大喜利。
2005年10月30日 楽太郎 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 たい平       山田
2005年11月6日 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎 たい平       山田
2005年11月13日 好楽 小遊三 木久蔵 歌丸 楽太郎 たい平       山田
2005年11月20日 木久蔵 小遊三 好楽 歌丸 楽太郎 たい平       山田
2005年11月27日 -
2006年5月7日
歌丸 小遊三 好楽 木久蔵 楽太郎 たい平       山田 この回より、歌丸が司会代理となる。
2006年5月14日 圓楽
  ・  
歌丸
小遊三 好楽 木久蔵 楽太郎 たい平       山田 40周年記念特番。圓楽がこの日限りで番組を勇退、最後の大喜利司会を務める。
2006年5月21日 -
2008年6月22日
歌丸 小遊三 好楽 木久蔵
  ↓  
木久扇
昇太 楽太郎 たい平     山田 歌丸が正式に司会者就任。たい平が正式メンバーとなり、昇太が加入。
2007年9月9日、歌丸の色紋付が深緑に変わる。
2007年9月23日、木久蔵が実子きくおの真打昇進・2代目木久蔵襲名に伴い、木久扇に改名。
2008年6月29日 たい平 小遊三 好楽 木久扇 昇太 楽太郎       山田 歌丸が腰の手術・療養のため休演のため、たい平と昇太が大喜利司会を代理。
冒頭の挨拶と演芸の紹介は、いずれも木久扇と楽太郎の2人で担当。
2008年7月6日 昇太 小遊三 好楽 木久扇 楽太郎 たい平       山田
2008年7月13日 -
 現在
歌丸 小遊三 好楽 木久扇 昇太 楽太郎 たい平     山田 この回より歌丸が復帰。

チーム対抗戦

新春スペシャルなどの時に3対3の対抗戦形式で大喜利を行う場合、通常とは異なる司会者を真ん中に配置した特殊な席順となり、アシスタント1名も座布団運びとして参加することがある。2004年のこん平(休演扱い)、2006年の圓楽降板後は長らく行われていなかったが、2007年12月30日に年忘れ大喜利大会として約4年ぶりに行われた。歌丸は司会者として、たい平と昇太は初のチーム対抗戦でもあった。

対抗戦形式の席順の例(圓楽は5代目圓楽)

期間 タイトル 司会 出演メンバー 座布団運び 勝利チーム 敗北チーム
1985年12月22日 1000回記念大喜利 圓楽 才賀 楽太郎 こん平 歌丸 木久蔵 小遊三 山田
(こん平チーム)
 ・ 
うん平
(歌丸チーム)
歌丸チーム こん平チーム
1999年1月1日 寿大喜利 圓楽 こん平 木久蔵 歌丸 楽太郎 好楽 小遊三 山田
(年金チーム)
 ・ 
昇太
(中年チーム)
年金チーム 中年チーム
2000年12月24日 年忘れ大喜利大会 圓楽 小遊三 好楽 こん平 歌丸 木久蔵 楽太郎 山田
(こん平チーム)
 ・ 
愛楽
(歌丸チーム)
歌丸チーム こん平チーム
2001年12月23日 年忘れ大喜利大会 圓楽 楽太郎 木久蔵 こん平 歌丸 好楽 小遊三 山田
(こん平チーム)
 ・ 
愛楽
(歌丸チーム)
歌丸チーム こん平チーム
2002年12月29日 年忘れ大喜利大会 圓楽 好楽 木久蔵 こん平 歌丸 楽太郎 小遊三 山田
(こん平チーム)
 ・ 
愛楽
(歌丸チーム)
歌丸チーム こん平チーム
2004年1月4日 大喜利 圓楽 小遊三 楽太郎 こん平 歌丸 木久蔵 好楽 山田
(こん平チーム)
 ・ 
愛楽
(歌丸チーム)
歌丸チーム こん平チーム
2007年12月30日 年忘れ大喜利大会 歌丸 小遊三 木久扇 好楽 昇太 楽太郎 たい平 愛楽
(おじさんチーム)
 ・ 
山田
(若手チーム)
おじさんチーム 若手チーム
(ブラック団)

歴史

メンバーチェンジについては上記の歴代席順を参照。

  • 1965年 3月12日 前身番組の「金曜夜席」が放送される。司会は談志。メンバーに圓楽歌丸梅橋(後の小痴楽)円弥(後の圓彌)きん平。座布団運びは西〆子。翌月9日、円弥に代わり、こん平が加入。
  • 1966年 5月15日 「笑点」放送開始(カラー放送)。自殺したきん平に代わり、金遊(後の小圓遊)が加入。座布団運びは勝松(文字助)
  • 1967年 1月 1日 「第1回師弟大喜利」を披露。
  • 1967年 1月29日 座布団運びが石井伊吉に(1968年12月15日放送より「毒蝮三太夫」に改名)。
  • 1967年 8月27日 「大喜利ゲスト大会」を披露、大喜利メンバーの1人として前田武彦が出演。
  • 1967年10月 8日 「第1回若手大喜利」を披露、大喜利メンバーの1人として木久蔵(木久扇)が初登場。
  • 1969年 3月30日 圓楽らメンバー全員が談志と対立し降板。翌4月6日から新メンバーで大喜利を行う。
  • 1969年11月9日 視聴率低下に伴い前田が2代目司会者となり、メンバーチェンジで大喜利が8人制に。座布団運びは笑遊(5代目圓遊)夢丸
  • 1970年 5月31日 200回記念に神田明神で神輿担ぎやバナナの叩売りなどの「笑点まつり」を開催し、大喜利は境内の仮設舞台で行った。
  • 1970年 6月21日 メンバーチェンジで大喜利が現在の6人制になり、座布団運びが小野千春米助に。
  • 1970年 8月24日 「第1回ちびっこ大喜利」を披露、大喜利メンバーの1人として山田隆夫が初登場。
  • 1970年12月20日 三波伸介が3代目司会者に。
  • 1971年 7月18日 座布団運びが松崎真に交代。
  • 1972年 座布団の色がピンク色から現在の紫色になる。
  • 1972年 8月27日 手打ち式。三波・圓楽を仲裁立会人として歌丸・小圓遊を仲直りさせる。
  • 1973年 8月26日 日本テレビ開局20周年を記念して、浅草寺の境内での開催。
  • 1973年10月28日 視聴率が40.5%を記録(ニールセンの調査による)。
  • 1975年12月14日 一般販売用「笑点暦」第1号を披露。
  • 1976年 8月22日 笑点放送開始10周年を記念して、京王プラザホテルでの開催。
  • 1978年 4月30日 日本テレビ開局25周年を記念して、サンフランシスコで「亜米利加寄席」を開催。
  • 1980年10月 5日未明 小圓遊が死去。
  • 1980年10月 5日 笑点放送開始15周年を記念して、ハワイ寄席を開催。
  • 1982年12月 8日 三波が大動脈解離のため死去。
  • 1983年 1月 2日 司会者不在となった正月特番のそれぞれの大喜利司会をこん平と愛川欽也が臨時に担当。
  • 1983年 1月 9日 圓楽が4代目司会者として復帰。
  • 1984年10月 7日 座布団運びが山田に交代。
  • 1985年 4月 7日 寄席「若竹」で初の公開収録を行う。
  • 1985年12月22日 放送1000回突破と、笑点放送開始20周年を記念して、京王プラザホテルで特番を開催。歌丸が『2000回までやろう!』と言う。
  • 1996年 4月 7日 放送時間が17:30~18:00に短縮。
  • 1997年 4月20日 笑点放送開始30周年を記念して、香港寄席を開催。
  • 1998年 7月 5日 7月26日まで4週、山田が休演。この間は、大喜利下克上で優勝した若手落語家が座布団運びを務めた。
  • 2001年 5月20日 笑点放送開始35周年。そのためこの日の大喜利は、3問全てが35周年に関する問題となった。
  • 2004年 9月12日 こん平が休演。残りのメンバーで大喜利を行う(こん平の場所には座布団が4枚積まれたまま)。
  • 2005年10月23日 圓楽が休演。メンバーによる代理大喜利司会を経て、11月27日より歌丸が大喜利司会代理に。
  • 2006年 1月22日 放送2000回を達成したが、圓楽とこん平が療養中のため通常放送。
このとき、番組の歴史を写真でたどり、出演者や番組製作に関わった人々のコメントで構成された本『笑点』が刊行。番組の直後に宣伝も行われていた。
歌丸が『今度は5000回までやろう!』と発言。
  • 2006年 3月26日 圓楽がオープニングの案内役として復帰するが、大喜利の司会は歌丸が引き続き担当。
  • 2006年 5月14日 放送開始40周年記念特別番組を最後に、圓楽が勇退を表明。翌週から歌丸が正式に5代目司会者になる。
  • 2008年 6月29日 歌丸が腰の手術および療養のため2週間の休演。大喜利は6月29日がたい平、7月6日を昇太が司会を担当。案内役は2週とも木久扇と楽太郎。歌丸は翌週の7月13日(島根県での地方収録)から司会に復帰する。
  • 2009年 11月 8日 圓楽死去により、この日の大喜利は圓楽追悼大喜利が行われた。

座布団10枚の豪華賞品

前身番組の「金曜夜席」から「座布団10枚の豪華賞品プレゼント」は企画されていたが、実際に獲得して賞品を出したのは「笑点」になってからである。基本的に賞品の発表は達成時に行われ、それまでは賞品を示唆するキーワードのみが発表される。

最初の賞品は「香港に行って餃子が食べられる」で、歌丸と小痴楽が獲得。当時の番組に香港行きの予算はなかったが、事情を聞いたある船会社から香港までの2名分の船チケットの提供があり、実際に10日間の船旅を楽しんでいる。旅の様子は写真のみで、獲得した次の大喜利の初め(1967年6月4日放送)で紹介された。

だが、番組初期の賞品に関するデータはほとんど残っていない。これは、当時は司会者の思いつきで賞品を決めてその場で渡したり、ロケでも上記のように写真しか残していないため記録がないという。

以下に、座布団10枚の達成者と達成年月日、キーワードと実際の賞品を紹介する。なお、賞品には以前にカレンダーがあったが、1976年版から笑点暦という名で商品化されて現在でも毎年発行されている。

  • 石鹸箱一つを獲得。(獲得者・放送日不明)
  • ただ皆で笑うだけだった。(獲得者・放送日不明)
  • 拍手だけだった。(獲得者・放送日不明)
  • ボーナスがもらえる」ということで、(ボー)と茄子(ナス)がもらえた。(獲得者・放送日不明)
  • 「先祖を敬う」として、位牌がプレゼントされた。(獲得者・放送日不明)
  • 富士山頂に自分の像が建てられる権利」を獲得。(獲得者・放送日不明)
  • 歌丸が「海の幸三昧」を獲得したが、食べ放題ではなく自分で海に潜って獲るものだった。そこではサザエの壺焼きなどを食べた。(放送日不明)
  • 圓楽が「イギリスダービーが見られる権利」を獲得。だが「イギリスのダービーまで自腹で行け」と言われたため、行けなかった。(放送日不明)
  • 木久蔵が「ヌードデッサン」を獲得したが、モデルは自分で探す羽目になった上、噴水の池に突き落とされた。(放送日不明)
  • 小圓遊が「アフリカで猛獣狩り」を獲得。豊島園にあったアフリカ館へ行って猛獣を見学した。(放送日不明)
  • 木久蔵が「旅館の美人女将に会える権利」を獲得。意気揚々と伊豆の旅館へ行ったものの、散々扱き使われてタダ働きさせられただけだった。(放送日不明)
  • 小圓遊が「長良川の鵜飼い」を獲得。(1971年8月1日放送)
  • 小圓遊が「歌手デビュー権」を獲得。レコード「マドモワゼル」を出した。(1972年、放送日不明)
レコードジャケットは大喜利で座布団10枚を獲得した時の高座着姿の写真を使用。ただし、実際に小圓遊が番組などで歌う時は真っ白なスーツに赤いバラをつけて歌っていた。なお、B面には当時の大喜利メンバーによる「アリャリャン音頭」という曲が収録されている。
  • 木久蔵が「花の都の人力車遊び」を獲得。(1973年5月13日放送)
「花の都」とは銀座のことであり、銀座で人力車遊びに興じる木久蔵の様子は新聞でも報道された。
  • 圓楽が「胴上げ」されるが、落とされて足を捻挫した。(1973年7月放送)
  • 小圓遊が「お伊勢参り」を獲得。(1974年5月19日・26日放送)
  • 小圓遊が「隅田川珍身遊び」を獲得。(1975年5月4日放送)
  • 歌丸が「ギリシャマラソン日記」を獲得。(1975年9月7日・14日放送)
番組史上最も豪華。松崎と聖火を揚げてアテネ市内を走ったが、聖火はオモチャで映像もコント仕立てだった。だが、これ以降メンバーたちは何とか座布団10枚を獲得しようと競い合うようになったという。
  • こん平が「美女と遊園地デート」を獲得。(1975年9月28日放送)
後楽園遊園地で幼稚園児の格好をさせられ、師匠三平夫人に振り回されてヘトヘトになる。
  • 木久蔵が「善光寺参り珍道中記」を獲得。(1977年1月23日放送)
  • 三波が「豪華食べ歩きの旅」を獲得。(1977年4月3日放送)
圓楽が座布団10枚超えたが、番組を卒業するため賞品を獲得できず。(獲得した12枚の座布団を代わりに持ち帰った 1977年3月27日放送)
しかし他メンバーの答えの出来が悪かったため、三波が掟破りに賞品を強奪。メンバーの反感を買い、逆襲に遭う。
  • 夢之助と楽太郎が「東海道五十三次二人旅」を獲得。東海道中膝栗毛風、弥次喜多コントをさせられた。(1978年3月26日放送)
  • こん平が「落語一席披露権」を獲得。落語「宮戸川」を披露した。(1978年8月13日放送)
  • 夢之助が「湯屋番奮闘記」を獲得。(1978年10月1日放送)
  • 夢之助が「珍佐渡情話」を獲得。(1979年4月22日・29日放送)
こん平が佐渡島ガイドとしてついて来て、「佐渡情話たらい舟篇」として前後編2週にかけて放送した。
  • こん平が「餅つきお大尽」を獲得。九蔵と楽太郎が手水役を務め、こん平が餅をついた。(1979年12月23日放送)
  • 九蔵が「最後の楽園騒動記」を獲得。(1980年6月1日放送)
三波から「行き先は夢の島だ」と脅されていたが、実際は鹿児島県池田湖イッシー探しの珍道中だった。
  • 木久蔵が「徳島阿波踊り」を獲得。(1980年8月24日放送)
  • こん平が「美女と沖縄バカンス」を獲得。今度は、まともな美女とのバカンスを楽しんだ。(1981年4月19日放送)
  • 楽太郎が「上野公園花見の狂宴」を獲得するが、場所取り役を推しつけられただけだった。(1982年4月25日放送)
  • 歌丸が「家一軒」を獲得したが、犬小屋だった。(1983年1月16日放送 圓楽、司会就任後初の座布団10枚獲得)
  • 歌丸と木久蔵が「皇居一周マラソンに挑戦」を獲得。(1983年10月23日放送)
木久蔵は何とか完走するが、歌丸は担架に乗せられてゴール。
  • 歌丸と小遊三が「エアロビクス入門」を獲得。(1986年4月13日放送)
日ごろ卓球で鍛えている小遊三は軽快なフットワークを披露。一方の歌丸は、開始早々にへたりこんでしまった。
  • 歌丸が「ドッキリ中吊り広告」を獲得。(1987年11月22日放送)
都営地下鉄の車内に、歌丸の中吊り広告が編成中の1両全てに張り出された。
  • こん平が「珍説のさぎ参り」を獲得。(1988年2月21日放送)
  • 才賀が「ゴルフ・イン・ハワイ」を獲得。(1988年3月7日放送 才賀、唯一の座布団10枚獲得)
  • 好楽が「テレホンカード」を獲得。(1988年5月22日放送 好楽、復帰後最初の座布団10枚獲得)
  • 木久蔵が「プロ野球入門」を獲得。(1988年9月18日放送)
  • 「進学塾入塾」を獲得。(1988年、獲得者不明)
  • 歌丸が「クィーンエリザベスⅡの夕べ」を獲得。(1989年5月21日放送)
豪華客船で美女とクルージング。しかし美女の正体は、歌丸の恐妻・冨士子夫人だった。
  • 木久蔵が「奥の細道を行く」を獲得。(1989年11月12日放送)
上野駅東北本線で出発、次駅の尾久駅で下車。「尾久の細道」を探訪した。
  • こん平が「黒潮紀行」のセットを獲得。(1990年7月22日放送)
  • 小遊三が「花火指南」を獲得。(1990年11月25日放送)
  • 楽太郎が「カール・ルイスと対決」を獲得。本物のカール・ルイスと100M走で対決した。(1991年6月2日放送)
  • 「じゃんけんして水が飲める権利」を獲得。(1991年放送、獲得者不明)
  • こん平が「徳川家御埋蔵金」を獲得した。三つ葉葵の雑巾5枚(5枚、雑巾)を掘り当てる。(1991年12月25日放送)
  • メンバー全員が「岩清水を飲む権」を獲得。(1992年5月10日放送)
しかし汲んだ岩清水を山田が途中でこぼし、代用としてを漬けた水(いわし・水)をメンバーに飲ませた。この事実を知ったメンバーは、これ以降「山田降ろし」ネタを多用するようになった。
  • 小遊三が「つけまつげ」を獲得。(1993年2月28日放送)
  • 好楽が「美女と茶摘」を獲得。(1993年5月23日放送)
小遊三も同行し時代劇コントの脱線もあったが、美女に囲まれながら美味い新茶を摘むことができた。
  • 木久蔵が「美女と修行」を獲得。(1993年11月14日放送)
三重県お寺に美人のさんを訪ねたが、迎えてくれたのは怖い和尚さんであった。フンドシ一本で水温0(レイ)度の滝に打たれる木久蔵の絶叫が寒空に響き渡った。番組ブレーンの1人で心霊研究家新倉イワオが背後霊の如く現れ、「あなたの知らないレイ度の世界」と呟いた(「あなたの知らない世界」のパロディ風)。
  • 歌丸が「白樺高原の休日」を獲得。(1994年3月6日放送)
ワカサギ釣りを満喫した後、歌丸が最も楽しみだった雪見風呂だったが、スキー場の真ん中にポツンと立つドラム缶風呂だった。そのため、報告VTRのタイトルが「白樺高原の休日」から「歌丸の極寒雪見風呂」に摩り替わっていた。
  • 小遊三が「故郷に錦を飾る」を獲得。(1994年7月10日放送)
故郷である山梨県大月市オープンカーパレード、母校からは座布団を贈られた。
  • 楽太郎が「秋の香り満載」を獲得。(1994年10月30日放送)
秋なので松茸を連想した楽太郎だったが、山田が持ってきたのは銀杏。しかも焼きたての銀杏だったため、独特の匂いを会場に撒き散らしてしまう。これはスタッフが放送前日の明治神宮銀杏並木で拾い集めてきたもので、笑点での座布団10枚賞品史上、最安価(タダ)。
  • こん平と小遊三が「川中島の決戦」を獲得し対決。(1995年4月16日放送)
新潟出身のこん平が上杉謙信、山梨出身の小遊三が武田信玄に扮し、座布団10枚の御祝儀をかけて川中島で卓球勝負。小遊三の勝ちとなったが、こん平の影武者作戦で御祝儀はまんまとこん平のものになった。
  • 木久蔵が「稲刈り奮闘記」を獲得。苦労して収穫した米をおにぎりにして圓楽に振舞った。(1995年10月22日放送)
  • 好楽が「一攫千金を夢見て宝石翡翠取り大作戦」を獲得。(1996年9月15日放送)
しかしこの時期は翡翠が取れないらしく、結局、圓楽に似た細長い石を持ち帰ることになってしまった。
  • こん平が「長嶋監督におめでとうの座布団を贈る権利」を獲得。(1996年10月13日放送)
  • 楽太郎が「木久蔵に弟子入りできる権利」を獲得。(1997年5月4日放送)
獲得直後に弟子入りさせられた。この賞品は木久蔵以外のメンバーに不評だったため、“良い答えの時は座布団が取られ、悪い答えの時に座布団を進呈される”という、普段とは逆の光景が見られた。
圓楽の指示で上越新幹線に乗ったが、車窓から見えたのは広大な雪原にポツンと立っている『私が木久蔵です』と書かれた巨大な看板だった。
  • 小遊三が「楽園パラオのバカンス」を獲得。(1999年6月20日・27日放送)
こん平と楽太郎がやってきて、本当の目的「パラオに寄席『第2若竹』を作ること」を知らされる。言葉や文化の違いに戸惑ったものの、パラオの人々に落語「桃太郎」 を披露し見事成功した。
  • 歌丸が「世界の大スターに会える権利」を獲得。(1999年9月5日放送)
しかしその大スターとは山田隆夫で、「みかん色の恋」を熱唱しながら現れただけだった。
  • 木久蔵が「ある組織の長になれる権利」を獲得。(1999年12月12日放送)
組織の長とは、一日幼稚園園長先生。
元気な園児たちとダンス、お絵描き、お弁当の楽しい時間を過ごし、最後は本業の落語で大爆笑。見事大役を果たす。
  • 木久蔵が「好きな番組を製作出来る権」を獲得。(2000年7月9日放送 木久蔵、改名前最後の座布団10枚獲得)
そこで木久蔵が「木久蔵ラーメンを海外で出店したい」と言ったことから、番組の特別編として「木久蔵ラーメンinタイ」を放送。現地で、こん平・小遊三・きくお(現:2代目木久蔵)・菊川怜と合流している。タイ人は何にでも砂糖を入れる習慣があることから砂糖壺を屋台に用意。また、タイオリジナルとして“食用蟻入り木久蔵ラーメン”を提供した。
スーツの他、着物やドレスといった女装姿を含めた写真集が製作されたが出版してくれる出版社は無く、圓楽の自腹で10冊のみ製本。視聴者プレゼントすることとなった。
山田が宇宙服風の衣装を着て登場し、持ってきたのは「2001円の府中の足袋」(府中市で2001円で売っていた足袋)だった。
  • 楽太郎が「笑う門には福来たる」を獲得。(2001年12月16日放送)
賞品は「笑点オリジナルスノーボード」で、豪快に笑う圓楽のイラストが描かれていた。しかし、楽太郎は「師匠を足の下に敷くなど滅相もない」という理由で一度も使用していない。
  • こん平が「花の雲 鐘は上野か 浅草か(松尾芭蕉の句)」を獲得。(2002年3月31日放送)
賞品は「花見場所取りセット」であり、圓楽のシール付きオマルまであった
  • 小遊三が「夏草や 兵どもが 夢のあと(松尾芭蕉の句)」を獲得。(2002年8月25日放送)
くさや(夏、くさや)の本場・新島に行き、くさや作りを体験。魚のくさやを賞味し、最後は色々な魚のくさや干しを食べて、まさにくさや三昧の一日となった。
  • 歌丸が「三顧の礼」を獲得。賞品は千円札1枚(3個の零で1000円)。(2003年4月6日放送)
  • こん平が「旅は道連れ 世は情け」を獲得。こん平の道連れとして、山田と共にタヒチ島へ。(2003年8月10日放送 こん平、休演前最後の10枚獲得)
  • 歌丸が「似たもの夫婦」を獲得したが、賞品は煮込みうどん(煮た物フーフー)だった。(2003年12月27日放送)
  • 楽太郎が「古池や 蛙飛び込む 水の音」を獲得し、バリ島へ。(2004年4月18日放送)
圓楽からは「神々の島であるバリの古池に飛び飛んで、黒い腹を清めて来い」と言われる。現地乱入のこん平と好楽の案内でカルデラ湖近くの滝壺へ行くが、楽太郎が拒否。結局、高級リゾート露天ジャグジーに飛び込んだあと、バリ式マッサージで腹を白くした。
  • 歌丸が「濡れ手で粟のひとつかみ」を獲得。(2005年5月8日放送 歌丸、大喜利メンバーとして最後の座布団10枚獲得)
フィリピン紙幣「ペソ」が入っている箱から、現金つかみ取りゲームの要領で1度掴み取る(ひとつかみ)。さらにその掴み取ったペソを元手に、「セブ島カジノツアー一攫千金の旅」へ。
現地乱入の楽太郎を交え、スロットマシンで1000ペソ稼ぎ、ルーレットで一攫千金を狙うが、楽太郎のイメージカラーある『黒』を嫌って赤に賭け続けたが大敗し、成功を予定して組まれた祝賀会の費用を自腹で払う羽目になる。
  • 小遊三が「明日は明日の風が吹く」を獲得。(2005年10月16日放送 圓楽司会、最後の座布団10枚)
賞品は、圓楽家の押し入れから出てきた10年前の扇風機だった。
  • たい平が「少年よ、大志を抱け(クラーク博士の名言)」を獲得。(2006年5月7日放送 たい平、初の座布団10枚獲得)
賞品は、「タイの石」(証拠写真付き)。たい平は巨大な石を収録会場の山口県周南市から東京まで持ち帰る羽目になった。この石は笑点メンバーのサインが入れられ、現在は横浜にぎわい座の演芸資料館に展示されている。
歌丸代理大喜利司会として唯一の座布団10枚。この翌週のSPで圓楽が笑点から勇退し、その翌週より歌丸が正式に司会に就任した。
  • 好楽が「芸は身をたすく」を獲得。(2006年12月24日放送 歌丸、司会者正式就任後初の座布団10枚)
レイザーラモンHG(ゲイは身をたすける)の衣装に着替えさせられた。
この回は2006年最後の放送で、歌丸が「10枚獲得者が出なくても1番多い人に賞品を渡す」と明言したが、好楽はしっかり10枚獲得した。
  • 楽太郎が「天災は 忘れたころに やって来る」を獲得。(2007年4月29日放送)
木久蔵と好楽も合流し、韓国済州島で韓国の「天才」少女と楽太郎が「天災は忘れた頃にやってくる杯」と題したゴルフ対決。敗れた楽太郎は馬乗りの馬になった。
  • 昇太が「花より団子」を獲得。(2008年3月9日放送 昇太、初の座布団10枚獲得)
「花より団子」と輪島功一(団子屋を経営する元ボクシング世界チャンピオン)が揮毫した掛け軸だった。
  • 昇太が「耳をすませば」を獲得。賞品は、5代目圓楽の笑い声が聞こえてくるお守り袋(笑い袋)だった。(2008年12月14日放送)
  • たい平が「渡りに船」を獲得。(2009年9月13日放送)
歌丸の賞品の説明では海外で豪華クルージングだったが、実際はベトナムジャングルの川をスコールの中、屋根もない小さな船で自分で漕いで下るというものであった。
その後ホーチミン市へ移動。アオザイをまとったベトナム美女と食事デートを楽しむが、好楽がシクロの運転手やレストランの店員に扮して邪魔をし、最後はスパイとなった好楽が携帯電話でたい平の嫁・ちかにこれまでの事を密告、電話に代わったたい平が携帯電話に向かって土下座するオチとなった。コーナー終わりのテロップは「こんなこと 錦江湾でも あったよね [好楽]」

※()内は10枚達成の放送日ではなく、獲得賞品の放送日である。ただし、10枚達成直後に贈られたものや、10枚達成のロケーションを行っていないものは、10枚達成をした放送日である。

2009年9月13日より賞品のキーワードは「身から出たサビ」である。

その他の豪華賞品

10枚達成ではないが、スペシャルなどで最も座布団獲得したメンバーにものすごい賞品が贈られることがある。

  • 小圓遊が「ミス桜の女王とキスができる権利」を獲得するが、女装した松崎真だった。(1978年5月6日 サンフランシスコでの開催)
  • 楽太郎が「ハワイの美女とキスができる権利」を獲得。今度はちゃんとした美女だった。(1980年10月12日 ハワイでの開催)
  • 木久蔵が「トイレットペーパー1999本」を獲得。(1999年12月26日 大喜利大会)
  • 歌丸・小遊三・楽太郎(歌丸チーム)が「島津製作所オリジナル笑点作業着」を獲得。(2002年12月29日 年忘れ大喜利大会)
  • 歌丸が「バナナ」を獲得。楽太郎が1本つまみ食いをしていた。(2004年1月1日 寿大喜利)
  • 歌丸・木久蔵・好楽(歌丸チーム)が「大掃除セット」を獲得。(2004年1月4日 大喜利対抗戦)
  • 小遊三が「骨」を獲得。(2006年1月1日 寿大喜利。大笑点での放送)
  • 好楽が「メイドの衣装」を獲得。(2006年5月14日 天国よいとこ昇天大喜利)
  • 好楽と小遊三が「モアイ像」を獲得。(2006年5月14日 圓楽司会最後の大喜利)
  • 好楽・木久扇・小遊三(おじさんチーム)が「歌丸羽子板」を獲得。(2007年12月30日 年忘れ大喜利大会)
  • 昇太が「チーズ」を獲得。(2008年1月1日 寿大喜利。大笑点での放送)
  • 新春時を除くアナウンサー大喜利では歌丸が司会になってから歌丸を罵倒する賞品がプレゼントになった。
    • 2007年と2008年は「安眠どころか永眠できるぐらいぐっすりと睡眠できる歌丸全身プリントの抱き枕」(2008年は『夏の装いバージョン』と称し、「顔は歌丸で、体は筋肉質ビキニ水着赤ん坊」をプリントした抱き枕)。
    • 2009年は「歌丸が骸骨になった風鈴」。

出演メンバーのキャラクター

笑点メンバーは、それぞれ答えの傾向やキャラクターがある。無論、メンバーのキャラクターや罵倒ネタは、全て大喜利の中だけの話である。

現在の出演者

桂歌丸(笑点5代目司会者)

司会就任後は3代目司会者の三波伸介の手法を踏襲して、罵倒ネタと皮肉を交えて紹介する(地方収録では「東京を石もて追われた」「呼ばれてもないのに付いてきた山田」など)。メンバー挨拶での告知と歌を禁止しているが、守られていない。
司会としてメンバーを愛称で呼ぶ(「木久ちゃん(木久扇)」・「楽さん(楽太郎)」)が、罵倒された直後は「はい、お前」などと返す。楽太郎の歌丸罵倒ネタや木久扇の要領を得ない答えには、合いの手を入れる前に歌丸が「はい、誰か他に?」と言って無視したり、途中で打ち切ってしまう。また、他のメンバーから罵倒されたものを直後に指名する場合は、「はい、錦江湾」(たい平)、お笑い窃盗団の問題のときは「はい、泥棒(or本物)」(小遊三)などと、罵倒した内容で呼ぶ場合がある。
出演者最年長で細身であるから死去ネタが多い(特に楽太郎)。頭髪が薄いことからハゲと言われることもある(かつては楽太郎や木久扇が中心であったが、最近は昇太・たい平が多い)。また、頭髪の状態ゆえに、シャンプードライヤーは要らないとネタにされることがある(アナウンサー大喜利でも、「なぜか歌丸が『シャンプーのCFキャラクター』に選ばれた」などとネタにされたことがあった)。禿ネタは、歌丸自らも使っていた(木久蔵ラーメンとの謎かけで「儲けがない・もう毛がない」としていたこともある)。
妻の冨士子を恐妻扱いしたり、落語芸術協会会長の役職から、会長を「怪鳥(怪しい鳥)」と喩えられ(会長らしからぬ発言が多かったため)ていた(笑点のオープニングアニメーションで、怪しい鳥に乗った歌丸が紹介されたり、自身が怪しい鳥に扮して登場した後でブスッとして「俺、会長だよ」と文句を言ったりすることもあった)。
ツッコミは鋭く、メンバー時代は政治経済社会風刺ネタで毒舌発言も多かった。自らを東京大学出身であることにする(私がいた時は○○だった、じゃなかった)ネタもあった(しかし、5代目圓楽に「嘘だ、勉強嫌いだから落語家になったんじゃないか」とツッコミ入れられ、座布団も取られた)。
楽太郎の司会者罵倒ネタに対して物申すことが多いが、自身がメンバーだった頃は5代目圓楽を罵倒することが多かったため、最高で7枚取られた経験があった。
前司会者の5代目圓楽同様、まだ2問目なのに「また来週~」と言って終わってしまったことがある。歌丸の場合は、2度やった。また、2009年12月13日の放送では、メンバーの挨拶の後、賞品のキーワード「身から出た錆」と言うところを、間違えて「芸は身を助ける」と言ってしまい、あわてて「・・・は、やりましたね」と訂正した。
楽太郎が挨拶で長々と薀蓄を言うとイライラする顔が映ったり、小声で「長げぇなぁ」と言う。
お題に対しメンバー(特に昇太)が「笑点を辞める」などと言うと、ほとんどの確率で「どうぞ」と返す。
冨士子夫人罵倒ネタはこっそりと座布団をあげることがある。
小遊三に次いで、本名を出されることが多く、「横浜の市役所住民票から椎名巌の名前が消えましてねぇ」、「椎名家から死亡通知が来た」、「横浜真金町にあるお化け屋敷は、冨士子とがいる荒ら屋」、「葬儀屋さんが言ってはいけない一言。あ、ご予約を頂いた椎名様ですね?」などと云われることがある(主に楽太郎で、かつ死去ネタか冨士子夫人ネタ)。
自身に対するお世辞を含んだ答えに対し、多めに座布団をあげる(楽太郎には、「その目は本心の目じゃない」と言って、座布団を没収することがある)。
全員の座布団を全て没収することがある(楽太郎の歌丸死去ネタ、たい平の花火、好楽&木久扇の雨乞い師ネタ)。
また、最近の座布団没収の際は、いちいち山田を口で呼ぶことなく、「あっち行け」という手振りで没収というパターンが目立っている(逆の場合は、指で本数を指しながら、山田を手で呼ぶ仕草をすることがある)。

林家木久扇

旧芸名は、林家木久蔵2007年9月16日放送分まで。同年9月23日放送の「ダブル襲名披露口上」を以って、「笑点」での名義が木久扇となった)。
笑点初登場時から馬鹿与太郎キャラを売りにしており、答えが出来ていなくても挙手する、答えの途中に言葉が詰まると「あのねぇ」と言って誤魔化す、「やぁねぇ(屋根)」、「向かいの空き地に囲いができた、へぇ(塀)」など初歩的な駄洒落を使う、観覧客や他のメンバーに先に答えを言われる(歌丸が司会になってからは、歌丸に先に答えを言われる事も多い)、漢字の読み書きが出来ないなどの傾向がある。メンバーが答えに詰まり、司会の歌丸が「はい、他に」と言うと真っ先に手を上げ、「他にって言うと木久ちゃんが手を上げる…」と突っ込まれる。また、出題直後に間髪入れず真っ先に手を挙げることもあり、その場合は「木久ちゃん大丈夫?ちゃんと答え出来てる?」と逆に心配される。目が合い易いという事で司会(三波伸介・5代目圓楽・歌丸)からは半ば恐れられている。そのため歌丸が司会になってからは、真っ先に手を挙げていも無視して他のメンバーを指す事がある。
最近の挨拶では、簡単な駄洒落小噺を披露した後に「大成功、木久扇です!」と締めるパターンが多い。
笑点・新漢字の遊びの問題では、漢字を書かず、絵を描いて答えるため、歌丸に「字を書きなさい!」と言われる。
駄洒落など安易なネタや答えに詰まって聞き返す等すると、歌丸が顔を背けながら非常に嫌そうな表情をする。あまりに酷い答えだと「くだらねぇ…」と飽き飽きしたツッコミをされる。
他のメンバーからもネタにされており、自分のことをネタにしたメンバーや、答えを先に言ったお客に対して「ばーか」と言うことがある。自虐ネタを繰り出し、「正直だ」と司会者から褒めてもらえる事もあれば、その正直に免じて座布団を貰える事もある。ごくまれに硬派な政治社会ネタを答えると、その意外性から座布団を貰える事が多いが、「もう今日は黙っていたら良い」と司会者に止められても調子付いて次の答えでおちゃらけては怒られる。
木久扇を代表するものとして「木久蔵ラーメン」があり、「不味い」・「犬も食わない」などの散々な罵倒を受けている。
現在のメンバーの中では、弟弟子の好楽同様に歌丸を罵倒することは少ないが、歌丸が大喜利メンバーだった頃には楽太郎に追従あるいはそれ以上に罵倒をすることもあった。「はげちゃびん」(最近では、歌丸は「ばかちゃびん」と応酬するようになった)・「生ミイラ」・「マッチの軸みたい」・「ガイコツ人」、などは木久扇が最初に言い出した歌丸罵倒ネタである。2008年下半期頃からは、1ヶ月に1・2度程度は歌丸罵倒ネタをしている。
時代劇への造詣が深く、台詞や役者をネタにした答えも多い。師匠林家彦六嵐寛寿郎遠山の金さん片岡千恵蔵)、長谷川一夫大河内傳次郎など往年の時代劇スターや大物のモノマネを延々と演じて座布団をよく没収される。また、「ここで会うた何かの縁、遊んでいってくんなまし」(花魁)や、「ガタガタ言うとたたっ斬る」(越後屋)や、「各々方、○○でござる」(赤穂浪士)と物真似をしつつ答える事も多い。
「イヤン、バカン、ウフン、そこはオチチ(お乳)なの、アハン」というギャグがよく知られている(「お耳なの」の場合もある)。これはジャズナンバーの「セントルイス・ブルース」を元にしたパロディネタであり、「いやんばか~ん・・・・」として1978年(昭和53年)4月12日レコード化している。
大喜利中でも一人延々と歌い続ける事があり、歌丸の手振りで呼び出しを受けた山田によって後ろから突き飛ばされ、座布団を持って行かれるのがパターンである。足蹴りされた事もある。これを察知して自ら前に出て避ける事もあるが、座布団はがら空きになるので結局座布団を持って行かれる。「テネシーワルツ」・「チャンチキおけさ」・「鳩ぽっぽ」・「伊勢佐木町ブルース」など昭和歌謡の替え歌で答える事もある。ただ最近は、歌丸が歌は禁止と言っている関係か、歌をモチーフとした問題を除いてはそういった答えはあまり行わなくなった。
雨乞い師ネタも大喜利における持ちネタのひとつだが、これは原則として好楽の振りによって行う。両手を振り上げて拝むようなポーズで雄叫びを上げたあと(大概は「あーほやーー」となる)、コンガのような打楽器調の口歌と共に座ったまま踊る。伊藤久男の「イヨマンテの夜」を歌いだしたこともある。基本的には「パプアニューギニアの雨乞い師」だが、「宇宙人バージョン」や「傘屋バージョン」など、好楽の振り次第でアレンジが加わる。会場は大爆笑だが歌丸の受けはよくないため、基本的に好楽ともども座布団を没収される。モノマネ・雨乞い師に次ぐネタとして、「河童ネタ」を振られるようになり、大概、開いた扇子を頭上に掲げて「あべべべべべべべ・・・」といって、「やらせんなよ」と突っ込むケースが見られる。最近は「そうはいかないイカの金玉」と言って座布団を没収されることが多い。
また、実子の2代目林家木久蔵も木久扇とほぼ同様のキャラクターで知られるため、「ダブル馬鹿」・「未だにダブル襲名をやっている」・「(2代目は)勉強しても馬鹿は馬鹿」と木久扇本人および各メンバーからネタにされることがあり、その度に歌丸からは「失礼だ」・「本当のことを言ってはいけない」・「正直だ」とネタにされることがある。なお、概ね座布団獲得できるネタとなっている。
最近では、弟子入り志望の若者が来るが、なぜか落語の弟子を希望するとネタにすることがある(ラーメン屋やその他が本業であり、落語家は副業かあるいはそれ以下というネタが元になっている)。
木久扇について5代目圓楽は「馬鹿を言ってスターになった。あのキャラクターを確立したのは大したものだ」と評価している。

三遊亭好楽

旧芸名は、林家九蔵(1983年3月27日放送分まで)。九蔵(くぞう)時代の愛称は「九(きゅう)ちゃん」であった。
横にいる面々を罵倒したり、からかったり、叫んだりといったどぎつい笑いを追求する他メンバーと比べると、奇をてらう事もなく、替え俳句や川柳などひねりもない優等生的な正統派のネタが多い。歌丸の司会就任後は、歌丸が得意としていた政治情勢批判や社会風刺を盛り込んだネタを、独自の優等生的な持ち味を生かした上でネタにする傾向が増えた。存在感の薄さを反映させたマイナス思考ネタや歌を唄うが歌詞を適当にごまかして座布団を没収されるなどの傾向もある(歌の途中で「らららー」と変わるネタは、両隣の小遊三や木久扇もやることがあり、その度に突っ込む様子が見られる)。
一歩引いて周りを引き立てる存在のため自身のキャラクターを強く出してはいなかったが、歌丸の司会就任後から、「熟年フリーター」・「仕事が無い」・「おしぼり配達のバイトをしている」・「(娘が経営する甘味処が傾き)親子で職がない」などといった貧乏、職無しのキャラクター設定がされるようになった。なお、「仕事が無い」というキャラクターの傾向は九蔵時代からあった。さらに、1999年1月1日放送の笑点では、占い師に、「1999年は仕事が多く来るが、それ以降は・・・」と云われたこともあった。なお、最近では、定額給付金が話題となった頃に12000円で好楽が落語をしに来るなどという「○○円で好楽が来る」というネタをされることがある(因みに、好楽が12000円の時、子息は20000円と、親の方がギャラが安いとネタにされていた)。価格帯は幅広く、安い時は「500円で好楽が来る」という事も。子息の真打昇進に絡んで、「2009年10月にはやっと仕事が来る」とネタにすることがある。
自身の次女が独身であるため、自身で昇太の嫁にと紹介したことがあり、また、小遊三が昇太に対して、「結婚相手は好楽の娘で我慢しろ」とネタにされることがある。前述のように、次女が経営する甘味処が「傾いている」だの「潰れた」だのとネタにされているが、実際は非常に繁盛しているお店である。
九蔵時代に当時の兄弟子であった木久扇に追随した与太郎ネタを多く繰り出していた名残で、今でも大ボケのフォローに回ったり物真似ネタ・雨乞い師ネタ・河童ネタを振って一緒に座布団を没収されたりと何かと隣の木久扇に絡むことが多い。木久扇にネタを振ったのが原因で、振った自分のみが没収された場合は、「また俺かよ」と吐き捨てることも目立つようになっている。
長年に渡り、東京都荒川区在住であり、冬場になると挨拶などで「♪雪は降る~荒川区内~」と『雪が降る』の替え歌を歌う事が多い。
他のメンバーとの絡みでは、隣の小遊三が好楽を犯罪ネタの被害者に仕立てたり、好楽が小遊三の下ネタのたしなめ役を演じるケースが多い。楽太郎とは6代目圓楽襲名を争うネタや「白圓楽」(好楽)、「黒圓楽」(楽太郎)の応酬や、楽太郎の代わりあるいは楽太郎の後の圓楽を子息に継がせようとする、などがある。最近では、楽太郎の次の圓楽(7代目圓楽)はイヤだと発言することもある。
座布団獲得の賞品としてメイドやレイザーラモンHGコスプレを披露したことがある。

三遊亭小遊三

「水色の着物を着た伊達男」を自称して色男らしく振舞う。似ている人物として木村拓哉ペ・ヨンジュン市川雷蔵を挙げ、自惚れネタや、女性タレント(藤原紀香または松嶋菜々子)や外国人女性(イボンヌかキャサリン。この2つは飼い犬の名前)の名前を出すジゴロ(女泣かせ・プレイボーイ)ネタが多い。「文芸作品」や「本当のことでつまらないのですが」と言えばたいていこのネタになる。そのネタをやった場合、本人がそう思っているんだからしょうがない、と言われる場合と、座布団を没収される場合(座布団が7枚以上の場合)、ずうずうしさに免じて座布団がもらえる場合がある。
「答えというのは上品に…」と言う時は、ほぼ例外なく下ネタの前フリである。
犯罪者ネタが持ちネタになっている。番組内での「犯罪者」キャラクターは、とある事件の犯人と顔が似ており、メンバー入りする以前から本人が寄席でその真似をして笑いを取っていた事によるもの。メンバーからも犯罪者や窃盗、変態、貧乏、ホームレス、盗品扱いされており、食い逃げや楽屋泥棒などのキャラクターに扮して自身もネタにしている。
落語芸術協会副会長に就任した2005年頃から「便所でお尻を拭く(副)会長」という駄洒落をよく使っていたが、一部視聴者からのクレームを考慮し、現在ではほとんど使わない。
メンバーの中では頭の大きさが大きいため、被り物が抜けない、被れないというハプニングが起きやすい。
頭頂部が薄くなっていることから「ハゲカケ王子」と呼ばれることが増えている(楽太郎はこれを歌丸罵倒ネタで使う)。また、新メンバーであるたい平と互いの地元をネタにした「大月秩父代理戦争」と称される罵倒合戦を繰り広げている(静岡市出身の昇太が参戦することもある)。
加入当初は、顔のキャラクターが似ていた才賀と罵倒合戦を展開した(上品・キザネタが多い才賀に対して、小遊三は下品・下ネタで応酬)。
ネタ中は本名を良く使われる(最近はたい平が多い)。大月秩父代理戦争時のたい平が「ここが天野家です」や「天野さんとこの幸夫さんは…」と罵倒する事が良くある。

三遊亭楽太郎

他のメンバーはもちろん司会者に対しても暴言を吐く腹黒イメージを確立している。歌丸との対決の構図は歌丸が司会者に就任してからさらにエスカレートしており、両隣の昇太・たい平を「ブラック団(当初はヤングチーム)」として巻き込んでいる。たい平は楽太郎のペースに乗ってくるが、昇太の方は乗り気ではない。
加入当初のキャラクターは三波に媚を振る風見鶏役だったが、それに対して歌丸が「腹黒」・「腰巾着」などと楽太郎を罵ったことで腹黒のイメージを定着させた。小圓遊の死去後は、言われっ放しだった楽太郎が歌丸罵倒ネタにシフトしたことにより罵倒合戦へと発展した(これはネタに困っていた楽太郎に歌丸本人が「俺のことでもいいから」とアドバイスしたためである)。
歌丸に関しては、当初は禿ネタが中心で、2000年代以降は死去ネタ等へシフトしていたが(他には、歌丸の恐妻・冨士子夫人ネタがある)、歌丸司会就任後からはジジイネタや入院ネタ等とレパートリーが増えている。なお、1996年からは、アナウンサー大喜利で司会を務めることがあり、勝利チームの商品として、歌丸罵倒ネタに関わる商品を出すこともある(「安眠どころか永眠出来る歌丸抱き枕の部分が歌丸の頭部(禿ネタ)で短冊部分がガイコツ(死去ネタ)になっている歌丸風鈴等)。最近のパターンは「座布団が一枚も無い事だから罵倒ネタを連発しても没収されない」ケースが多い(たい平も同様のことをする場合がある)。
5代目圓楽に関しての罵倒ネタをすると、歌丸が「(この事を)後で圓楽さんに電話しておくから」などと付け加えたりする。
他のメンバーより時事ネタを多用し、知的な話(政治、経済、社会)を長々と言う持ちネタもある。挨拶では次のこん平が「私にはそういう難しいことはよくわかりませんが」と返すのも定番であった。他のメンバーが答えに詰まったとき、問題の締めとして最近の社会問題ネタを話し、座布団を貰うことも多い。ただし、「脱北ネタ」は獲得出来る場合と没収される場合とがある。
2010年より6代目圓楽を襲名することから、「馬圓楽」(5代目)・「黒圓楽」(楽太郎)・「白圓楽」(好楽)が定番ネタのひとつになっている。また、他にも歌丸が楽太郎を指名する際、「悪太郎」といい間違えたことから、「三遊亭圓楽よりも、三遊亭悪太郎のほうがいいんじゃねぇか?」と発言している。更に、歌丸罵倒の際には「山田君、悪太郎のを全部持っていきなさい!」と使ったりすることもあった。また、「襲名後に圓生を継いで圓楽を捨てる」、「楽太郎の名前を好楽に襲名させる」というネタもある。
6代目襲名が明らかになる以前から、圓楽襲名を狙っている、圓楽襲名に備えてサインの練習をしている、好楽と襲名争いをしているなど、5代目圓楽が笑点の司会者だったころから「6代目圓楽襲名」をネタとしていたが、現実に6代目圓楽を襲名することになったことから、ネタの方向性が変化したため、現在の形となっている。
現メンバーの中ではこれまで、自身の家族のネタをされたことは皆無に近い(歌丸は冨士子夫人、小遊三も夫人、好楽は次女と長男、木久扇は長男で弟子(2代目木久蔵)、昇太は静岡の母、たい平は言うまでもいなく「ちか」、山田は前夫人・現夫人および子女の中では主に長女がそれぞれネタの俎上にあがっている)。

春風亭昇太

メンバー加入前にも、若手大喜利のメンバーや司会及び「BS笑点」の総合司会、山田休演による代理座布団運び等で「笑点」に関わっている。
呂律の回らなさから「カミカミ王子」と自虐したり、「うるさすぎるチビ」などとからかわれたりする。挨拶では自分に関する間抜け話を言い、「それじゃダメじゃん」の一人突っ込みで終わらせる(一時期、好楽も使っていた)。また、挨拶で亭号も言っているのは現時点では昇太だけである。加入当初は答えが不発に終わることが多かったが、現在では他のメンバーとの罵倒合戦に積極的に参戦している。時には、楽太郎以上に毒のある歌丸死去ネタ・禿ネタを言い放つ場合もある。
独身・未婚をネタとしており、他のメンバーや司会からネタにされている。その一方で自分はモテていると主張したり、もう結婚できないと自虐したり、一生を落語に捧げるというネタを披露することもある。司会の歌丸は独身ネタや駄目な答えに対して、「早く嫁貰いなよ」・「なるほど嫁が来ねえ訳だ」などとからかう。楽太郎以外からは、結婚相手を紹介されたことがある(小遊三・たい平は、いわゆる恐妻とネタにされている自身の夫人、木久扇・好楽・山田からは自身の娘、歌丸からは近所に住む独身の老婆を紹介された。また、2009年10月25日放送の青森市文化会館からの地方収録では、歌丸が会場に来ていたおばあさんに昇太の嫁にならないかと聴いていた。なお、好楽の娘(次女)と山田の娘は独身だが、木久扇の長女は既婚である)。2009年12月9日には、独身のままついに50歳になったため、直後の放送である同年12月13日の放送以降、「もう50なのに」とか、「もはや絶望的」などとネタにされるようになった。
独身にもかかわらず女性を泣かせたとネタにすることがあり、概ね、静岡(以前は清水とも)のお母さんから、「雄二、何時孫の顔を見せてくれるんだ」と電話で懇願され泣かれてしまったとしている(なお、雄二は昇太の本名)。
アナウンサー大喜利では、女性アナから「横顔が半魚人みたい」とネタにされたこともある。
楽太郎によって、たい平とともに「ブラック団」(当初は「ヤングチーム」)のメンバーとされ、歌丸死去ネタなどへの同調を強要されたり、座布団没収の巻き添えを食らったりする。小遊三とたい平による罵倒合戦(大月秩父代理戦争)に静岡市代表として参戦することもある(昇太による小遊三(大月)罵倒ネタは、富士山は静岡のものであって、山梨のものではない、富士山のごみを山の反対側に捨てるというネタが多い)。山田から背が低いことを理由に「ちびっ子団」結成を持ちかけられており、メンバーからも「チビ師匠」・「子供」・「身長も芸も伸びない」などとからかわれている。
座布団に固執するキャラクター付けがされている。ネタで座布団をねだり1枚~3枚没収される、座布団を没収されるときに座布団や山田に必死にしがみついて山田に蹴飛ばされて没収される、「いい大人が座布団の取り合いをしている」と発言して全部没収される、など様々なケースが見られる。このため、最近では座布団没収を避けるためにブラック団の歌丸罵倒ネタに積極的に関与しなくなってきた(ただし、単独でのネタはほとんど変わらず)ものの、逆に巻き添えで昇太だけが代表とされて没収されることもある(なお、逆にたい平は後述のようにやや関与ないしは自発的に行うようになってきている)。
楽太郎に比べると、歌丸罵倒ネタはやや遠回しないしは婉曲的な表現を用いることが多く(ただし、楽太郎同様、毒のきつい傾向はある)、前述の死去ネタでの最高没収時には、「お前はあの世に行きなさいよ」といい、同じく禿ネタでの最高没収時には「栄養が肉と毛に行かない」という表現を用いている(楽太郎であれば、前者は「死んじゃえ」とそのままの表現となり、後者は「痩せこけたジジイ・毛がない」等と、ほぼそのままの言い回しなる。後者の場合、木久扇であれば「はげちゃびん・生ミイラ」とすることが多い)。なお、婉曲的な歌丸禿ネタの中で、シャンプードライヤー要らないネタは、昇太や楽太郎は勿論のこと、全員が使うネタである。
なお、現在座布団剥奪の不名誉な記録(歌丸死去ネタ・歌丸禿ネタ・楽太郎の歌丸死去ネタの巻き添えによる剥奪)3冠である。

林家たい平

メンバー加入前にも、若手大喜利のメンバー及び「BS笑点」の大喜利メンバー、山田休演による代理座布団運び等で「笑点」に関わっている。
主な持ちネタは外国人パブ(フィリピンアニータ)、オカマ、芸能人・著名人(春風亭柳昇滝口順平麻生太郎など)の物真似、動物(ニワトリなど)や花火(口笛で打ち上げ音、床を手や足で叩いて破裂音)の声帯模写、バンジージャンプや強風に煽られるなどのジェスチャー、車掌、駅員のアナウンス恐妻家ネタ(たい平の嫁は「ちか」という名前で、歌丸の恐妻・冨士子夫人を上回る恐妻という位置づけがなされている。「ちか」に関するたい平罵倒ネタの事例としては、小遣いが少ない、活火山より怖いのはちかさん、家に入れてもらえない、玄関の鍵を取り替えられた(取り替えられる前に、指紋認証のものに変えた)、歌丸に「師匠のところほどじゃない」、楽太郎から「冷たい家庭」、昇太から「結婚しないで良かった」)など。
声帯模写やジェスチャーで「その演技に免じて」座布団を貰う事がある一方、しつこく繰り返したり、楽太郎らに必要以上に絡んだりすると、楽太郎から扇子で頭を叩かれたり、座布団の没収対象となる。物真似では、笑点メンバーの中で真っ先に、沢尻エリカの「別に」や麻生太郎など、流行を先取りしている。
師匠こん平のスタイルを踏襲した山田隆夫との罵倒合戦を展開しており、山田から突き飛ばされたり、頭から床に押し倒されるなど激しい攻撃を受ける。そのため、一時期は生傷が絶えず、山田自身もたい平を突き飛ばした勢いで小指の靱帯を切ったことも。
歌手デビューがきっかけで「芝浜ゆらゆら」の宣伝や歌の披露が持ちネタに加わっている。このネタをいうと、木久扇が「いやんばか~ん・・・・」を踊った時と同様に、山田に突き飛ばされる、楽太郎に舞台袖へ引き上げさせられるなどの対応をとられる。
昇太がメンバー入りしてからは、楽太郎から半ば強引に「ブラック団」(当初は「ヤングチーム」、かつて好楽からも「フレッシュチーム」の誘いがあった)のメンバーとされる(楽太郎の歌丸死去ネタに同調して合掌をすることもある)。楽太郎とは、笑点に出るために師匠のこん平にを盛った、こん平を復帰させないために治療費を払わない・値切る等のネタを振られ、同様のネタで応酬する。なお、自身でも「毒キノコには詳しくないがトリカブトには詳しい」とネタにすることがある。
2008年以降、小遊三と互いの出身地を罵倒する「大月秩父代理戦争」と呼ばれる罵倒合戦を展開している。
2009年以降、楽太郎・小遊三から浮気暴露ネタを振られ、真顔で辟易する機会が増えている(基本は鹿児島(特に錦江湾)だが、札幌や金沢の女というバリエーションもある)。
また、2009年からは、火曜サスペンス劇場テーマ曲を歌うことがあり、「バラバラの変死体」・「東尋坊からおじいさんを突き落とした」という殺人事件ネタ(ただし、歌丸死去ネタとは限らない)や、楽太郎の「冨士子は純白のハンカチを巌の顔にそっと掛けた」という歌丸殺害ネタ(巌とは歌丸の本名)のあとに歌い出すなど、昇太に比べて控えめだった以前よりも死去ネタに関わるようになってきた(禿ネタは、木久扇・楽太郎・昇太ほどではないものの、以前から単独でのネタをすることはあったが、2009年の座布団10枚獲得以降、さらにエスカレートする傾向が強くなった)。

山田隆夫(6代目座布団運び)

「座布団と幸せを運ぶ、山田隆夫です」と挨拶するのが定番。挨拶では甲高い声で歌うことが多いが、音痴を装っており、大抵は声が裏返る。歌丸が司会就任後に決めた「歌は禁止」ルールもどこ吹く風で、歌丸も呆れて注意をしなくなった。
5代目圓楽の司会時代は「江戸川のスター」(江戸川区在住時)、「小さな巨人」、「笑点のエース」と紹介されていたが、歌丸は皮肉を込めた紹介をパターンとしている(三波が山田の前任者である松崎真を紹介する時のスタイルを踏襲したもの)。
大喜利では「邪魔・クビになった」「音痴」「子作り」「背が低い」「家族暴言」「歌がダメ(下手)」などの悪態をついたメンバーから、座布団を奪って勝手に持っていくやり取りがよく展開される。5代目圓楽の司会時代は「山田君、任せます」とそのままにされていたが、歌丸は山田が座布団を取り上げた後で、取り上げられた座布団+1枚(場合によっては2枚)を与えるよう指示する事がある。このとき山田は、露骨に嫌な表情をしながら座布団を持ってきたり、座布団を投げ捨てるように置いていくという行動をとる。2009年からは、司会の歌丸に対して「えーっ、何で?」と疑問を投げかける事が多くなった。しかし、「あまり悪口言わないでよ」と言って、自ら座布団をあげる場面も稀にある。
圓楽が司会の時は、座布団を1枚あげる振りして1枚、あるいは全部持って行ってしまうというフェイントを見せるパターンもあったが、歌丸が司会になってから取り上げられた(全部の)枚数+1枚与える事になってしまった為、封印せざるを得なくなってしまった。
特にこん平、たい平とのやりとりでは、後ろから突き倒したり蹴飛ばしたりして、座布団を奪っていくことが多い。延々と歌を歌う木久扇や罵倒ネタを展開した楽太郎らを突き飛ばしたケースもあり、木久扇のケースは『行列のできる法律相談所』で、2003年当時、「木久蔵が訴えた」としてネタにされたことがある。こうしたやりとりは1990年代半ばごろまで放送ではカットされていた。
時たま、自ら答えてメンバー入りをアピールすることもあるが、「奥で座布団敷いて座ってていいから」(5代目圓楽)、「あっちいけ!」「素人ってのは恐ろしい…」(歌丸)等と軽くあしらわれる。
昇太を自ら率いる「ちびっ子団」(ブラック団に対抗して)に加入させようと試みているが、昇太は乗り気ではない。
2009年11月8日の笑点(5代目圓楽追悼番組)の「円楽さんを送る大喜利」の中で飛び入り参加し、「師匠、ありがとうございました」と長年の感謝を込めて涙を浮かべながら答えた。ただし、歌丸はこれを「素人ってのは恐ろしい」とネタにしていた。

かつての出演者

7代目立川談志(笑点初代司会者)

前身番組『金曜夜席』からの司会。
番組タイトルの命名者であり、大喜利をメインに据える番組構成やその大喜利の基本的なスタイル(良い答えを出した褒美に座布団を与える、フリップや被り物を使用するなど)の提案、さらに裏方と見られていた座布団運びに盟友である石井伊吉(後に毒蝮三太夫と改名。この名を与えたのも談志である)を起用し、キャラクター付けをするなど後の長寿番組に至る基礎を作り上げた。
「大喜利ゲスト大会」を企画し、落語家以外の出演者で大喜利を行ったのも談志が最初であり、また若手大喜利を企画し、春風亭栄橋、柳家小きん、林家木久蔵(現:林家木久扇)という後の大喜利メンバーとなる人材を発掘した点も大きい(ちなみに木久蔵に与太郎キャラでやっていくようアドバイスしたのは談志である)。
メンバーのキャラクター付けをするためか同じメンバーに続けて指名して答えさせたり、メンバー同士の喧嘩を煽ることも多かった。
1968年頃から番組の方向性をめぐって談志と当時の大喜利メンバーの間で対立が起きて1969年3月に大喜利メンバー全員が降板するに至り、メンバー総入れ替えによりリニューアルを図ったが視聴率が低迷。そのため、毒蝮らとともに降板する。降板後も不定期に番組に出演していたが、近年は完全に距離を置いている。

前田武彦(笑点2代目司会者)

前任者の談志と親しい関係にあったことから後継に指名された(司会就任の前の1967年8月27日放送の「大喜利ゲスト大会」では大喜利メンバーとして出演している)。
談志よりも演芸・落語関係の知識は乏しいと思われたが人気司会者らしく巧みな司会術でそれを感じさせなかった。もともと短期での出演予定で司会を務めたのは1年余りだったが、談志降板後の新たな番組の方向性を試行錯誤し、大喜利メンバーの入れ替えも度々行われた激動の時期にしかも落語家が多数出演する番組の司会という特殊な仕事を短期間ながらも立派に勤め上げた前田の存在は、「笑点」が後に長寿番組となったことを考えると非常に大きいといえる。
前期の前田司会の大喜利はメンバーが8名(4対4のチーム対抗戦方式)という大所帯だったため矢継ぎ早指名でスピーディーに、メンバーのキャラクターを生かすというよりも大喜利の答えを多く引き出す進行を行っていた。答えの傾向としては、これまでのブラックユーモア路線を撤廃しアットホーム路線へと切り替った。
後期になると現在のように大喜利メンバーが6名になり、この頃はコスチューム大喜利を取り入れるなどバラエティーに富んでいた。
また自身の司会就任と同時に登場した『笑点のテーマ』を作詞している。
レギュラー番組を複数抱え、地方収録の際には収録当日の朝に収録先へ入ったり、逆に収録終了後に東京へトンボ帰りして別の番組に出演するなどしていたという。代理司会をした三波の評判が良いと知ると司会の座を譲って降板。

三波伸介(笑点3代目司会者)

前任の前田武彦と同様に矢継ぎ早指名を行っていたが、大喜利でのメンバーの答えに対しての口喧嘩などのドタバタ劇で番組が盛り上がることもしばしばだった。このため、歴代では最も慌しい司会といえる。それゆえ、子供人気は高く「週刊少年マガジン」などの表紙になる程になった。
座布団のやり取りは激しく、悪い答えの時には全部没収になることが多く、いい答えを出した時には2枚程獲得できる。つまらない答えには座布団を取らず「面白くも何ともねえや!」と言い放つだけということもあった。またメンバーの罵倒に対しても着物を剥いだり、座布団を全部没収した上にメンバーをその場に立たせたままにするなどで対応していた。座布団が無い状態で悪い答えを出したメンバーには、「電車賃やるから帰っていいよ」などと罵倒した。
座布団運びの松崎真の紹介の際には「玄界灘オニヒトデ」「ヨダレ」「仁王様の湿った草鞋」「カラスに突付かれた熟し柿」「コケの生えたサルノコシカケ」「焼印を押された牛のお尻」「大蛸ルアウ蒸し焼き」「カトマンズヘッピリ虫」「夜店ライギョ」「陸に上がったトドの死体」「戸隠山金隠し」など毎回ユニークな前振り(時には罵倒)をして笑いを取っていた。後に歌丸がこれに近い紹介をしている。なお、大喜利中に座布団運び(小野千春や松崎真など)を呼ぶ時は名前ではなく、「オイ!」と呼びかけていた。
1982年12月8日に急逝。12月12日(第848回)・12月19日(第849回)・12月26日(第850回)の放送は前半に三波の追悼特集(12月26日は収録済の「年忘れマジック大会」)、後半は収録済の大喜利という特別編成となる。第848回の視聴率が36.0%(ビデオリサーチ調べ)を記録するなど、改めて三波の人気の高さを証明することとなった。

5代目三遊亭圓楽(笑点4代目司会者)

大喜利メンバー時代初期は挨拶の際「湯上がりの顔です」と言い、一旦降板直前頃には「星の王子さま」と言っていた。復帰後は「落語の宣教師」「正義の味方」「ラベンダーマン」「ベルサイユのばら」「バンビちゃん」などもあった。
メンバーだった頃から「顔が大きい、長い」「馬面」といった顔に関するネタが使われていたが、その他にも「ウルトラマン」や「黄金バット」の主題歌を延々と歌って、三波を困らせたこともあった。1977年3月27日にメンバーを卒業するが、卒業後も鶴亀大喜利や師弟大喜利といったスペシャルの大喜利に参加した(1999年1月1日放送の正月特番の師弟一門大喜利が、メンバーとしての最後の大喜利になった)。メンバー時代に獲得した座布団10枚の商品は「イギリスに行って本場のダービーが見られるが、旅費は自腹(結局キャンセル)」「メンバーから胴上げされる(落とされて足をくじいた)」などのろくでもないものばかりだったという。
三波の死去と、鶴亀大喜利の臨時司会だった愛川欽也の司会就任辞退を受けて、1983年1月に司会者として再び番組に出演。2回のみの司会担当の予定であったが、そのまま4代目司会に就任した。当初は三波時代のドタバタ劇を引き継いでいたが、自分の性格に合わないことから撤回。答えの合間に都々逸を入れるといった、独自のスタイルになったが、それがテンポの悪さを生み、人気が低迷した。しかしテンポを見直し、再び矢継ぎにメンバーを指名するスタイルに戻したため、再び人気が上昇した。
司会者時代では、以前からの「馬」ネタに加え、「若竹」の借金、本番中の居眠り、司会交代が主な罵倒ネタである。5代目圓楽のサイン色紙を鍋敷き代わりに使うというネタは、歌丸と楽太郎が多用していた。かつて一門の弟子が全員真打に昇進してしまったことがあり、その際には「弟子をほとんど真打にしたのでヒマ」という罵倒ネタ(とくに歌丸から)を振られたこともある。
指名してから名前が出るまでに(明らかに名前が出て来ない)間が空く事や新メンバー(当時はこん平の代打)のたい平に「誰だっけ?」と名前を忘却するなど「緻密な司会ぶり」が大喜利のネタとされた。
「ガハハ!」という豪快な笑い声が特徴で、木久蔵(現・木久扇)の与太郎(=バカ)ネタに大笑いした後「バカだねぇ~」とあきれる。この笑い声は、座布団10枚の賞品にもなった。
外来語の発音を、「チーム(team)」でなく「ティーム」と発音するなど意識している。対して語りではタメのある江戸言葉を交え、『笑点』でも山田が座布団を運ぶ折に「座布団を“あげつかあさい”」(”つかあさい”→江戸言葉で「~してください」)などと軽妙に話した。
メンバーを指名する際は基本的に全員「さん」付けで呼んでいたが、答えのフォローの時などは長幼の序や自分との関係を重視してか歌丸のことは「歌さん」こん平のことは「こんちゃん」木久蔵(現・木久扇)のことは「木久ちゃん」楽太郎のことは「楽さん」と呼んでいた(楽太郎を除く3人はメンバー時代の5代目圓楽と大喜利で共演している)が他のメンバーには亭号抜きの「**さん」と呼んでいた。特に弟子の好楽・楽太郎には顕著である(司会担当当初、楽太郎は呼び捨てにしていた)。なお逆にメンバーが圓楽を呼ぶ場合、歌丸・こん平・木久蔵は「圓楽さん」、他のメンバーは「圓楽師匠」と呼んでいた。
オープニングで憲法改正サマータイム導入を訴えるなど、保守派右派的視点からの時局的発言も度々見られた。
媚に弱く、大喜利メンバーが5代目圓楽を称えるヨイショをすると「山田君、座布団持ってくるのが遅いんだよ!」や「山田君、こういう時はすぐに座布団を持ってくるもんだよ!」などと言う。
2005年10月23日、脳梗塞を発症して休演。2006年3月26日に復帰するが、冒頭のみの出演で、大喜利司会はそのまま歌丸が務めた。2006年5月14日の40周年記念スペシャルを最後に笑点を勇退。大喜利の途中で勝手にお開きをしそうになったこと(2001年2月11日放送分)が原因で、笑点の勇退を決断したという。2009年10月29日に死去。11月8日(第2189回)の放送は、前半に5代目圓楽の過去の名場面を振り返る追悼特集、後半は圓楽追悼大喜利の構成となった。

柳亭小痴楽

前身番組「金曜夜席」からの初期大喜利メンバー。
なぞかけブラックユーモアを得意としており、司会の談志の評価も高かった。下ネタも得意としていたが、現在の放送倫理では放送できないくらい際どいネタ(ブラックユーモアも含めて)が多かった。一例として、以下のようななぞかけがあった。
小痴楽「ビールと掛けて、癲癇持ちの女との初夜と説く」
談志「そのこころは?」
小痴楽「抜いた途端に泡噴いた!」
真打昇進・2代目春風亭梅橋襲名と同時に「笑点」を降板する(正確には、降板後の翌月付けでの真打昇進・梅橋襲名であった)。

4代目三遊亭小圓遊

旧芸名は三遊亭金遊1968年9月22日放送分まで)。
「巷では…」「ボクちゃん」「小圓遊御殿」等のフレーズを使ったキザキャラクターとして人気を博す。落語の人物でいうと、おぬぼれ色の強い(自称二枚目など)「若旦那」役。1973年浅草で行われた日本テレビ開局20周年記念番組の一環で放送された大喜利での挨拶は以下のように挨拶をする。
「場内で、カメラをお持ちの皆様、もしも僕を写すんでしたら、この角度から狙ってください。こちらは自信が無いんです。小圓遊です」
1歳年上で同じ落語芸術協会所属の歌丸と敵対し、常に罵り合う様子が大喜利コーナー最大の名物になった。但し、あくまでも番組上の設定で、実際には同じ時期に下積みの苦労を味わった仲で、まだ落語では食えなかった無名時代には一杯のかけそばを二人で分け合って食ったという程の親友であり、だからこそできるネタであった。もっとも、この歌丸対小圓遊のバトルが、現在まで続く大喜利メンバー同士の罵倒合戦ネタ(現在は、小遊三とたい平の大月秩父代理戦争)の基礎になっている。
1980年10月5日未明に急逝。その日の放送はハワイ公演1週目であった。

6代目三遊亭圓窓

5代目圓楽の弟弟子であり、キャラクターとして兄弟子に甘えることが多かった。落語の人物でいうと「丁稚定吉」役。挨拶で、駄洒落クイズなどをよく出していた。
なぞかけや頓知を得意としていた反面、周囲を脱力させるくだらない答えを言うこともしばしばある。その際に兄弟子の責任として理不尽に5代目圓楽の座布団が取られるのが、一連の流れのネタでもある。
5代目圓楽が大喜利メンバー卒業した後は、風刺ネタが多くなった。

林家こん平

本人の故郷である「千谷沢村(チャーザー村)」を肥溜め落っこち・ホラ吹きさせたり、「視聴者参加型挨拶」で行われる「チャラーン」を"うるさい"と言われたり、食いしん坊・大食いネタを言われる(特に木久蔵・楽太郎)。落語の人物でいうと「田舎者の権助」役。
地方収録では、必ず以下のように挨拶をする。
1週目は『郷土の皆様、お懐かしゅうございます。○○(収録場所)で生まれて新潟で育ったこん平が久方ぶりに帰ってまいりました。』(ちなみに、新潟収録のときは「新潟で生まれ、チャーザー村で育った…」と挨拶していた)
2週目は『ふるさとというのは有難いものでして、先程から友人知人が手に持ちきれないほどのお土産を持って楽屋を訪ねてきてくれております。厚く御礼申し上げます。なお、会場の皆様にお知らせがございます。私の帰りのかばんにはまだ 若干 の余裕がございます!』
また山田罵倒ネタが大変多いため、よく突き飛ばされることも有名(弟子のたい平が受け継いでいる)。
2004年に声帯を患い、笑点を休演。弟子のたい平が代わりで出演しているが、たい平を中心に大喜利の答えの中で度々名前が登場して来ている。
「肥溜めに落っこった」ネタは、弟子のたい平が「大月秩父代理戦争」の中で、「大月に行ったら肥溜めに落っこった」と、小遊三罵倒ネタという形で継承している。

三笑亭夢之助

6代目三遊亭圓窓の後任で、当時人気絶頂の若手落語家。
下火になってきた歌丸小圓遊の口喧嘩の代わりに、当時司会だった三波と夢之助の毒舌を含めた口論(夢之助が三波をおちょくって激怒させる)が番組の新たな名物に一時的になった(同時に加入した楽太郎が三波に媚びうるキャラだったため対比の意味合いもあった)。落語の人物でいうと「お調子者の一八」役。
三波との口論が多かったため座布団を取られることが多かったが、結果的に2年で3回座布団10枚を獲得している。1978年に座布団10枚を2回達成している(その他に年2回に座布団10枚を獲得したのは、歌丸・木久扇・昇太の3人のみ)。時には、座布団10枚目前で全部取られたこともしばしばあった。
前途にある通り毒舌を売りにしていたわけだが、それでスポンサーがらみの失敗をしてしまい降板となった。最後の出演の際「このままだと破門になる」と言い残し、番組を去る。

7代目桂才賀

旧芸名は、古今亭朝次(1985年8月25日放送分まで)。
若手メンバー時代は細長で恐持て顔の元気者キャラで知られていたが、正式メンバーとなってからは小圓遊の「キザな若旦那」キャラを引継ぎつつ「ムショ帰りの朝次」キャラで売りだした。
才賀自身が松田聖子のファンであったため、挨拶で「海辺に咲いた赤いスイートピー、朝次で~す!」と言ったことがある。それにたいして歌丸らが気味悪がり、「窓辺でハイネリルケの詩集を読んでます」などの「夢見る乙女」ネタに繋がった。
1983年10月16日に加入した小遊三が色男・貧乏・悪人と似たキャラで売り出した為、才賀と小遊三が隣同士になった1986年1月5日から才賀が卒業する1988年3月27日まで、「キザで上品」な才賀と「スケベで下品」な小遊三とで罵倒合戦を演じていた。
朝次時代及び才賀襲名後も座布団10枚達成が無かったが、卒業直前の1988年2月28日に初めて達成。翌週の3月6日に獲得賞品の模様が放映された。

毒蝮三太夫(2代目座布団運び)

旧芸名は、本名である石井伊吉(1968年12月8日放送分まで)。
登場当初から、談志から「石井」とは全く呼ばれず「馬鹿」「おい」など下僕呼ばわりされていた。それに対して言い返しをするくだらない口喧嘩をしょっちゅうしており、エスカレートして収録途中で帰ったこともあった。それで座布団運びが不在となったため、メンバー自ら座布団持ち運びする羽目にあった。
歴代座布団運びでは最も威張っており、「何で俺が、落語家なんかに座布団配らなきゃいけないんだ」などと言い放っていた。さらに二出川延明の名言「俺がルールブックだ」を引用して、つまらない答えを言ったメンバーの座布団を勝手に取ることも多かった。
ある時、怪獣の出てくる番組(「ウルトラマン」・「ウルトラセブン」)に出演しているということで談志が「マムシ」と呼び始めた。それに猛反発していた石井だったが、5代目圓楽が「ただのマムシじゃないよ、毒蝮だよ」と言ったところから「毒蝮」が定着してしまい、出演者全員から「毒蝮」と呼ばれることとなった。
その結果、子供視聴者の混乱を避ける意味合いで1968年12月15日放送分から立川談志命名による「毒蝮三太夫」に「笑点」限定で嫌々ながら改名させられることとなった。しかし「毒蝮三太夫」という名前のインパクトが強過ぎたため、1年足らずで正式改名となる(毒蝮曰く「せめて俳優としては石井のままにしたかったが毒蝮には勝てなかった」とのこと)。

小野千春(4代目座布団運び)

「前武の何でも入門」のアシスタントを務めていたが、メンバーチェンジの際のリニューアルに伴い座布団運びも務めることとなった。現役女子大生アイドルであったため、メンバーから好奇な目で見られていた。
当初は挨拶で喋ることは無かったが、徐々にメンバー同様に喋る様になる。この挨拶の流れが、現在に繋がっている。
今でいうセクハラ行為をメンバーから受けることが多かったため、司会の前田の注意が頻繁に入っていた(当時、同じ芸能事務所の後輩だったため保護者の心理だったという)。
司会が三波に代わってから座布団の上げ下げが忙しくなり、当時アシスタントだった桂米助(ヨネスケ)の手を借りることが多くなった。

松崎真(5代目座布団運び)

「手を上げて横断歩道渡りましょう」の挨拶が決まり文句で、流行語にもなった。しかしこれは毎週必ず言っていたわけではなく、2本撮りの内の1週の挨拶。もう1週には、別の交通安全標語だったり童謡などを歌っていた。
本業は俳優であり悪役が多かったが、笑点では常に笑顔だった。高圧的な態度を取る三波に対しても、それは変わらなかった。
座布団運びの紹介の際に大入道などの罵倒ネタが多く「しまい忘れた電気あんか、いつ見ても温かそうな奴でございます」と言われた時も、手鏡で自身を見て「フハハ!本当だ、松崎真でございます」と切り替えした。
現在の座布団運びの山田のように、たまに自ら答えようとする時もあった。
司会が5代目圓楽に代わってからの紹介は「交通安全の守り神(または守護神)、どうぞ!」が主で、呼ぶ際にも「松崎さん」と言われるため罵倒されなくなる。
1984年9月、俳優業に専念するために番組を卒業。その後、2006年5月14日の40周年スペシャルで久々の出演。懐かしい赤の色紋付を着て、横断歩道からの撮影であった。

罵倒合戦

仲が良さそうに見える笑点メンバーも、大喜利となるとメンバー同士で強烈な罵倒ネタ合戦を繰り広げることがよく見られ、醍醐味の一つとなっている。特に歌丸VS楽太郎(ブラック団)、たい平(こん平)VS山田、小遊三VSたい平は、現在のレギュラー同士による罵倒合戦の代表格である。

大喜利におけるメンバー同士の罵倒合戦の歴史はかなり古く、放送開始の昭和40年代当初は、歌丸VS小圓遊の仁義なき戦いが繰り広げられていた。小圓遊が歌丸を「ハゲてる」と罵倒すると、歌丸が小圓遊を「バケてる(化け物)」と罵り返したりしていたが、やがてお互いの家族親戚をも悪口の対象にするまで発展していった。最初は面白がって見ていた視聴者の中には、大喜利の答えで勝負すべしと言う声もあったくらいであった。1972年8月27日に「和解式」と題して、歌丸と小圓遊のお互いが握手しあう回を放送した事がある。しかし収録後、「バイ菌がうつるといけないから」とそれぞれ別々の手洗い場で石鹸で丹念に手を洗っていたほど、2人のキャラクター作りには徹底したものがあった。その後、大喜利で下火になった罵倒合戦は高座やイベント会場でも続けられ、1980年に小圓遊が急逝するまで続いた。

罵倒ネタの中には、罵倒ネタであると同時に本人の持ちネタ(自虐ネタ)であるものも多分に含まれている。また罵倒ネタは本職の落語の高座でも触れられることがある。

ただし、これら罵倒ネタは高座上の事であり、プライベートでは仲が良く、相互の信頼関係が前提となっているからこそ可能といえるものである。圓楽/楽太郎師弟と歌丸/楽太郎がその典型であり、あれ程喧嘩をしていた歌丸と小圓遊にしても、その真相は、下積み時代の金が無い頃には一杯のラーメンやかけそばを分け合って食べていたという仲であり、空港や列車の中などで談笑するところが目撃されている(「いつみても波瀾万丈」桂歌丸の回より)。小圓遊の葬儀では、歌丸は友のあまりに早すぎる突然の死に号泣し、初代司会者・立川談志は「キザの小圓遊でやれば良かったのだ」と、死を悔やんでいた。

脚注

  1. ^ 2006年11月6日放送の「極上の月夜」で林家木久蔵(当時)談

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