ウィリアム・スミス・クラーク

アメリカの教育者

ウィリアム・スミス・クラークWilliam Smith Clark1826年7月31日 - 1886年3月9日[1])は、アメリカ人教育者化学植物学動物学の教師。農学教育のリーダー。日本ではクラーク博士として知られる。日本における「お雇い外国人」の一人である。

ウィリアム・スミス・クラーク
William Smith Clark
生誕 1826年7月31日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州アッシュフィールド
死没 (1886-03-09) 1886年3月9日(59歳没)
アメリカ合衆国 マサチューセッツ州アマースト
職業 教育者
配偶者 ハリエット・ウィリストン
署名
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さっぽろ羊ヶ丘展望台のクラーク像

1876年(明治9年)札幌農学校(現・北海道大学)開校。初代教頭。同大学では専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした[2]

略歴

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1826年7月31日、医師であったアサートン・クラークを父として、ハリエットを母としてマサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。1834年ころ一家はマサチューセッツ州のEasthamptonに引っ越した。ウィリストン神学校で教育を受け、1844年にアマースト大学に入学。Phi Beta Kappaの会員となる。1848年に同大学卒業。

1848年から1850年にウィリストン神学校で化学を教え、化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学へ留学、1852年に同大学で化学の博士号取得。社交的で誰からも好かれ、成績が非常に優秀であったので[3]、同年、20代にして教師就任の要請を受けてアマースト大学教授となる。1867年まで分析化学と応用化学を担当して教える。化学だけでなく1852年〜1858年には動物学、1854年〜1858年は植物学も教え、計3つの専門を教えるという活躍をした。。

じきにクラークはゲッティンゲン大学で学んでいた時期から着目していた農業教育を推進しはじめる。1853年には新しく設立された科学と実践農学の学部の長になったが、これはあまりうまくいかず、1857年には終了した。これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付く。

マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任、初代と2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である。1860年〜1861年にHampshire Board of Agricultureの長となり1871年〜1872年も再度就任。

途中、南北戦争に参加することになり、クラークの学者としてのキャリアは一旦中断する。

アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生として同志社大学の創始者新島襄がいた。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月にマサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形で札幌農学校教頭に赴任する。

クラークはマサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入した。

札幌農学校におけるクラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で「President(校長)」と表記することが開拓使によって許可され、実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。

クラークは自ら模範となり、学生を鼓舞、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から生え抜きを後継者に据えて規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促した[4]

9ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を構想するが資金が集まらず頓挫、生活費に困るようになっていたときに出資者を募って知人と共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立して7つの鉱山を買収[3]、当初は大きな利益を上げたが、その知人が横領を繰り返し、果てに逃亡、設立から1年半で破産、負債は179万ドルだった[3]。叔父から破産をめぐる訴訟を起こされ、裁判で罪に問われることはなかったが[3]、晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。

彼は帰国した後も札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしいときだった」と言い残したと伝えられる。彼の墓はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーにある。

家族

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ドイツ留学から帰国して数カ月後の1853年5月25日に、ハワイ王国へミッション(宣教)へ行った人物であるWilliam RichardsとClarissaの間に生まれた娘であるハリエット・ウィリストン(Harriet Keopuolani Richards Williston)と結婚。1838年にハリエットと弟の Lymanはウィリストン神学校で教育を受けるべく、ハワイから送り出された。William Richardsは1847年にハワイで亡くなることになる。クラークは妻のハリエットの間に11人の子どもをもうけたが、うち3人は生後1年以内に死亡した。

イエスを信ずる者の契約

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ここに署名する札幌農学校の職員学生は、キリストの命じるところに従いキリストを告白すること、および十字架の死により我らの罪をあがなわれた貴き救い主にと感謝を捧げるためにキリスト者としてのすべての義務を真の忠誠をもって果たすことを願いつつ、また主の栄光のため、および主が代わって死にたもうた人々の救いのために、主の御国を人々の間に前進させることを熱望しつつ、ここに今より後、イエスの忠実なる弟子なるべきこと、および主の教えの文字と精神とに厳密に一致して生きるべきことを、神に対し、また相互に対して、厳粛に誓約する。さらに、ふさわしい機会があればいつでも、試験、洗礼、入会のため福音的教会に出向くことを約束する。

我らは信ずる、聖書が、人に対する神からの、言葉による唯一の直接的啓示であり、来たるべき栄光の生に向けての唯一の完全で誤りのない手引きであることを。

我らは信ずる、我らの慈悲深き創造主、我らの義なる至上の支配者でまた我らの最後の審判者である、唯一なる永遠の神を。

我らは信ずる、心から悔い、そして神の子イエスへの信仰によって罪の赦しを得るすべての者は、生涯にわたり聖霊によって恵み豊かに導かれ、天の父の絶えざる御心によって守られ、ついにはあがなわれた聖徒の歓喜と希望とが備えられることを。しかし福音の招きを拒むすべての者は、自らの罪の中に死に、かつ永遠に主の御前から追放されねばならぬことを。

我らは、地上の生涯にいかなる変転があっても、次の戒めを忘れず、これに従うことを約束する。

あなたは、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。また自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。

あなたは、生物・無生物を問わず、いかなるものの彫像や肖像を崇拝してはならない。

あなたは、主なるあなたの神の名を、いたずらに口にしてはならない。

安息日を憶えてこれを聖きよく守りなさい。すべての不必要な労働を避け、その日を、できるだけ聖書の研究と自分および他の人の聖い生活への準備のために捧げなさい。

あなたは、あなたの両親および支配者に聞き従い、彼らを敬いなさい。

あなたは、殺人、姦淫、不純、盗み、ごまかしをしてはならない。

あなたは、隣り人に対して何の悪もしてはならない。

絶えず祈りなさい。

我らは、お互いに助けあい励ましあうために、ここに「イエスを信ずる者」の名のもとに一つの共同体を構成する。そして、聖書またはその他の宗教的書物や論文を読むため、話しあいのため、祈祷会のために、我らが生活を共にする間は、毎週一回以上集会に出席することを固く約束する。そして我らは心より願う、聖霊が明らかに我らの心の中にあって、我らの愛を励まし、我らの信仰を強め、救いに至らせる真理の知識に我らを導きくださることを。

— 1877年3月5日  札幌にて  ウィリアム・スミス・クラーク

少年よ、大志を抱け この老人の如く

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札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松駅逓所(現在の北広島市島松)でクラークが発したとされる言葉がよく知られている。それは「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」として知られていた。しかし、この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代があった。1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)による離別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したものとも言われた。

しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三郎が記録。安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明した。安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、これは「この老いた私のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味になる[5]。安東の発表の後、大島自身が内村鑑三編集の雑誌 Japan Christian Intelligencer, Vol.1, No.2 でのクラークについての記述で、全く同じ文章を使ったことも判明した。大島は、次のように述べている。

先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔をのぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。では愈御別れじゃ、元気に暮らせよ。」といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、"Boys, be ambitious!" と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された。 — 「クラーク先生とその弟子たち」

この時に他にも「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説もある。また「青年よ、利己のためや はかなき名声を求めることの野心を燃やすことなく、人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたという説がある。[6] クラークがアマースト大学在学中からambition, ambitiousという言葉を愛用し、かつクラークの人物の形容語として同様の言葉がよく使用されていたことは、近年のアメリカ側の研究で明らかになっており、島松の別れに居合わせていたブルックスが帰国後もこの惜別の言葉について自ら語り、否定していないことからも、ambitiousと言う言葉を用いたことは間違いないとみられる[4]

他にも「Boys be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.」(少年よ、大志を抱け。しかし金を求める大志であってはならない。利己心を求める大志であってはならない。名声という浮ついたものを求める大志であってはならない。人間としてあるべき全ての物を求める大志を抱きたまえ)と言われたという説もある。

クラークとカレー

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クラークは学生にカレー以外のメニューの時の米飯を禁じ、パン食を推進したと言われ、カレーを日本に広めたのはクラークであるという説もある。しかし、『カレーなる物語』(吉田よし子、1992年)によれば、北海道大学には、当時のカレーに関する記録はクラーク離日後となる1877年9月のカレー粉3ダースの納入記録しか残っておらず、クラークの命令もあったのかどうかは不明とされる。ただし、1881年の寮食は、パンと、ライスカレーが隔日で提供されていたことは確認されている。クラークとカレーを結びつける文献として古いものは、『恵迪寮史』(1933年)があり、これによると、札幌農学校ではパン食が推進され、開学当時からカレー以外の米食が禁じられていたという。

北海道立文書館発行『赤れんが』81号(1984年)によれば、開拓使東京事務所では、クラーク訪日前の1872年からお雇い外国人向けにライスカレーやコーヒーが提供されていた。そもそも、北海道でパン食を推進したのは、クラークの前任者とされる開拓使顧問のホーレス・ケプロンであるとされ、札幌農学校とカレーとの関係は、クラーク以前の時代に遡る可能性もある。

「ライスカレー」という語はクラークが作ったという説もあるが、クラーク訪日前の開拓使の公文書『明治五年 開拓使公文録 八』(1872年)で、「タイスカレイ」(ライスカレーの意味)という語が使われている。

第三者からの人物エピソード

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  • 内村鑑三は、「後世への最大遺物」において、「ものを教える」技能を有し教育で貢献する人物の例として挙げ、農学校時代にクラークを第一級の学者であると思っていたが、米国に渡って聞いたらある学者に「クラークが植物学に付いて、口を利くなどとは不思議だ」と云って笑った人があります、と言い「先生、大分化(ばけ)の皮を現はした」とした[7]。しかし、内村は続けて、「しかしながら、とにかくアノ人は非常な力を持って居る。何であるか、即ち植物学を青年の頭のなかへ注ぎ込んで、植物学というInterest(インタレスト) を起す力を持った方であります。それゆえに植物学の先生としては非常に価値のあった人であります。故に学問さえすれば、我々が先生になれるという考を我々は持つべきでない。我々に思想さえあれば、我々が悉く先生になれるという考を抛却(ほうきゃく)して仕舞わねばならぬ。先生になる人は学問が出来るよりか、学問はなくてはなりませぬけれ共、学問が出来るよりか学問を青年に伝える事の出来る人でなければ往かぬ[8]。」と評価している。
  • 札幌農学校の校則について、開拓長官黒田清隆(後の内閣総理大臣)に「この学校に規則はいらない。“Be gentleman”(紳士であれ)の一言があれば十分である」と進言したと言われている。それまで雁字搦めの徳目に縛られていたのと比べると、これはいかにも簡潔なことであった。しかし、何をして良いのか、何をしてはいけないのかは自分で判断しなければならないため、自由でありながら厳しいものとなっている。ただし、開校日にクラーク自身が学生に提示した学則は、これよりはるかに多い。これは、クラークの前任者であるホーレス・ケプロンの素案をそのまま使ったためとも言われている。
  • 離日後も黒田清隆や教え子との間で手紙による交流を続けた。現在も多くの手紙が残っている。

クラーク博士像

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主な教え子

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一期生(16人のみ)

参考文献

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脚注

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  1. ^ William Smith Clark American educator Encyclopædia Britannica
  2. ^ イエスを信ずる者の契約  札幌独立キリスト教会
  3. ^ a b c d フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 3』講談社、2003年。 
  4. ^ a b 赤石恵一「札幌農学校教頭W. S. Clarkの英語教育:自律支援的集団の創造」『英学史研究』49、71-103.
  5. ^ ただし『恵林』には「Boys, be ambitions like this old man」と印刷されているが、「n」は「u」の誤植・倒置と思われる
  6. ^ 「Boys, be ambitious」は、クラークの創作ではなく、当時、彼の出身地のニューイングランド地方でよく使われた別れの挨拶(「元気でな」の意)だった[要出典]という説もある。
  7. ^ 後世への最大遺物 pp.95-96、コマ番号51/82、内村鑑三、東京独立雑誌社、明治32年12月(1899年12月)、国立国会図書館デジタルコレクション
  8. ^ 鈴木範久、我々は後世に何を遺してゆけるのかー内村鑑三「後世への最大遺物」の話ー、pp.185-186、便利堂による初版本(1897年)の復刻写真版が見られる。、学術出版会(学術叢書)、ISBN 4-8205-9464-8、2005-05-25 第1刷発行

関連項目

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外部リンク

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