伊41とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊40型/巡潜乙型改一の2番艦である。1943年9月18日竣工。数々の困難な輸送任務を成功させた他、雷撃で米軽巡洋艦リノを大破させる戦果を挙げた。1944年11月18日、フィリピン沖で対潜攻撃を受けて沈没。
1941年8月15日に実行が決定された戦時急造計画(通称マル急)において、乙型一等潜水艦第371号艦の仮称で建造が決定。第79及び第81帝国議会で予算が成立し、建造費2049万7200円が捻出される。
開戦後の1942年3月18日、姉妹艦の伊40や伊42とともに呉工廠で起工、8月20日に伊41と命名され、11月20日に進水、そして1943年9月18日に竣工を果たした。初代艦長に吉松田守少佐が着任するとともに訓練部隊の第11潜水戦隊へ編入され、瀬戸内海西部で慣熟訓練を行う。11月24日に横須賀へ回航。12月15日、様々なエピソードを持つ快男児板倉光馬(いたくらみつま)少佐が二代目艦長に着任。彼の卓抜した手腕は伊41艦長時代にも遺憾無く発揮される事となる。12月20日に第1潜水戦隊第15潜水隊へ転属し、いよいよ実戦投入される事に。
12月28日、横須賀を出港して前進基地のトラック諸島に向かう。
1944年1月4日に無事トラックへ入港した後、翌日に伊41は南東方面艦隊第7潜水戦隊へ転属。伊5、伊42、伊169、伊171、伊180、伊182とともに輸送任務の増援に送られ、1月7日に南東方面艦隊参謀長より「伊41、伊171、伊180はもっぱら前線輸送に従事せしめらるる予定につき、搭載量増加を計るため貴地出撃前主砲及び弾薬を陸揚げの事に取り計らいを得ば好都合なり」との電文が入った。このため後部14cm単装砲と魚雷11本全てを陸揚げして即席の補給用潜水艦に早変わりする。かつて南東方面への輸送任務はニューギニアに限定されていたが、敵軍の侵攻で水上艦艇の行動範囲が狭められてからは、潜水艦輸送が逐次増加していたのである。1月10日に第15潜水隊の旗艦を伊36から継承、1月15日には第1潜水戦隊が解隊し、第15潜水隊は第6艦隊直轄となる。
1月15日にトラックを出港してラバウルに向かう。翌16日、南太平洋の大海原を進んでいると突如として雨雲が発生し、激しいスコールが甲板を叩き始めた。そしてすぐに雨が止むと同時に左方向からB-24爆撃機が低空より突っ込んで来ているのが見え、見張り員が絶叫。敵機はスコールが降っている時からレーダーで伊41を発見しており、完全に奇襲を受けた形となった伊41に急速潜航する猶予は残されていなかった。このままではやられる!板倉艦長は咄嗟に「敵機に手を振れ!」と命じ、手すき要員が艦から身を乗り出して決死に帽子を振った。苦し紛れの策なので見破られればそれまでである。だが運命の女神は伊41に微笑んだ。敵機はこの策に引っかかり、バンク(両翼を振って味方だと示す信号)したのだ。風防を開けてパイロットも手を振っている所を見るにどうやら完全に騙されていると見て間違いない。この好機を逃すはずがなく伊41は急速潜航、遅れて騙された事に気付いたB-24は慌てて4発の爆雷を投下するが、既に水深45mまで潜っていた伊41には届かず頭上で炸裂するだけに終わった。奇策を以って難局を脱した瞬間だった。
敵襲を掻い潜った伊41は1月19日にラバウルへ入港、現地で物資の積み込み作業を開始する。そしてラバウルを拠点に厳しい輸送任務へ臨む事となる。
1944年1月23日、ニューブリテン島南岸スルミへ向けてラバウルを出港。1月25日19時、闇夜に紛れてスルミに到着。発光信号で陸上の友軍と連絡を取り、送られてきた大発動艇に物資を移送して8名の陸軍関係者を収容。敵に見つかる事無く1月27日にラバウルへ帰投した。
伊41が輸送任務に励んでいる間にも敵機とPTボートの哨戒が厳しくなり、ガリへの輸送中に伊181が失われ、イボキとブインには機雷が敷設されて輸送そのものが困難になりつつあった。板倉艦長は伊171艦長の島田武夫少佐とのくじ引き勝負に負け、複雑な水路と機雷で輸送が困難なブインに割り当てられてしまった。だがブイン基地の司令官を務める鮫島具重中将は板倉艦長にとって縁のある人だった。
板倉艦長が少尉だった頃の1936年、重巡最上の艦長を務めていた鮫島大佐(当時)の帰りが予定より1時間も遅れた。下士官や兵の遅刻には厳しいのに将校には甘い海軍の内情に腹を立て、酒に酔っていた事も手伝って彼は鮫島大佐を殴り飛ばしてしまったのである。少尉が大佐を殴るなど本来あってはならない事。免職の結末も十分ありえ、酔いから覚めた板倉少尉は自分のしでかした事に青ざめた。実際近藤憲一中佐に呼び出されて大目玉を喰らい、言い返す言葉も無いまま、言われた通りに官給品と私物を分ける。その作業が終わった夜更け、ベッドに横たわる板倉少尉の頬に一筋の涙が伝った。朝、鮫島艦長に呼び出された板倉少尉。近藤中佐同様怒声に見舞われると覚悟していたが、鮫島艦長は無表情のまま
「はっ、禁酒を決意しましたが、おそらく続かないと思います」
「そうか…なら酒の量を減らす事は出来ないか?」
「はっ、そのつもりでいますが、おそらく酒をやめるより難しいと思います」
「そうか、もうよろしい」
との会話を経て板倉少尉は艦長室から出た。もはや免職の未来は変えられないと、諦観に染まり切っていた板倉少尉のもとに再度鮫島艦長からの呼び出しを受けた。相変わらず無表情な鮫島艦長が語り掛ける。
「どうにも腑に落ちない。何か考えがあっての事ではなかったのか?」
「別にありません。ただ申し訳ないと思っています」
鮫島艦長からは板倉少尉を憎む感情が見られない。むしろ憐れみのようなものさえ感じる。そんな彼の様子に板倉艦長も本心を打ち明けようと思い、「栄えある海軍のために時間厳守をしてもらいたかった」と呟く。すると鮫島艦長は納得したように柔和な表情を見せ、板倉少尉を返したのだった。その後、板倉少尉に下ったのは免職ではなく重巡青葉への異動命令。夢と疑うほどの温情に満ちた処分に彼は喜びの涙を流した。すぐさま鮫島艦長のもとへ訪れると「青葉に着任したら平岡粂一(くめいち)艦長によく指導してもらいたまえ」と一言。とめどなく溢れる嬉し涙、礼すら言えなくなるほど感動と恩義で胸がいっぱいになる板倉少尉。どうやら鮫島艦長が長谷川海軍次官に掛け合ってくれたらしい。こうして、海より深い慈悲によって海軍生命を絶たれずに済んだのだった。
ブイン輸送に発つ前、司令部を訪れた板倉艦長は南東方面艦隊司令の草鹿任一中将から「ブインでは鮫島中将がお待ちかねだよ。しっかり頼んだぞ」と声をかけられ、ハッとなる。再び鮫島中将との縁が結ばれた瞬間だった。体中に電流が走るとともに「恩返しの時が来た」と胸が熱くなり、ラバウルを出港する前に大枚をはたいてサントリーのウィスキーとタバコを購入。かつての恩に報いるため絶対に輸送を成功させると誓った。
1月31日に3名の陸軍将校を便乗させて伊41はラバウルを出港、ブーゲンビル島ブインに向かった。遠く離れたブインは連合軍の包囲下にあり、数kmに渡って敷設された機雷原や、無数の敵哨戒機及び魚雷艇が航路を支配。だが板倉艦長は昼間は水上航行、夜間は潜航という裏をかいた策を取り、これが見事結実して敵哨戒機の目から逃れた。
2月4日、ブインへと到着。補給に来る艦が途絶えて久しかったためブイン基地の第8艦隊連絡参謀岡本中佐は泣きながら出迎えたという。甲板上へ上がってきた岡本中佐と固く握手を交わした後、板倉艦長はラバウルで購入したウィスキーとタバコ、そして鮫島中将宛ての一通の手紙を手渡した。物資と便乗者を降ろした伊41はブインを出発し、2月7日にラバウルへ帰投。するとブイン基地から感謝の電報と伊41を名指しした輸送要請が届いた。これを受けて二度目のブイン輸送が決定。ちなみにくじ引き勝負に勝った伊171はブカ島への輸送任務中に米駆逐艦ハドソンとゲストに襲われて撃沈されてしまった。負けた方が生き残るとは運命は読めないものである。伊41が届けたウィスキーは水で薄めて全将兵に飲ませ、タバコは全員で分け合った。鮫島中将はウィスキーの空き瓶を死ぬまで大切に扱ったという。
2月12日に物資を満載してラバウルを出港し、再び窮地に立たされているブインへと向かう。道中の2月14日、ブイン近海で敵哨戒機の襲撃を受けて潜航退避を強いられ、2日間耐え抜いたのち再度ブインへの接近を試みる。だが敵哨戒機とPTボートの警戒が厳しく接岸の機会を得られず苦戦。2月17日午前3時20分よりブインに接近しようとするも、またしても敵の厳重な警戒に阻まれて翌18日午前2時1分に引き返す。それでも板倉艦長は粘り強く機会を待ち続け、苦境に立たされる恩人に物資を送り届けようと神経を研ぎ澄ます。2月19日午前0時5分、4回目の接近を開始。洋上には連合軍の機雷がびっしりと敷き詰められていたため、島の沿岸に程近い浅瀬をすり抜けなければならないのだが、これはまさに針に糸を通し続けるかのような難しさだった。もし1回でも触雷すれば伊41の艦体は一瞬で木っ端微塵である。鎌を振り下ろす寸前の死神と戦いながら慎重に進む中、2月20日13時39分にオツア島近海で未知の暗礁に乗り上げる不幸に見舞われる。もはやこれまでと思われたが、地獄に仏か、離礁に成功。
遂に目的地のブインへ接岸し同日18時59分より揚陸作業を開始する。出迎えに現れた岡本中佐から手渡されたのは、鮫島中将からの手紙とヤシの木で作られた7本のパイプだった。手紙を読み上げているうちに板倉艦長はまぶたを涙で濡らしていく。そして7本のパイプを1本は自分の物とし、残りの6本を部下たちに分け与えた。誰か一人でも生き延びれば、鮫島中将の形見として遺族に渡せると考えたからだ。22時6分に敵機から爆撃を受けたがタウト島近海で潜航退避して難を逃れた。物資を全て揚陸し終えた伊41は2月21日にブインを出発。島と海の僅かな隙間を抜けて2月24日にラバウルまで生還、見事困難な輸送任務を完遂させた。
敵機動部隊によるトラック大空襲で在泊艦艇、基地施設、航空隊、資材に大打撃を受けて丸裸にされたトラック基地を守るためラバウルから航空隊を引き上げる事になった。また重油タンク代わりに使用されていた特務艦鳴戸が撃沈されてラバウル方面の燃料事情が急激に悪化。加えて空襲に現れる連合軍機が潜水艦を狙って爆撃するようになり、長期の停泊及び2~3隻以上の停泊は危険と判断。南東方面の駆逐艦と潜水艦は可能な限りトラックを補給基地にするよう命じられる。
2月27日、第501航空隊の司令や搭乗員、基地要員98名を乗せてラバウルを出港。3月2日に廃墟と化したトラック環礁へ到着して便乗者たちを揚陸させる。だだっ広い環礁内に威容を誇った連合艦隊の姿は無く、殺風景な光景のみが広がっていた。3月7日に一度トラックを出発するも、3月9日に反転命令を受けて翌日トラックへ帰投。3月15日、第15潜水隊の旗艦を伊16に変更して再度トラックを出港。3月19日未明、ラバウル北方を水上航行中、伊41の見張り員が自艦に向かって伸びて来る2本の白線を発見。すかさず板倉艦長が取り舵一杯を命じて急旋回し、雷跡は艦前方50mを通過していった。3月20日、敵潜の襲撃を振り切ってラバウルへ入港。連合艦隊より伊41、伊2、伊42の3隻は南東方面の補給任務に協力するよう命令される。
3月21日午前3時、トラックに後退する第7潜水戦隊司令部と航空隊員98名を乗せてラバウルを出港。3月25日午前9時にトラック南方へ到着。139トンの特設監視艇第一金宝丸に誘導されながら南水道を通過し、第7潜水戦隊司令部と便乗者を揚陸させた。
4月1日、食糧や物資50トンを積載してトラックを出発し、三度目のブイン輸送に挑む。敵の監視網を突破して4月7日にブインへ到着し、物資を揚陸するとともに航空基地要員73名を収容。そして4月9日にブインを出発、4月13日にトラックへと帰投して輸送任務を成功させる。このブイン輸送が南東方面における最後の補給成功となった。伊41とともに輸送任務を行っていた伊2はヒクソン湾の第17師団への食糧輸送こそ成功したが、帰路のハノーバー島西方で米潜水艦ソーフレイの雷撃を受けて沈没。伊42はパラオからラバウルへ向かう道中で敵潜タニーの雷撃で沈没。損失の穴埋めで送られた伊16と伊176も失われ、伊41は魔の南東方面から生還した数少ない潜水艦となった。
4月17日、先遣部隊第1潜水部隊に編入された事で輸送任務から攻撃任務へ変わり、取り外した後部の14cm単装砲を再装備。これまでの功績により板倉艦長は第6艦隊司令の高木武雄中将より恩賜のタバコ1箱を受け取った。過酷な任務を終えた伊41には本土での整備と竜巻作戦の参加が命じられ、4月19日にトラックを出港。4月25日に呉へと入港して整備を受ける。
5月3日、「あ」号作戦の一環として竜巻作戦要領が発令される。内容は特四式内火艇各2隻を搭載した伊41、伊36、伊38、伊44、伊53の5隻が、マーシャル諸島の泊地に停泊する敵空母を狙って特四式内火艇を強行上陸させて奇襲するというものだった。第6艦隊は準備と訓練のため旗艦筑紫丸と潜水艦5隻を瀬戸内海西部へ回航させ、5月6日より共同訓練を開始。夜間での襲撃に重きを置きながら、停泊艦襲撃、発射教練、特殊浮舟による長距離航行などを行ったが、板倉艦長はリーフを乗り越えられない、騒音が激しい、低速といった特四式内火艇の致命的な欠陥を次々と指摘。海軍期待の作戦だったため上層部の怒りを買い、一時は第6艦隊から銃殺刑を言い渡されるほどだったが、艦長の腕を買われて不問に付された。結局第6艦隊も「現行の性能では作戦実施は困難」との結論に至り連合艦隊に作戦中止を具申。5月12日に作戦は無期延期とされた。
5月14日にアドミラルティ諸島・ウェワク間の敵情偵察を下令され、5月15日、伊44、伊53とともに呉を出撃。5月29日に配備地点へ到着して遊弋を行う。先遣部隊電令作第136号により6月4日から8日にかけて一時的に第7潜水戦隊の指揮下に入る。
6月11日、アドミラルティ西方を哨戒中に米機動部隊がマリアナ諸島を空襲。板倉艦長の独断で伊41はマリアナ方面に向かうが、6月14日22時50分に発令された先遣部隊電令作第150号により、グアム南方への急行を命じられる。6月15日、サイパンへの敵軍上陸が確認された事から連合艦隊司令長官は「あ」号作戦決戦発動を下令。既にサイパンへ進出していた第6艦隊は地上戦闘に巻き込まれて指揮が執れなくなり、代わりにトラック在中の第7潜水戦隊が指揮を執る。
6月21日22時38分、連合艦隊から「グアムやサイパンにそれぞれ潜水艦1隻を派遣し、孤立した搭乗員を可能な限り収容して瀬戸内海西部へ輸送せよ」と下令され、第6艦隊はグアム方面には伊41を、サイパン方面には伊10を充てた。翌22日、伊41へ搭乗員100名を収容して大分基地に輸送するよう命令が下り、グアムへの移動を開始。6月24日午前11時、グアム島アプラ港近海に到着。日没を待ちながら乗艦に適した場所を探して潜望鏡偵察を行う。日没後、浮上した伊41は大発2隻に分乗してやってきた搭乗員107名と第3水雷戦隊参謀伊藤少佐を収容。その直後にB-24爆撃機が接近してきたため、これ以上の収容作業を断念。急速潜航して逃げ切った。ちなみにサイパン方面に向かった伊10は米駆逐艦から対潜攻撃を受けて未帰還となっている。6月30日、大分に到着して搭乗員を揚陸。敵の包囲下から貴重な搭乗員を連れ帰る任務を完遂した。「あ」号作戦に参加した潜水艦36隻のうち半分以上の20隻が失われ、伊41はかろうじて死地から生還したのだった。7月1日に呉へ帰投して入渠整備を受ける。
7月2日、「あ」号作戦での甚大な被害を鑑み、太平洋方面の潜水艦作戦を停止するとともに全ての潜水艦に電探と逆探装置の装備、防探塗料の塗布、防振ゴムの設置、レーダー波を乱反射させる斜行板の設置、呂500の解析結果から艦の必要部に夜光塗料の塗布などを実施。8月5日、板倉艦長は回天部隊の指揮官へ異動となり、近藤文武少佐が三代目艦長に着任。8月23日、呉を出港して油谷湾に集結し、他の大型潜水艦と集合訓練を行ったが、大した効果が得られていない事が判明。行き詰まった潜水艦戦の打開策として回天による特攻作戦が提案され、この時点で生き残っていた大型潜水艦に順次回天の搭載工事を施す事に。伊41は9月1日から27日にかけて呉工廠で改装工事を実施。9月28日、呉を出港して回天との合同訓練を開始。10月9日には呉から大津島へ回天搭乗員と整備員を移送している。
10月初旬、米機動部隊がパラオのコッソル水道及びマリアナ諸島を出撃したとの報を受け、新たな侵攻作戦を企図していると判断した連合艦隊司令部は、玄作戦に参加する艦を除いて潜水艦の出撃準備を急ぐよう指示を出す。この時点では伊41は玄作戦に参加する予定だった。10月17日、アメリカ軍のレイテ湾スルアン島上陸を受けて捷一号作戦警戒を下令され、午前8時48分発令の電令作第352号により回天に関する作業が全て中止。すぐに呉へ回航し、回天を搭載しない通常潜水艦として出撃準備を開始する。
10月19日に呉を出撃し、呂41、呂43、呂46、伊38、伊53、伊46とともに乙潜水部隊を編制。当初は台湾沖航空戦で敗走中の敵艦隊を捕捉するため台湾東方の配備地点に向かっていたが、敵艦隊がレイテ東方を中心に活動している事から翌20日に配備点の変更が下令され、第三散開配備となる。事故で引き返した伊44を除いて潜水艦11隻がフィリピン東方の配置に就く。レイテ沖海戦が始まった10月24日、先遣部隊司令より「全軍突撃に転ず。各艦は強行進撃、敵を撃滅せよ」と突撃命令が下された。翌25日にレイテ湾北東400海里に到着する。10月27日14時5分、甲潜水部隊へと転属。翌日にミンダナオ東方の哨区への移動を命じられたが誤ってサマール島北東に移動。10月31日午前0時、スルアン島北東220海里で3隻の空母を伴う敵機動部隊の発見報告を行うが攻撃の機会を得られず。同日午前9時40分、新たな配備点であるC散開線へ移動。最南端へ配置された。
11月3日夜、マニラから約600海里離れたサンベルナルジノ海峡沖を水上航行中に米第38.3任務部隊の空母を発見、23時30分に九五式魚雷6本を発射し、このうち2本がアトランタ級軽巡洋艦リノの左舷に命中。起爆したのは1本のみだったが大破へと追いやる。潜水艦による高速空母部隊への雷撃成功は実に2年ぶりだった。乗組員46名が死亡、多数の負傷者を出して右舷へ傾斜しながら艦尾が沈没しかかっている手負いのリノ目掛けて3本の魚雷を発射したが、いずれも命中せず。撃沈には至らなかったものの、伊41が負わせた傷の修理に11ヶ月も掛かり、リノは戦争が終わるまで復帰する事は叶わなかった。実質撃沈に等しい戦果と言える。伊41は「エセックス級空母撃沈確実」を報じた。実際にはエセックス級は沈んでいなかったが、クラークフィールドから飛び立った第763航空隊所属の陸上攻撃機銀河が戦果確認を行い、正式に認められた事で近藤艦長は昭和天皇から特別な御言葉を戴いている。
11月4日にE配備を命じられて北東方向へ移動し、11月8日にミンダナオ島方面の西南西へ移動。11月12日午前3時40分、敵機動部隊発見報告を最後に消息不明となる。
1944年11月18日深夜、サマール島東方250海里で哨戒中のハンターキラーグループこと米第30.7任務部隊に「作戦区域内で日本の潜水艦が活動している」との警告が入る。護衛空母アンツィオから対潜哨戒機のアベンジャーが飛び立ち、徹底的な潜水艦狩りが始まった。
午前3時30分、レーダーによりスコールの中に隠れて水上航行している伊41を発見。アベンジャーから数発の照明弾が投下されたが、Mk24ホーミング対潜魚雷が放たれる前に迅速な潜航を行って逃走に成功。目標を見失ったアベンジャーは周囲の僚艦に支援を呼びかけ、ソノブイを投下して空と海から同時に対潜攻撃を仕掛けようとする。午前4時17分、現場海域に米護衛駆逐艦ローレンス・C・テイラーとメルヴィン・R・ナウマンが出現。上空には2機のアベンジャーが目印のように旋回している。午前6時5分よりテイラーが2回のヘッジホッグ攻撃を仕掛け、伊41はこれを回避。午前6時16分、今度はナウマンがヘッジホッグ攻撃をするがこれも回避。
しかし午前6時30分、テイラーが三度目のヘッジホッグ攻撃を行った時に伊41の命運は窮まった。遂に致命傷を受けたらしく、水中から3回の小さな爆発音が聞こえた後、大爆発音が発生。間もなく海面に大量の燃料とデッキの破片等が浮かび上がった。これが伊41の最期であり、乗組員111名全員が戦死した。
捷一号作戦における潜水艦の戦果はLST戦車揚陸艇撃破(伊56)、護衛駆逐艦エヴァソール撃沈(伊45)、そして伊41が挙げた軽巡リノ撃破の三例に留まり、伊41、伊26、伊38、伊45、伊46、伊54の6隻が未帰還となった。帝國海軍は12月2日にフィリピン方面で亡失と判断し、1945年3月10日に除籍。
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最終更新:2025/03/12(水) 13:00
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