ベルリンの壁とは、ドイツの首都ベルリンにあった亡命阻止装置である。
ドイツの都市「ベルリン」の西側、西ベルリンを取り囲むように建てられた壁。勘違いされがちだが、位置は東西ドイツ国境(西ドイツと東ドイツの境目)ではない。東西ドイツ国境にも壁や柵があり通行が制限されていた(参考)が、「ベルリンの壁」はあくまでベルリンにあったもののみを指す。
通常の国境線の壁と比べて特異な点として、当初の壁がないころは10年以上往来が可能だったこと、ベルリンという大都市に作られたこと、西ベルリンの周囲は社会主義陣営の東ドイツ・東ベルリンであり孤立した島のようになっていたことなどが挙げられる。
建設の目的は先述した「亡命阻止装置」であり、東ドイツから西ドイツへの住民の亡命(人口流出)を防ぐためのものだった。
第二次世界大戦終結後、敗戦国ドイツはアメリカ・フランス・イギリス・ソ連の4ヶ国に分割占領されたが、ソビエトが占領した首都ベルリンもまた別箇にアメリカ・フランス・イギリス・ソ連の4ヶ国に分割管理されることになった。
のちに東西冷戦が激化、ベルリン封鎖を経てソ連占領区はドイツ民主共和国(東ドイツ)、それ以外の地域はドイツ連邦共和国(西ドイツ)としてそれぞれ別の国となる。
しかし西ベルリンはそのままアメリカ・フランス・イギリスの3ヶ国が占領を続ける形(3ヶ国の信託統治領)になり、西ベルリンは東ドイツという共産圏の中に浮いた資本主義陣営の島のようになってしまった。
しかもこのような状態でありながら国境検査も何もなく、東西の交通機関は鉄道・バスなどが境界線を超えるように運行され、東と西を往来する人が多くいる状態が1961年夏まで続いたのである。
東ドイツ・東ベルリンでは過酷なノルマに対抗して発生した労働者の暴動が政府とソ連に鎮圧されるなど(1953年 東ベルリン暴動)、社会主義の理想とは裏腹に一貫して政府による国民の抑圧政策が取られていたため、この東西ベルリンの特性を利用して東側住人の西側への亡命を図る動きが活発化していった。
その亡命者は毎年数万から数十万に及び、このままでは東ドイツは国家の存亡が危ぶまれるようになった。そこでこの動きを封じるため、1961年8月13日に東西の境界線に建設されたのがベルリンの壁である。 壁建設を最終的に決断したのはソ連の当時の書記長、フルシチョフであったと言われる。
壁は予告なく建設され、国境をまたいでいたSバーン(国電)、Uバーン(地下鉄)の線路も寸断された。壁に面した建物では取り敢えず窓をレンガで塞ぎ、後には建物そのものを取り壊して監視が可能なように空白地帯を設けるようになった。
壁の建設により国民の亡命の動きは阻止され、東ドイツは取り敢えず国家の安定を取り戻した。東ドイツは資本主義の害毒から社会主義を護るための壁だと盛んに宣伝した。また経済も西ドイツには及ばないがある程度成長し、同国は「社会主義の優等生」と呼ばれたこともあった。
しかし1980年代に入ると、東ドイツのみならず東欧諸国の経済は停滞、各国の国民生活は困窮をきたした。
これにより何らかの改革を求める民衆の声が強くなり始めた。1985年にソ連の書記長がゴルバチョフとなるとその動きは更に高まった。だが東ドイツやルーマニアなど、東欧諸国の多くはそのような変化を認識できず、国民の声を抑圧し続けていた。
そんな中、改革をいち早く始めたのがポーランドとハンガリーである。
ポーランドでは独立自主管理労働組合「連帯」の活動勢力が高まり、政府が円卓会議を開催するなど、それら改革運動と妥協の道を探り始めた。
一方でハンガリーはもともと1970年代から独自の改革を進めており、89年になると改革派が政府の主導権を握るようになった。彼らは鉄のカーテンによって阻まれていたヨーロッパへの復帰を強く望み、西側諸国との関係をなんとか回復しようと模索していた。
そのハンガリーが1989年5月、オーストリアとの国境に存在した「鉄条網」の撤去を発表する。これはハンガリーのヨーロッパ復帰を宣言する意味があったと言われる。
だが、その動きは西ドイツのテレビ放送を受信することが出来た東ドイツの国民にも伝わり、西側に逃げられるのではないかと考えた東ドイツ人の一部がハンガリーにバカンスの名目で大量に移動、難民と化した。
8月19日、「汎ヨーロッパ・ピクニック」としてハンガリー政府の裏工作もありこの東ドイツ人の一部がオーストリアへの出国に成功、その知らせが伝わったことで更に多くの東ドイツ人がハンガリーへ出国した。
9月11日、ついにハンガリー政府は東ドイツ人の西側出国を公然と認めると宣言。ハンガリーを経由すれば東ドイツ人はオーストリアを経て西ドイツへ逃亡する事が可能となった。
ベルリンの壁の目的はこの時点で事実上失われることになったのである。
東ドイツ国民はハンガリーの他、ポーランドやチェコスロバキアなど周辺国に次々と脱出、亡命を試みるようになった。この動きは他の東欧諸国をも揺るがすものとなっていった。
このハンガリー経由での逃亡が可能となるのと前後し、東ドイツでは5月7日に実施された選挙への不正操作が明るみに出て、ライプツィヒで月曜デモが600人規模で開催されるなど、国内でも改革運動が起こりつつあった。
時の東ドイツ指導者ホーネッカーはこのような運動に全く応えようとしなかったが、10月7日の党40周年大会で自画自賛発言を盛んに行った所、ソ連の指導者ゴルバチョフから軽蔑の目で見られることになる。
東西分裂の中で建国された東ドイツはソ連の後ろ盾あってこそ存続できる国であり、ホーネッカーがソ連の支持を失ったことが明るみに出たことで国内での改革運動は更に激化した。数万人規模のデモが国内各所で発生するようになった。政府当局は慌ててホーネッカーを解任、クランツが後継につく。
だがクランツは求心力が十分にある人物とは言いがたく、混乱は収まらなかった。11月4日にはベルリンで百万人規模のデモが発生した。言論・集会の自由を求める声、海外旅行の自由化を求める声はもはや止めることが出来なくなっていた。
11月9日、クランツら中央委員会は旅行の規制を大幅に緩和する策を打ち出す。これは本来、翌日から施行予定のものであり、海外旅行を自由にすることを認め、それに必要な出国ビザの発行を遅滞なく行うことが書かれていた。
だが、党のスポークスマンであったシャボウスキーはこの政令案の内容をよく理解しないまま記者会見に及び、「東西ベルリンを含む全ての境界線から、今ただちに東ドイツ国民は自由に出国が可能である」と発言、これが国内外に伝わったのである。
この記者会見を聞いた東ベルリン住民は半信半疑でベルリンの壁周辺に詰め寄った。国境警備隊は大量の住民の殺到に対処しきれず、遂には暴動の発生を恐れ、ベルリンの境界線を独断で開放した。
こうして1989年11月9日、ベルリンの壁はその意義を完全に失い、翌11月10日からは住民が勝手にその破壊活動を開始した。後には東ドイツ政府によって一部を除くほぼすべての壁が撤去された。
ベルリンの壁喪失後、東ドイツを支えるものはもはやなく、1990年10月3日には西ドイツが旧東ドイツ領を編入する形で「ドイツ再統一」が果たされた。
またベルリンの壁崩壊は他の東欧諸国の民主化運動も加速させることになり、1990年までに東欧諸国の体制は全て入れ替えられ、1991年末にはついに指導的立場を担ってきたソ連をも消滅させることとなったのである。
掲示板
20 ななしのよっしん
2023/06/22(木) 15:44:52 ID: cBBiXL3cDi
壁崩壊で東ベルリン市民がいの一番にやったのが「西ベルリンでバナナを買う事」だった。
冷戦時代、バナナやトロピカルフルーツの生産販売は西側企業がほぼ独占しており、東側はキューバから僅かに輸出された物しか口にする機会がなく
その為、東ベルリンではバナナがとんでもない高級品となっていた。
今でもドイツの小噺で
「目の前にバナナが置かれた時、有無を言わさず飛び付いたら、それは東ドイツ人」というものがあったりする。
21 ななしのよっしん
2023/11/26(日) 13:16:27 ID: RaQopxgYLM
よくあることなんで
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22 ななしのよっしん
2024/04/22(月) 02:11:18 ID: gOjrEjs2Nk
>>20
それは80年代に入ってからの話らしい。70年代のバナナの消費量は西ドイツが一人当たり10kg/年に対し東ドイツも7.5kg/年とそこまで少なくはない。
けど80年代になると東独の輸入量が半減したせいで、バナナは一気に貴重品になった
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最終更新:2025/01/18(土) 16:00
最終更新:2025/01/18(土) 16:00
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