柿本曜一朗とは、Jリーグ2013年3月2日 開幕戦 第1節 セレッソ大阪 対 アルビレックス新潟
2013年5月23日ナビスコカップ セレッソ大阪 対 鹿島アントラーズの一戦で解説者をうならせた関西の期待である。柿谷曜一朗とは関係がない多分
概要
大阪府大阪市出身。4歳の頃からセレッソの下部組織に所属し、2006年にクラブ史上最年少の16歳でトップチームとプロ契約を結び、同年11月26日のJ1第33節 大宮アルディージャ戦で公式戦初出場を果たす。
翌年2007年8月、U-17ワールドカップ・ナイジェリア戦で、出場時間900分に達し、プロA契約を結ぶ。また同大会のフランス戦ではセンターサークル付近からの超ロングシュートを決めた。これにより金子達仁からジーニアスと評価され、多くの日本サッカーファンは天才の将来に胸を膨らませた。
今では信じられないことではあるが10代の頃は香川真司よりも評価が高かった。2008年10月、森島寛晃は自身の引退会見にて、次のように述べている。
「曜一朗はセレッソというより、日本サッカー界が生んだ天才だと思っていますし、あいつが本当に化けてくれれば、セレッソは優勝できると思います」3歳 天才 ジーニアス というあだ名がある、将来の日本を背負う男と言われている
と振り返る。
当時の指揮官・レヴィー・クルピは香川と柿谷について、2009年J2第3節・セレッソ大阪対栃木SC戦の試合後の記者会見で次のように述べている。
「シンジは本当にプロフェッショナルな選手で、常に前向きにベストを尽くす気持ちを持っている。その点がヨウイチロウと違うところ。ヨウイチロウはもっと責任感を持ってプレーしなければならない。ヨウイチロウは今年だけで練習に5回遅刻している。シンジとヨウイチロウは対照的で、シンジの場合はプロフェッ ショナルとして責任感が強いがゆえに、ミスを恐れてしまうところがある。逆にヨウイチロウは責任感がないがゆえに、時として非常に勇気あるプレーができ る。対照的な二人だが、そういったところを変えていけば、2人とも間違いなく将来日本を代表する選手になる」
監督からも才能については高く評価されていたが、しかしながら天才には挫折が付き物である。
2008年にマリノスから移籍してきた乾貴士にポジションを奪われて出場機会が激減したことに加え、2009年6月8日の練習で6度目の遅刻をしてしまう。このことが監督の逆鱗に触れ、一週間後には島流しが決定。徳島ヴォルティスへレンタル移籍となり、2011年のクルピ監督退団までセレッソに戻ってくることはなかった。
当時の徳島の監督だったポトフこと美濃部直彦は柿谷の精神的な幼さ、無責任さの修正を行うべく、何度も粘り強く対話を繰り返した。徳島でプレーした3年間を通して、柿谷は精神的に大きく成長した。特に3年目は副将を任され、昇格には一歩及ばなかったもののチーム躍進の原動力となった。
2012年、遂にセレッソに復帰。シーズン開始直後こそ控えに回ることが多かったものの、2トップの一角としてスタメンに定着。セルジオ・ソアレス解任後のクルピ体制ではトップ下でプレー。シーズン成績はリーグ戦で11得点(チームトップ)、カップ戦で4得点と好成績を残した。
クルピ監督の三度目のセレッソ復帰の際に、柿谷はクルピ監督に謝罪。クルピ監督は復帰初戦であるアルビレックス新潟戦で決勝点を決めた柿谷について以下のように述べた。
「ゴールの瞬間、思いがよぎった。彼がプロ2年目のときに私が監督に就任した。かわいい息子だ。それがゆえに、過ちを犯したときには正しい道に導いた。今日は一皮むけて成長したプレーをみせてくれた。技術だけでなく、戦術面も理解してピッチで表現してくれた。再び彼と同じチームで働くチャンスがきてうれしく思う」
・
・
・
そんな柿谷曜一朗選手を差し置いて、解説者をうならせるプレーを魅せたのは柿本曜一朗である。残念ながらこの試合の映像を見ても柿本の姿はどこにも残されていない。しかしこの試合と思われる中継内において解説者は
(1)対新潟戦 「いやぁ、よく 柿本選手も狙ってましたよねぇ」
(2)対鹿島戦 「ここでヤマムゥ選手と1対1の局面を作るわけですよね。そして・・・相手の密集に入りますけどかわした瞬間のシュートのタイミング・・・さぁすぅがぁ(↑)、柿本選手ですよねぇ。」
と絶賛している。なおコンビを組んでいた実況は、解説者の上記の解説のあと柿谷のゴールシーンについて振り返っていた。実況者の目にも追えないほど素早い動きだったということなのだろうか。またキンチョースタジアムに現れる事を祈る。多分ないけど
関連動画
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 2
- 0pt