研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

メモ

2006-08-18 05:00:54 | Weblog
内田先生の記事
「学習障害ナショナリスト」

>ナショナリストと議論して誰でも気づくことは、彼らが固有名詞や年号やデータ的数値に総じて詳しいことである。


ホーフスタッターの『パラノイド・スタイル』を思い出した。どうなんだろう?一回、ちゃんと考えたい。

自分の記事を引用すると、

>赤狩りの時代の「保守」論客たちの特徴を彼は「学者的」と表現し、その「細部へのこだわり」と「膨大な証拠の数々」を出すのが彼らの特徴であると書いてあった。

「保守論客たち」を「ナショナリスト]とすれば同じような意味か。

>ホーフスタッターは、「一つ一つは『事実』であっても、それが本質なのではない」と言うのである。問題なのは、マッカーシイズムのもつあの抑圧なのであって、実際にアルジャー・ヒスがスパイだったのかどうかが問題なのではないと。細かな「証拠」を膨大に用意することによって、本質を自分たちの都合のよいように構成しているのだと。右翼の告発者たちの告発が、「事実」であったとしても、問題はそんなところにはないのだと。

「つじつまの合わないことを受け容れる能力」と「ユーモアを理解する能力」に大きな欠損を抱えるのは右も左も似たようなものだと思うのだが。

要するにホーフスタッターがアメリカのナショナリストを「パラノイド・スタイル」と罵倒するように、内田先生は「学習障害」というこれまた医学っぽい概念で、なんというかインテレクチュアルズの王道をはからずも表現しているような。

(最初のエントリーに何行か追加しました)