パリ条約により独立を成し遂げたアメリカ諸邦の代表者たちは、ひそかにフィラデルフィアに集まり、「連邦憲法」の作成に取り掛かった。アメリカ憲法は民主的に作られたものではない。1787年の秘密会議であっというまに仕上げられたものである。この秘密会議の議長として祭り上げられたのが、ワシントンとフランクリンだった。秘密会議は、この二人のカリスマによって、正統性を持つことになった。もっともワシントンは、詳しい法律論は分からなかったし、フランクリンは年を取りすぎていた。会議そのものは、マディソンやハミルトンらの世代が主導した。秘密会議であるだけに正式な議事録は存在しないが、後世の我々は、マディソンが残した詳細なメモを通して議事内容を知ることができる。それを読むと、実に凄い議論がなされていたのに驚く。古典古代のギリシャ・ローマの歴史とその政治理論、ヨーロッパ諸国の国家論、イタリア・ドイツ・スイス・オランダの連邦制度の歴史などを参加者たちは参考文献なしで引用しぶつけ合っている。ちょっと異様な教養である。アメリカ革命史の面白さは、このへんに理由があるのだろう。ちなみに、この会議には、ジョン・アダムズとトマス・ジェファソンは参加していない。アダムズは駐英公使として、ジェファソンは駐仏公使としてともに外国にいた。
アメリカ合衆国の建国者たちを悩ませた最初の問題は、ヨーロッパにおける君主に相当する存在を共和制政府においてはどのように定めるかということであった。古典古代はいざ知らず、記憶に明らかな時代において、共和制政府というものを西欧社会はもっていなかったからである。否、イタリアには存在したが、あれは建国の父たちの認識では単なるアナキーであった。「イタリアみたいになってはいけない」というのが共通認識であった。行政権力はしっかりしていなくてはいけない。では、ワシントンを国王にしてはどうか。しかし、革命政権の性質上、これは政治的に難しかったし、ワシントンが強硬に拒絶した。そこで、さしあたりワシントンを初代大統領に据えることで、まずは連邦政府をスタートさせて、おいおい調整していくことにした。場合によっては、ワシントンに4年ごとに再選を続けてもらい、事実上の終身君主にしてもよい。選挙侯が君主を選ぶ慣例はヨーロッパにもある。
こうして連邦政府は、初代大統領をワシントンに、初代副大統領をジョン・アダムズにしてスタートした。これがそのままアメリカ革命政権の序列であった。ワシントンとアダムズという正副のトップが、アメリカ革命の最大の貢献者と見なされており、この二人の影響力に抗し得る者は、この時点のアメリカにはいなかったのである。
ところが、ジョン・アダムズの歴史における不振はここから始まる。それは、「副大統領」という不思議な職制にあった。副大統領は、今でも少し不思議な職である。非常な高位であり、ある種の「上がり」のポストであるが、影響力は時代によって様々で、革新主義の時代には「閑職」とみなされたり、またクリントン政権期のゴアのように、外交において重要な役割を担うこともあり、また現在のブッシュ政権におけるチェイニーのように、ある種の首相のような役割を担うこともある。面白いのは、内閣の一員でありながら、上院議長という立法府の長であるということである。ワシントンは、「権力分立」を額面どおりにまもり、なんと副大統領アダムズを重要閣議に参加させなかった。では、上院でなにをするかというと、「議長」なわけで、彼の本領である演説の機会はない。行政と弁舌という、アダムズを革命の第一人者に押し上げた本領が封じられてみると、彼のカリスマは急速に減退していった。残念ながら彼の風采はよくなかったのである。丸々とした禿げた五十男が不満げに議長席に座っている。アダムズは書簡で、「副大統領とは、人類が考えた中で最も無意味なポストだ」とこぼしている。
アダムズと反対に、副大統領がサマになっていたのはジェファソンであろう。彼の本領は、弁舌ではなく、「沈黙」であった。ジェファソンという人は、内気な人で、文筆においては雄弁だが、演説は好きではなかった。独立戦争前の大陸会議においても、彼はまるで何もしゃべらなかった。そのあまりの沈黙ぶりを見てアダムズは、「ジェファソン氏は、なぜあんなに何もしゃべらないのだ?」と心底不思議がっていた。彼は大統領になったときには、教書を議会で読むのも止めてしまった。教書は議会に郵送してそれきりにしてしまった。ただ、その彼の沈黙というのが、実になんとも凄いのである。深沈と沈黙する彼の姿はなんとも神々しかったらしい。アダムズ婦人のアビゲイルは、「彼は、神のように見えなくもない」と語っている。黙っているだけで、影響力がかってについてくるのである。議長席で沈黙する彼の姿は、まるで神のようだったらしい。
実は、連邦憲法制定会議の議事録を読んでも、この「副大統領」についての議論がよく分からないのである。すっと流されている。そして何事もなかったように憲法に記されている。これはどういうことであろうか。大統領については、非常に厳密な議論がなされているのに、副大統領についてはつっこんだ議論の形跡がない。ということは、当時の人々にとっては、何か議論するまでもないある種の常識があったのではないかと私は思っている。
建国者たちは、君主制における君主相当の職制として大統領を置いた。ということは、副大統領に相当する職制とは君主制においては何だろうかと考えればよい。それは国璽尚書である。国璽尚書とは、国王の代理人として貴族院を主催し、国王の意思と貴族たちの意思をつなぐ存在である。立法府に所属する大臣であり、危急の際には国王の代理を務める。まさに副大統領そのものではないか。イギリス連邦帝国に所属していた人々にとっては、大統領という大問題さえかたづけば、副大統領の設置は当然の付随事項だったのだろう。
副大統領アダムズは、実に気の毒な立場だった。国璽尚書相当職といっても、アメリカはやはり君主制の国ではないのである。そもそもワシントンが君主とみなされることを好まなかった。しかし、アダムズはワシントンの名を呼ばなければならない。さあ、なんと呼ぶかである。‶Mr. President″。現代ではこれで確立している。しかし、第一議会においては、まだなんと呼ぶかは決まってなかったのである。そもそも「プレジデント」という職名自体が、ある種の「革命精神」の表れで、当時は「議長さん」みたいな軽さだった。君主制と戦った彼らとしては、重々しい名前にするのは、政治的に難しかったのである。しかし、それは断じて君主相当職だった。アダムズはおもわず、大統領をなんと呼ぶかという動議を行った。これがいけなかった。アダムズの案は、‶His Highness″または‶His Majesty″だったのである。議場は騒然とした。
誰もこんなこと考えたことがなかったのである。しかし、‶His Majesty″はあんまりである。すると、アメリカ革命以前にはあまり有力ではなかった議員たちから、次のような野次が飛んだ。「アダムズ閣下!すると、あなたを呼ぶときには、Duke of Massachusettsとすべきですか?」。議場は笑いに包まれた。「いや、The Roundity(太鼓腹閣下)ではいかが?」収集がつかなくなった。
こうして、アナクロニックな革命をへて、非民主的な手続きで作られた憲法に基づいて始められたアメリカの政治体制は、民主的な風土によって民主的に運営されていくことになった。そして、革命家ジョン・アダムズは、時代遅れの貴族主義者として忘れられた人物として人々の記憶に残ることになった。
アメリカ合衆国の建国者たちを悩ませた最初の問題は、ヨーロッパにおける君主に相当する存在を共和制政府においてはどのように定めるかということであった。古典古代はいざ知らず、記憶に明らかな時代において、共和制政府というものを西欧社会はもっていなかったからである。否、イタリアには存在したが、あれは建国の父たちの認識では単なるアナキーであった。「イタリアみたいになってはいけない」というのが共通認識であった。行政権力はしっかりしていなくてはいけない。では、ワシントンを国王にしてはどうか。しかし、革命政権の性質上、これは政治的に難しかったし、ワシントンが強硬に拒絶した。そこで、さしあたりワシントンを初代大統領に据えることで、まずは連邦政府をスタートさせて、おいおい調整していくことにした。場合によっては、ワシントンに4年ごとに再選を続けてもらい、事実上の終身君主にしてもよい。選挙侯が君主を選ぶ慣例はヨーロッパにもある。
こうして連邦政府は、初代大統領をワシントンに、初代副大統領をジョン・アダムズにしてスタートした。これがそのままアメリカ革命政権の序列であった。ワシントンとアダムズという正副のトップが、アメリカ革命の最大の貢献者と見なされており、この二人の影響力に抗し得る者は、この時点のアメリカにはいなかったのである。
ところが、ジョン・アダムズの歴史における不振はここから始まる。それは、「副大統領」という不思議な職制にあった。副大統領は、今でも少し不思議な職である。非常な高位であり、ある種の「上がり」のポストであるが、影響力は時代によって様々で、革新主義の時代には「閑職」とみなされたり、またクリントン政権期のゴアのように、外交において重要な役割を担うこともあり、また現在のブッシュ政権におけるチェイニーのように、ある種の首相のような役割を担うこともある。面白いのは、内閣の一員でありながら、上院議長という立法府の長であるということである。ワシントンは、「権力分立」を額面どおりにまもり、なんと副大統領アダムズを重要閣議に参加させなかった。では、上院でなにをするかというと、「議長」なわけで、彼の本領である演説の機会はない。行政と弁舌という、アダムズを革命の第一人者に押し上げた本領が封じられてみると、彼のカリスマは急速に減退していった。残念ながら彼の風采はよくなかったのである。丸々とした禿げた五十男が不満げに議長席に座っている。アダムズは書簡で、「副大統領とは、人類が考えた中で最も無意味なポストだ」とこぼしている。
アダムズと反対に、副大統領がサマになっていたのはジェファソンであろう。彼の本領は、弁舌ではなく、「沈黙」であった。ジェファソンという人は、内気な人で、文筆においては雄弁だが、演説は好きではなかった。独立戦争前の大陸会議においても、彼はまるで何もしゃべらなかった。そのあまりの沈黙ぶりを見てアダムズは、「ジェファソン氏は、なぜあんなに何もしゃべらないのだ?」と心底不思議がっていた。彼は大統領になったときには、教書を議会で読むのも止めてしまった。教書は議会に郵送してそれきりにしてしまった。ただ、その彼の沈黙というのが、実になんとも凄いのである。深沈と沈黙する彼の姿はなんとも神々しかったらしい。アダムズ婦人のアビゲイルは、「彼は、神のように見えなくもない」と語っている。黙っているだけで、影響力がかってについてくるのである。議長席で沈黙する彼の姿は、まるで神のようだったらしい。
実は、連邦憲法制定会議の議事録を読んでも、この「副大統領」についての議論がよく分からないのである。すっと流されている。そして何事もなかったように憲法に記されている。これはどういうことであろうか。大統領については、非常に厳密な議論がなされているのに、副大統領についてはつっこんだ議論の形跡がない。ということは、当時の人々にとっては、何か議論するまでもないある種の常識があったのではないかと私は思っている。
建国者たちは、君主制における君主相当の職制として大統領を置いた。ということは、副大統領に相当する職制とは君主制においては何だろうかと考えればよい。それは国璽尚書である。国璽尚書とは、国王の代理人として貴族院を主催し、国王の意思と貴族たちの意思をつなぐ存在である。立法府に所属する大臣であり、危急の際には国王の代理を務める。まさに副大統領そのものではないか。イギリス連邦帝国に所属していた人々にとっては、大統領という大問題さえかたづけば、副大統領の設置は当然の付随事項だったのだろう。
副大統領アダムズは、実に気の毒な立場だった。国璽尚書相当職といっても、アメリカはやはり君主制の国ではないのである。そもそもワシントンが君主とみなされることを好まなかった。しかし、アダムズはワシントンの名を呼ばなければならない。さあ、なんと呼ぶかである。‶Mr. President″。現代ではこれで確立している。しかし、第一議会においては、まだなんと呼ぶかは決まってなかったのである。そもそも「プレジデント」という職名自体が、ある種の「革命精神」の表れで、当時は「議長さん」みたいな軽さだった。君主制と戦った彼らとしては、重々しい名前にするのは、政治的に難しかったのである。しかし、それは断じて君主相当職だった。アダムズはおもわず、大統領をなんと呼ぶかという動議を行った。これがいけなかった。アダムズの案は、‶His Highness″または‶His Majesty″だったのである。議場は騒然とした。
誰もこんなこと考えたことがなかったのである。しかし、‶His Majesty″はあんまりである。すると、アメリカ革命以前にはあまり有力ではなかった議員たちから、次のような野次が飛んだ。「アダムズ閣下!すると、あなたを呼ぶときには、Duke of Massachusettsとすべきですか?」。議場は笑いに包まれた。「いや、The Roundity(太鼓腹閣下)ではいかが?」収集がつかなくなった。
こうして、アナクロニックな革命をへて、非民主的な手続きで作られた憲法に基づいて始められたアメリカの政治体制は、民主的な風土によって民主的に運営されていくことになった。そして、革命家ジョン・アダムズは、時代遅れの貴族主義者として忘れられた人物として人々の記憶に残ることになった。