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七日(日)から九日(火)までJRの「秋の乗り放題パス」で東京〜三重を往復した。東海道と中山道、途中下車の旅だ。一日十キロ以上、三日で三十キロ以上歩く(休憩多め)。行き先々でマップその他、街道関係の資料を集めていたので、どんどん荷物が重くなり、足の裏がすこし痛くなった。 それにしても長野は広い。そしておもしろい町が多い。今回も塩尻の同じ宿(ホテル中村屋)に泊った。 三重から中央本線で東京に帰るときに、長野の塩尻で一泊するとほんとうに楽だ。塩尻にたどり着くのは、だいたい夜。酒とつまみを買ってホテルで飲んで寝るだけなのだが、よく歩いているので毎回熟睡できる。 これから三重に帰省するさいは、行きか帰りのどちらかは中央本線に乗ろうとおもっている。 まもなく「web本の雑誌」で人生初の「紀行文」の連載がスタートします。たぶん月二回更新。今年六月『旅する本の雑誌』の打ち合わせ中に連載の話があり、やってみ
大学にはほとんど出席せず、志望した新聞社は全滅。やむなく勤めた役所で毎日ぼんやり過ごして給料を得る。一日十二時間は眠りたい。できればずっと蒲団に居たい…。戦後派を代表する作家が、怠け者のまま如何に生きてきたかを綴った随筆と短篇小説を収録。真面目で変で面白い、ユーモア溢れる文庫オリジナル作品集。
神保町、神田伯剌西爾、小諸そば。さすがに暑くて、温かいうどんではなく、から揚げそばのせいろを食う。 澤口書店の均一で浮世絵体系『東海道五拾三次』と『木曾街道六十九次』(集英社、一九七六年)を買う。 日本の古本屋で『特別展 広重と北斎 「六十余州名所図絵」と「百人一首姥が絵とき」』(岡山美術館)も購入した。 武田泰淳著『新・東海道五十三次』(中公文庫)を読んでいたら、「平凡社の世界名画全集の別巻に、近藤市太郎氏の編集解説した『東海道五十三次』がある。これは、保永堂版のほかに、『行書東海道』、『隷書東海道』のような珍しい絵図も並べてあり、近藤氏自身が同行して撮影した最新の道中写真も挿入してあって、便利きわまりない」とある。 『新・東海道五十三次』は、武田百合子が運転手で泰淳はずっと助手席に乗っている。 車中の会話もおもしろい。戦後派の武田泰淳が、第三の新人について、こんなふうに語っている。 《
もう六月。疲れ気味。人生百年時代という言葉は見ているだけで疲れる。人生五十年、あとは余生というのが理想だ。しかし今年の秋、四十九歳になる。人生設計はむずかしい。 あまり先のことは考えず、一年一年、休み休み、怠け怠け、どうにか乗りきれたらいいと……。 《十五歳の頃、私のいた学校の博物室に、ガラスケースに入った一本の鉛筆があった。それは、百年まえにソローがつくった鉛筆だということだった。ソローは、その頃のアメリカでは指折りの鉛筆づくりの名人だった。だから、しばらく時間をまとめて、鉛筆づくりに専心すると、そのあとは完全になまけて自分の考えにふけって暮せた。これは、時間の中に設計される根拠地の思想といっていいだろう。鉛筆をつくっている時間が、ソローが生きたいように生きるほかの時間をささえる根拠地となる》 『鶴見俊輔著作集』(五巻、筑摩書房)の「根拠地を創ろう」というエッセイの一節。 ヘンリー・デイ
(本の雑誌社・2484円) 何十万冊も詰め込んだ一冊の本 定年退職で大学の研究室を引き払うのに、本棚に蓄積された大量の本をどう始末したものかと悩みに悩み、一年がかりでようやくその作業を終えたわたしのような人間にとって、本棚はしばらく目にしたくない物のはずである。それなのに、自分の苦労はそれこそ棚にあげて、他人の本棚を眺めるのはどうしてこれほどまでに楽しいことなのか。本書『絶景本棚』のページを繰り、豊富なカラー写真に収められた各界三十四人の本棚を目にして、まず思ったのはそれである。 『本の雑誌』で連載されている「本棚が見たい!」をもとに書籍化したのが本書だが、連載時よりも写真の質がアップしていて、はるかに見応えがある。取材の対象になっている人間(コレクター、作家、評論家、研究者など)の写真は、おそらく意図的に、一切出てこない。『絶景本棚』の主人公は、あくまでも本棚であり、本なのである。本棚や
起きたら、霙。寒い。ようやく春らしくなってきたとおもったのに。 数日前から寝つきがよくなくて、毎日睡眠時間がズレる。季節の変わり目はよくそうなる。 東京市外杉並町高圓寺六六九。『新居格創作集 月夜の喫煙』(解放社、大正十五年刊)の巻末に記されていた新居格の住所だ。発行者は、山崎今朝彌である。山崎今朝彌は、アナキストの岩佐作太郎や幸徳秋水とも親交があった弁護士で、学生時代、玉川信明さんの大正思想史研究会でその名前をちょくちょく聞いていた。 『月夜の喫煙』も冒頭の「作者の言葉」があいかわらず素晴らしい。わたしは新居格の「まえがき」が大好きである。あと題名もいいとおもう。 《これはいづれもわたしの心にひそむ感情の投射である。私は作家ではない。だが、私には人生を——それがかなりつまらないものであつても、——人生的に見ようとする傾向が少し計りある。それがこうしたものを書かせたのだ。私は私の書いたどの
二〇〇八年一月号からはじまった『小説すばる』の「古書古書話」が先月号終了——。月刊誌で十年連載を続けられたのはほんとうにうれしい。 今月号からは「自伝の事典」という連載に変わりました。第一回目は佐藤春夫。タイトルに「事典」と付いているが、作家、漫画家、ミュージシャンといった人たちの自伝(評伝)を中心に取り上げていく予定です。 「古書古書話」のときも何度となく自伝を取り上げていた。 不遇な時期をどう乗り切ったかというのは、昔からわたしの関心事のひとつで、自伝を読んでいるときもそのあたりのエピソードがいちばん気になる。 あとデビュー作や出世作が出る直前もおもしろい。 不遇といっても、後からふりかえると、その時期があったからこそ、成長できたという話はいくらでもある。 わたしも二十代半ばから三十歳にかけて、仕事がなくて、本やレコードを売りさばきながら、どうにか生活をしていた。そのころ、知り合った人
十四日、どうにか確定申告をすませ、気が抜ける。阿佐ヶ谷から高円寺まで歩いた。 今、東京堂書店の入口右側のカフェスペースで『絶景本棚』(本の雑誌社)のパネルが展示されている。わたしの枕元の本棚の写真もあります。けっこう恥ずかしい。 吉行淳之介、山口瞳、古山高麗雄、色川武大、尾崎一雄、木山捷平、梅崎春生、内田百閒、辻潤……。 すこしは入れ替わっているのだが、十年以上、枕元の本棚の本はほとんど動いていない。 三十代以降は、海外のコラム、野球と将棋と釣りの本が増えた。漫画はものすごく減った。 同じような作家が好きでも似たような本棚になるとは限らない。不思議である。 ► 2024 (60) ► 10月 (4) ► 9月 (6) ► 8月 (7) ► 7月 (10) ► 6月 (5) ► 5月 (4) ► 4月 (4) ► 3月 (8) ► 2月 (4) ► 1月 (8) ► 2023 (76) ►
高井有一著『塵の都に』(講談社、一九八八年刊)は、明治の文士・齋藤緑雨について書いた“現代小説”である。「私」は新聞社勤めで三重の津支局長をしていたころ、緑雨の生誕地の鈴鹿に住む人物と知り合い……。「私」の経歴は、作家本人と近いのだが、微妙にちがう。 昨年あたりから郷土文学の本を立て続けに読み、鈴鹿や津が舞台の小説として『塵の都に』を知った。二十代半ばから三十代半ばにかけて、わたしは高井有一さんに何度かお会いしている。ほぼ酒の席だったが、昔の同人誌や文学者の集まりのことを聞くと、いつも穏やかな笑顔で答えてくれた。そのとき『塵の都に』の話ができなかったのが悔やまれる。 この小説の後記に「近鉄鈴鹿市駅を降りて歩き出すのとほぼ同時に雨が落ちて来て、みるみる激しくなつた。私は商店街の傘屋に入つて、折畳みの傘を一本買ひ、ついでに『龍光寺はどつちになりますか』と訊ねた」とある。 龍光寺は、三重にいたこ
睡眠時間がズレる周期に入った。毎日、寝る時間と起きる時間がズレる。原因は寝過ぎか運動不足かその両方かだろう。 すこし前に毎日新聞の日曜版のコラムで「温活」に関する雑誌記事を紹介した。どの雑誌もショウガの効用を説いている。わたしも毎回、汁ものにはすりおろしのショウガを入れる。炒め物にも入れる。 数年前から、たまにジンジャーハイボールを飲むようになった。 ヤセ気味の人と小太りの人など、体質によって、からだの冷え方がちがう。 わたしは三十代のはじめから四十代後半にかけて、体重が十二、三キロ増えた。あいかわらず、寒いのは苦手だが、太って楽になった。以前は、全身がだるくなる冷えだったが、ここ数年は、手足に冷えをかんじる。専門用語(?)では「末端冷え」というらしい。ちなみに、ヤセ気味の人は「全身冷え」が多い。 梅崎春生や古山高麗雄の随筆を読んでいると、しょっちゅう寒がりであることを書いている。「冬眠居
終日、ゲラの束と格闘。再校でも、まだ目につくミスや、語法の間違いなどがある。きりがないな。酸欠の金魚のようにアップアップしている。 集中力が続かず、ちょっとやってはベッドでごろり。そう言えば、昨夜、銀盛会館にナンダロウくんにつきそって、担当編集者の原書房・百町くんが来ていたが、その場に小山「古本屋ツアー・イン・ジャパン」力也くん、それにぼくもいたから、百町兄弟が揃ったことになる。つまり、みな百町くんに本を作ってもらった面々、というわけだ。 打ち上げで、北原(尚彦)さんと、けっこう喋ったが、気配りの人格者で、人を不快にするようなことを言わず、有益な情報をいくつか得た。メモしておけばよかった。いつもながら、盛林堂小野くんには、すっかりお世話をかけた。 荻原魚雷くんとのトークイベント(東京神保町「東京堂書店」)の告知も始まった。7月19日。ちょっと、ぼくは「やりすぎ」の感があり、飽きられやしない
三重に帰省(一泊)。東京駅からの新幹線で偶然世田谷ピンポンズさんと同じ車両になる。 七月発売の単行本『日常学事始』(本の雑誌社)に取りかかっていて、一カ月くらい部屋にこもりがちだった。東京堂書店の岡崎武志さんとのトークショーも七月十九日(水)に決まりました。『人生散歩術』(芸術新聞社)も岡崎さんの手を離れたみたいですね。あとは刊行を待つのみ。 そもそも『日常学事始』の連載は岡崎さんの『貧乏は幸せのはじまり』(ちくま文庫)の巻末対談がきっかけではじまった。この対談でちまちました(貧乏)生活術を酔っぱらって喋ったのが、ほとんどカットされずに掲載され、それを読んだ編集者の宮里潤さんが、WEB連載の話を企画してくれた。 自分の単行本の作業中、南陀楼綾繁さんの『町を歩いて本のなかへ』(原書房)と蟲文庫の田中美穂さんの『星とくらす』(WAVE出版)が届く。 南陀楼さんは『sumus』の同人で、ずっとメ
木曜日、今年初の神宮球場。外野自由席でヤクルト対楽天戦を観る。はじめてセブンイレブンのコピー機(?)でチケット買った。 楽天の先発は則本投手——二ケタ三振の世界記録のかかっていた試合だった。なぜかヤクルト6−2楽天で勝利。原樹理プロ初完投。プロ初完投の試合を観たのは、はじめてかもしれない。記憶がない。 ……と書いているうちに、交流戦が終了した。 十九歳でライターの仕事をはじめて、二十六、七歳くらいまで、千駄ケ谷界隈の事務所を転々としていたころ、ひとりで球場に行って酒を飲む楽しみを知った。 郷里にいたときは、ふらっと球場に行ったり、仕事帰りにライブハウスに行ったりする生活は想像できなかった。当時はひたすら「毎日、寝ころんで本が読めたらなあ」というのが夢だった。夢は叶った。生活苦と引き替えに。 中学、高校のころは「図書館の近くに住みたい」とおもっていた。上京して古本屋通いをするようになってから
はじめての単行本の『古本暮らし』の刊行は二〇〇七年五月五日(書店に並んだのは四月二十八日)。十年。早い。 本が出たとき、担当編集者の中川六平さんに「最初の一年は来た仕事をぜんぶ受けろ」といわれた。その教えを守ろうとしたのだが、神保町のラーメン店を三日で二十軒取材してほしい……という仕事は断った。 長い人生、気合をいれて無理をしないといけない時期はある。しかし、無理は長く続かない。体力に自信がない身としては、持久戦の構えでいくしかない。そのことがわかったのは大きな収穫だった。 本が出たのは十年前だが、ライターの仕事をはじめたのは、それより十八年前の一九八九年の五月の連休明けだ。そのころから荻原魚雷というペンネームで書評やコラムを書いている。 かれこれ二十八年。時が経つのは早い。 それはさておき、最初の単行本が出る前後、神経がひりひりしていた。なんてことのない言葉にも過敏に反応し、苛立った。以
二日(火)、新幹線で名古屋。近鉄に乗りかえ、四日市駅。四日市あすなろう鉄道(内部線)で内部駅に。わたしが乗った車両は座席が前向に一列(そうでない車両もある)でバスみたい。 あすなろう鉄道は、軌幅が762mmのナローゲージの鉄道で五月一日が開業762日目で記念列車を運行中だった(五月七日まで)。 昨年、あすなろう鉄道の終点の内部(うつべ)駅から平田町駅までのバスがあることを知り、いちど四日市駅〜内部駅〜平田町駅というルートで帰省してみたいとおもっていた。 内部駅からのバスは一時間に一本。三十分待ち。十五分遅れでバスが到着する。バス停でひとり。心細かった。 バスの乗客は三人くらい。終点に着くころには、わたしひとりになっていた。三交バス、大丈夫なのか。 鈴鹿ハンターの1Fにあるゑびすやで天もりうどんを食う。二階の衣服店で靴下を買う。 とりあえず、郷里の家に顔を出し荷物を置いて、夕方、港屋珈琲で一
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