Published 2024/02/27 19:00 (JST) Updated 2024/02/27 19:16 (JST) 1963年に日本海へ漁に出たまま行方不明になり、後に北朝鮮での生存が判明した寺越武志さんの母、寺越友枝(てらこし・ともえ)さんが25日午後5時43分、呼吸不全のため死去した。92歳。石川県出身。葬儀・告別式は家族葬で行う。 63年5月12日、長男武志さんは叔父2人と石川県志賀町の港から出漁し、日本海で行方が分からなくなった。87年1月、不明となった叔父の一人から届いた手紙で、武志さんが北朝鮮で生存していることが判明。同年9月、夫の故太左エ門さんと訪朝し、24年ぶりに再会した。 武志さんの戸籍を復活させ、2002年10月、武志さんの一時帰国も実現させた。
61年前に能登沖で行方不明となり、北朝鮮で暮らす寺越武志さん(74)=志賀町出身=の母友枝さん(92)が25日、呼吸不全のため亡くなったことが分かった。 寺越武志さんは1963(昭和38)年に日本海で失踪し、24年後に北朝鮮で生存が確認された。母友枝さんは拉致被害者の家族会から離れ、武志さんに会うために訪朝を繰り返してきた。2002年には武志さんが一時帰国し、金沢市内の友枝さん宅に泊まるなど水入らずの時間を過ごした。 「今はひとりぼっちや。もう一度武志に会いたい」 2022年11月5日、金沢市内の自宅で、友枝さんはこう語っていた。友枝さんが武志さんと最後に会ったのは、2018年4月。「これで最後」と決めた66回目の訪朝の時だった。 武志さんは毎年1月、友枝さんへ新年のあいさつの電話を入れていた。2023年1月の国際電話では、妹に母の不調を伝えられ、心配して4月までに計5回、電話を掛けてきて
Published 2022/08/15 00:20 (JST) Updated 2022/08/15 08:13 (JST) 近藤 誠氏(こんどう・まこと=医師)13日午前、虚血性心不全のため東京都渋谷区の病院で死去、73歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。 慶応大病院でがんの放射線治療を専門とし、80年代から乳房温存療法を提唱した。多数の著書を執筆し、96年の「患者よ、がんと闘うな」、12年の「医者に殺されない47の心得」はベストセラーとなった。がん治療の先駆的意見を発表したとして、同年に菊池寛賞。13年には「近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来」を設立した。 関係者によると、13日の出勤中に突然体調を崩し、搬送先の病院で死亡が確認されたという。
独自の主張でがん医療の在り方に一石を投じた医師の近藤誠さんが13日に亡くなりました。73歳でした。 近藤さんは1948年に東京都で生まれ、慶応大学医学部を卒業後、慶応大学病院でがんの放射線治療を行い、乳がんの治療で乳房全体を手術で切除することが多かった1980年代に、乳房を温存する治療法を提唱しました。 その後1996年に出版された著書『患者よ、がんと闘うな』はベストセラーになり、独自の主張でがん医療の在り方に一石を投じることとなりました。 一方で、近藤さんの抗がん剤治療などに対するスタンスには、がんの専門医から科学的な根拠に基づいていないなどという批判が多く出されていました。 関係者によりますと、近藤さんは13日、出勤途中に突然体調を崩し、搬送された都内の病院で虚血性心不全のため、亡くなったということです。 73歳でした。
元サッカー日本代表監督で、独特のユーモアとサッカー愛にあふれた言葉が「オシム語録」として人気を呼んだイビチャ・オシム氏が死去したことが1日、関係者の話で分かった。80歳だった。かつて監督を務めたオーストリア1部グラーツも同日、ホームページで発表した。日本サッカー界に大きな影響を与えた名将は、81歳の誕生日を6日に控える中で、天国へと旅立った。 * * * オシムさんを取材する時、いつも緊張し、背筋が伸びた。質問すると「あなたは、なぜ、その質問をするのですか?」と逆に問われることが、しばしばあった。それは決して意地悪ではなく、オシムさんが真剣にサッカーに取り組み、記者に対しても、それを求めていたからだった。中途半端な準備では、オシムさんの取材はできなかった。 2007年11月に脳梗塞で倒れ、日本代表監督を退任。その後、約1年、日本国内でリハビリに励み、09年1月に自宅があるオーストリアに戻っ
ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」や「おしん」で知られる脚本家の橋田壽賀子さんが、急性リンパ腫のため、亡くなったことが分かりました。95歳でした。 4日午前、息を引き取ったということです。 お別れの会などは、行われないということです。
呼吸器疾患で療養中だった俳優の渡哲也さんが8月10日午後6時30分に肺炎のため死去した。78歳だった。所属事務所の石原プロモーションが14日、発表した。昭和の大スターがまた1人、息を引き取った。 1941年12月28日、島根県安来町(現・安来市)で生まれ、兵庫県淡路町で育った。高校卒業後に上京し、進学した青山学院大では空手道部に在籍した。 もともとは航空整備士を志望していたが、故・石原裕次郎さんに憧れ、一目会いたいと訪れた日活撮影所でスカウトされ、64年に日活入社。翌65年に映画「あばれ騎士道」で主演デビューを飾った。初対面の石原さんにあいさつをした時、握手とともに激励の言葉をもらったことに感動。後に自らも後輩たちに対して同じように振る舞うようになった。 68年に第1作が公開された「無頼」シリーズは最初の代表作となったが、71年に日活を退社。石原さんを慕って石原プロモーションに入社した。
イアン・ホルムさん - Photo by Dave J Hogan/Getty Images 『ロード・オブ・ザ・リング』や『エイリアン』などで知られるイギリスのベテラン俳優イアン・ホルムさんが88歳で亡くなったことがDeadlineなどで報じられた。 【写真】『ロード・オブ・ザ・リング』でのイアン・ホルムさん イアンさんは大英帝国勲章、サーの称号を持つ名優。エージェントによると、イアンさんは近年、パーキンソン病を患い闘病生活を送っており、病院で家族、介護士のもとで安らかに息を引き取ったという。「チャーミングで優しく、才能のある彼を悼みます」と話した。 イアンさんは『エイリアン』(1979)の科学者アッシュ役で注目を浴び、1981年の『炎のランナー』で英国アカデミー賞助演男優賞を受賞したほか、アカデミー賞助演男優賞にノミネート。近年は『ロード・オブ・ザ・リング』『ホビット』シリーズのビルボ
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大相撲で初めて新型コロナウイルス感染が判明していた西三段目82枚目・勝武士(しょうぶし、本名・末武清孝)さん=高田川=が13日午前0時半、新型コロナウイルス性肺炎による多臓器不全のため、都内の病院で死去した。28歳だった。日本相撲協会によると、先月8日に入院し、同19日から集中治療室での治療を続けていた。新型コロナ感染症で日本のプロスポーツ選手が亡くなるのは初めて。国内では20代の死亡例も報告されていない。今後、二所ノ関一門葬が検討されている。協会はこの日、希望する協会員全員に抗体検査を実施すると発表した。 角界に悲しみが広がった。13日未明、高田川部屋の三段目力士・勝武士さんが新型コロナ感染症で命を落とした。国内プロスポーツ選手として初めてだけでなく、国内でも20代の死亡例の報告はなかった。その衝撃は計り知れない。 相撲協会によると、春場所後の先月4日に38度台の発熱。師匠の高田川親方(
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