2011年10月23日、我々は日本サッカーの未来を託して見送ったはずのある男が日本に帰ってきていること、
彼がプロサッカー選手となって初のゴールを奪ったことを同時に知った
(もっとも、多少Jリーグに関心があるものは、2010年6月に彼と水野晃樹が帰ってきたことを知っていただろうが)。
有名高校生プレイヤーとしてJリーグ発足後初、国内クラブを経由せずに直接海外クラブとプロ契約した男の遅すぎるゴールだった。
2011年、10月23日というその日まで伊藤翔がなかなかゴールを奪えないでいる頃、我々は違う若武者に快哉を叫んでいた。
宮市亮、アーセナルの練習生ではないベンゲルに認められた若武者、正所属の上でフェイエノールトにレンタル移籍がなされあっという間に
欧州主要リーグの日本人最年少得点記録(2011年2月12日、18歳1カ月29日で記録)を決めた若武者にであった。
さて、このエントリの目的は、有名高校生プレイヤーとしてNPB発足後初、国内球団を経由せずに直接海外球団とプロ契約しようとする
大谷翔平が"翔"なのか"亮"なのか当ててみようということではない。甲子園に出れなかった防御率がそこまで低くない「球速160km」の投手、
日米親善高校野球で藤浪晋太郎にエースの座を触れさせてももらえなかった彼は、
確かに、「和製アンリ」という話題のみで実態が分からなかった"翔"と似ている。
しかし、海外挑戦前の"亮"だって、50m5秒台らしいものの、テクニックの不十分さは指摘されていたし、宇佐美貴史のような国際試合での
圧倒的な実績がある訳ではなかった。現時点で、"翔"なのか"亮"なのか当てることはあまりに不毛だろう。
重要なのは、"亮"の為には、"翔"が必要であったという事である。直接に、宮市が海外挑戦する際、伊藤を参考にしたことを示す資料はない。
しかし、ほぼ確実に宮市あるいはその周囲の判断において、先輩(実際同じ高校のでもある)伊藤の顛末が一番の教訓として機能していただろう。
リップサービスにのせられてはいけない、若手を教育する気がない海外クラブにはいってはいけないなど、学んだことは多かったはずである。
"翔"があってこそ、"亮"があるのだ。そして、"亮"があるからこそ、未来の日本人スタープレイヤーが生まれるだろう
もちろん、スタープレイヤー誕生には、Jリーグを一回経由することが重要と言う結論になることだってありうる。
しかし、その結論を出すためには、"亮"の未来、あるいはそれに続く直接海外クラブ契約する選手たちの行く末を見る必要があるだろう。
(高校生以下の育成については久保建英君の将来を見よう。しかし、久保君にも玉乃淳という見本がいたことを忘れてはならない)。
野球の"翔"のメジャーへの挑戦も、野球の"亮"を生み出し、そして、未来の日本人スタープレイヤーを生み出すだろう。
"翔"の挑戦は、日本野球界に貴重な経験を与えるだろう。もしかしたら、NPBの重要さを改めて認識させることなるのかもしれない。
誰かが捨て石になる可能性を覚悟してやらなければならなかったことなのだ。
であるから、大谷翔平よ、全ての誉れと怨嗟を受け止めながら、翔び立ってほしい。
そして、野球ファンは少なくとも"翔"が帰国して仮に日本のどこかの球団に入団して、1年は成績が悪くてもかつての挑戦者を見守って頂きたい。
もっとも、2年目も成績が悪いのなら、本拠地で彼にブーイングで浴びせようとそれは自由だろう。