イギリス国鉄370形電車
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ナビゲーションに移動 検索に移動イギリス国鉄370形電車 APT-P | |
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![]() 370003編成(カーライル駅) | |
基本情報 | |
運用者 | イギリス国鉄 |
製造所 | BRELダービー工場 |
製造年 | 1979年 |
製造数 | 3編成42両+予備1両 |
運用開始 | 1980年 |
引退 | 1986年 |
主要諸元 | |
編成 | 14両編成 |
軌間 | 1,435 mm |
電気方式 | 25 kV 50 Hz |
最高運転速度 | 125 mph (201 km/h) |
設計最高速度 | 155 mph (249 km/h) |
編成重量 | 434トン |
編成長 | 146.93 m |
高さ | 3.5 m |
編成出力 | 8000英馬力 (≒6000kW) |

イギリス国鉄370形電車 (British Rail Class 370) はイギリス国鉄によるAPT(Advanced Passenger Train)の試作車両である。「APT-P」ともよばれている。
概要
APT-Pは「Advanced Passenger Train Prototype」を略したものである。APT開発初期のAPT-Eはガスタービン車方式であったが、370形では交流25000Vの架空電車線による電気車方式となっている。製造はイギリス国鉄傘下のen:BREL(British Rail Engineering Limited)社のダービー工場にて行われた。
14両編成で、両端に制御車を配し、両制御車から6両目までが連接台車となっていた(画像参照)。ボギー台車の動力車を編成中央に2両置き、動力車に設置されたパンタグラフから集電した(画像参照)。3編成製造され、制御車1両が予備として製造されたため、車両数は43両であった。編成中には1等車、2等車、食堂車がそれぞれ2組あり、動力車を境にして2つの列車を組み合わせた構造になっていた。動力車の車内は通常の通り抜けは不可能であった。
APT-Pは英国内において当時史上最強の出力であった。中間の2両の動力車に搭載された8台の主電動機を駆動して合計で8000英馬力 (≒6000kW) に達した。1979年12月20日には最高時速162.2マイル(261.0 km/h)を記録し、以後23年間記録を保持した[1]。
歴史
イギリス国鉄では1970年代に入り、次世代の高速列車としてAPT(Advanced Passenger Train)の導入を計画した。1972年にはガスタービン式試作車としてAPT-Eを登場させたものの、オイルショックなどの影響で以後の車両は電気動力式に変更された。
当時のイギリス国鉄の大部分の路線では高速走行に見合った軌道が確保できておらず、軌道改良ではなく車両改良によって速度向上を図ることになった。そのために車体傾斜システムや、地上信号機との連動ブレーキシステムなどが開発された。
1981年から1984年にかけて、西海岸本線経由でロンドンとグラスゴーの間を結ぶ都市間列車(インターシティ)として試験運用された。しかしながらブレーキや車体傾斜システム等の技術的な問題が多発し、挙句車体傾斜システムの重大なトラブルが引き金となって脱線事故を引き起こす事態を招いたため、殆どまともに走ることが出来ず、後続の量産型のAPT-S計画は中止され、イギリス国鉄もAPT自体の開発を公式に白紙撤回した。
その後はほとんどが廃車になったものの、次世代機関車開発のため一部の車両が数年間残され、各種の試験が行われた。またクルーの鉄道博物館に制御車・動力車を含む6両が、シルドンのイギリス国立鉄道博物館に動力車が1両保存されている。
後に、東海岸本線のインターシティ225に車体デザインと技術が活用された。また、車体傾斜関連技術はイタリアのフィアットに売却され、ペンドリーノに使用され世界中に普及した。このペンドリーノの技術は西海岸本線の390形電車(ペンドリーノ・ブリタニコ)でも採用された。
脚注
- ^ “Train smashes speed record” (英語). BBC NEWS. (2003年7月30日)
関連項目
外部リンク
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APT-P
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「APT (鉄道車両)」の記事における「APT-P」の解説
詳細は「イギリス国鉄370形電車」を参照 1978年、第2段階として、ガスタービンに代えて動力集中方式とした交流25000V架空電車線方式の370形「APT-P」が登場し、長期の試運転の後に1981年よりロンドン - グラスゴー間のインターシティーとして試験的な暫定営業運転を開始した。編成は動力付き制御車・客車・動力なし制御車による10両編成、動力無し制御車・客車・動力車・客車・動力無し制御車による11両編成(動力車1両)・14両編成(動力車2両)が想定されていたが、実際には動力車2両の14両編成のものが製作された。これらは後に車体傾斜機構を除いてインターシティー225の編成に影響を与えた。 車体傾斜機構や流体式ブレーキシステム(水タービンブレーキ)、地上信号連動ブレーキシステムなど多数の新基軸を備えていたが、それが仇となり不具合が多発し、1981年から1984年にかけての試験運用で異常なしの状態で走ったのはわずか1回だけであった(後述)。特に車体傾斜制御のトラブルが著しく、曲線区間で傾斜した車体が突然直立して強力な超過遠心力が急激に働いて乗客がカーブの外側に投げ出されたり、直線区間を走行中にも車体傾斜機構の誤作動で車体が傾き、プラットホームを掠りながら通過した事もあったといわれている。また車体傾斜機構のみならず、ブレーキの異常発熱で立ち往生するトラブルも度々起こしていた。 途中で緊急停止してそのまま運転を打ち切るなど、試験的な運転ながらダイヤ通り運行できないという事態を招き、流体式ブレーキ(液体式変速機の機構を流用したブレーキシステム)のトラブルを原因とする脱線事故も発生した。結局APT-Pは1985年12月に突然運転休止を表明し、1986年にAPT計画自体が破棄された。試作された編成は殆ど解体処分された。
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