カスタマーレビュー

2024年5月7日に日本でレビュー済み
ゴジラ-1.0を見るために、1954年制作の「ゴジラ」第一作と本作を見ました。
その他にも、方向性として子供向けになったと思われる、いわゆる「怪獣映画」としての「ゴジラ」作品多数やハリウッドでリメイクされた「godzilla」作品もいくつかみています。

 で、感想ですが、この作品は「新」ゴジラとして素晴らしかったと、私は感じています。
第1作目の「ゴジラ」に、勝るとも劣らない傑作であると思っています。

そもそも私にとって「ゴジラ」映画とは何か?を申し上げないと、どうしてそう思うのかを説明できないと考えますので書きます。
私にとって「ゴジラ」映画とは、「ゴジラを描いた映画」ではなく、「ゴジラ」という正体不明な存在の出現によって顕わになる「日本」や「日本人」を描き出した映画だ!っという認識です。
 だから、第1作目の「ゴジラ」は、1954年当時の「日本」と「日本人」とを(作品から想像するしかないとは言え)「実感」を伴って鑑賞者に感じとらせることに成功していると感じ、「傑作だ!」と1954年製作「ゴジラ」のレビューで申し上げました。

 そして残念ながら、「ゴジラ-1.0」は、舞台となっている時代の日本や日本人とはほど遠い、また制作時点である現在の日本や日本人すら表現できていない、むしろ「架空の世界の中の架空の日本や日本人」しか見えてこない、残念な「怪獣映画」という評価になってしまいます(私、個人的に、ですが…)。

 その点で言えば、この「シン・ゴジラ」は、今、現在の日本と日本人とを、「ゴジラ」という正体不明の圧倒的存在の出現を描くことによって、反射的かつ鮮烈に描き出すことに成功していると感じられ、まさに「新」ゴジラであると感じます。
 しかも単なる第1作のリメイクではなく、「「新」または「真」ゴジラであったなぁ」という感慨を、しみじみと感じさせられました。

 第1作目の「ゴジラ」では、直接的に表現されては「いない」ものの、国家として壊滅的状況を招いた当時の「日本政府」に対する批判や、現実的直接的「敵」であった「彼の国」への憎悪・復讐心などなどを、見るものがヒリヒリと感じさせられるように作ってあると私には感じられます。
なので「この作品を当時に見た人々は…」などと「私が」感じてしまうわけです。
 菅井きんさん(たぶん)の演じた女性記者の「ばぁかものぉッ!」という「一喝に」爽快感を感じたりしてしまいますし、「ちくしょー!畜生!」という具体的な言葉にならない怒りも、「ヒリヒリと」胸に迫って来てしまったりします。

 と、同様に、この「シン・ゴジラ」においても、ウダウダと小田原評定よろしく会議を繰り返し、一般国民・民間人への被害が拡大して行くのを知りつつ何の対策もとれず、それでいながら「最善を尽くした」とか「想定外過ぎるのだから仕方ないだろッ!」と述べるような為政者に対する批判が、「無言の合掌」を通して行われているかのように「ジンワリと、静かに」伝わって来てしまったり致します。
 また「自衛隊の武器を、国民に向けることはできないッ!」とか「礼は要りません。仕事ですから…。」など、随所にリーダーたる者の覚悟や矜恃を見せてくれるセリフなどが散りばめられているのも、「現実にはそうではない(かもしれない)」政府に対する暗黙の批判を感じたりします。
 その他に、「今」のゴジラ映画であるならば、「ゴジラとは何者か?」に迫ることが当然だろうと思われ、そしてその通りに「ゴジラという存在」について科学的生物学的な仮説をたて、エビデンスを探し、合理的な推論を積み重ねた上で、文字通りの「最善」を尽くそうとする者達の姿にも、「プロジェクトX」を思わせるようなドキドキと感動を覚えたり致します。
この国を「経済大国」たらしめた先人達は、間違いなくそうしてきたし、ましてや「祖国の興廃が「この一戦」に懸かっている」のですから、尚更です。
「俺たちは、まだ、やれるのかもしれない」そう考えさせてくれるこの作品に感激してしまいます。

 また、「彼の国」と「我が国」の関係についても同じように、劇的ではあるものの、ヒリヒリするようなスリリングな政治的駆け引き(もちろん「言いなり」に近い中での精一杯ではありますが…)がされているのが見られたり、軍事的な面からも「彼の(かの)能力が不明すぎる。我(われ)の全力を投入する準備が必要」のようなセリフも飛び出して、現実をしっかり見据えた上で、思考・対応しようとする態度を感じさせられもし、「もしかしたら、この国、まだ、やれるのか…?」という微かな希望を感じさせて貰えるのも嬉しく感じます。
 そうしたセリフや態度は、主に主演の長谷川博己さんに多く感じられ、その力演・熱演も素晴らしいです。

 反面、「ゴジラが気持ち悪かった」とか「ゴジラがモソモソ動いているだけ」で、「つまらない」というご意見も読みましたが、私としてはむしろ「それが良かった」と思っています。
そもそもゴジラが当初気持ち悪い姿をしているのは、この「シン・ゴジラ」における「ゴジラの正体」に迫った結果ですし、ゴジラとはそもそも、派手に暴れ回ったりせずモソモソ動くだけでも「大惨事」を引き起こす、むしろ「(大規模ではあるが)自然災害」を思わせる存在です。
 そう言う意味で、この「シン・ゴジラ」におけるゴジラの「新」または「真」解釈は、実に興味深く面白いものですし、現実的でよく考え抜かれていたと、私は思います。

 終戦直後に制作された「ゴジラ」第1作に似て、この「シン・ゴジラ」は2011年3月の東日本大震災とそれに伴う原発事故の直後(5年後?)に公開されています。
 大都会東京がゴジラによって火の海となり、その火の海となった都会が夜を迎えた時に、その夜景の中に浮かび上がるゴジラの「怖ろしい姿」を映しつつ、その惨状を伝えるニュースの声が虚しく響く様子を見て、あなたには、どんな感情が胸に湧き、何を思い出させられるでしょう?

 この時のゴジラの姿を、まるでエヴァのように見せているのも印象的ではありましたが、この時の「ゴジラ」の姿は(私的には)恐かったです。鳥肌が立ちました。「畏れ」を感じないわけに行かなかった。
「ゴジラ」第一作で終戦直後の人々の「畏れ」「悔恨」「屈辱」などを、「私」が察せさせられたのと同じように、将来(何十年も先に)、この映画を見た人々が、この直前に大震災があったことや、その時に私たちが感じた「屈辱感」や「畏れ」に思いを至らせてくれるだろうか?などと考えたりしてしまいます。

 そうですね、ヘリコプターが偶然にも撃墜されてしまった時点で、この映画の中の日本の姿は、恐らくは、終戦直後に人々が感じていたであろう「完膚なきまでの敗北感」と、思わず「私が」悔しく感じてしまったほどの屈辱感とを、徹底的にリアルに、実感させるものとして表現されていたと思われ、敗戦や大震災を経験していない未来の観客にさえ、きっとそれを感じさせるのではないか?と思えてしまい、妙な感じもしますが、「見事!」と言わざるを得ないです。

 いや、書きたいことを事前に頭の中でまとめてから、この文章を書き始めたつもりでしたが、むしろ感情が吹き出してきてしまい、とりとめのない文章になってしまったかもしれませんね。ごめんなさい。

ま、そんなわけで、この「シン・ゴジラ」は、ゴジラ映画としても、ディザスターパニック映画としても、一流の、傑作と呼ぶべき作品だッ!っというのが、私の感想です。
よろしければこの機会に、是非ともご覧下さい。お勧めいたします。
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