何歳が一番楽しかった?

戦時中の日本って「天皇陛下のために!お国のために!敵を殺して死ぬのが美徳!」みたいな世界だったそうですね。
他の地域はともかく、大阪人がそんなノリで生きてたとは思えないんです・・・
「なにがお国のためや、アホらし!命あっての物種や、もうやめさせてもらうわ!」とか言ってんじゃないかと思うんですよね。
 ネットで戦時中の大阪を調べても、空襲の被害とか物資不足とか表面的なことしかわかりませんでした。戦時中の大阪人の内面知ってる方いはったら教えて下さい。

A 回答 (7件)

>戦時中の日本って「天皇陛下のために!お国のために!敵を殺して死ぬの  が美徳!」みたいな世界だったそうですね。



全く違いますよ、家族を守る為です。
白人を始めコーカロイドの歴史は、残虐・非道で負けた側の文化は
破壊され、男は殺されるか奴隷で連れ去られ、女は強姦されて混血児
を産みます、有史以来、面々と続いています、アルゼンチンの95%は
コーカロイドの遺伝子を持った人達です。

そんな事をさせない為に戦場に行ったのです、残った者は、空襲で
都市が焼かれても原爆を落とされても必死で耐え忍んだのです。

>「なにがお国のためや、アホらし!命あっての物種や、もうやめさせてもらうわ!」
日本人には、こんな事を言う人は、居りません。
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終戦直後のことを含めて、当時のことを本音で正直に語れる人は事実上皆無。

大阪人も同じこと。

とにかく戦い抜くこと、生き抜くことで必死だったことは間違いない。そのためなら、戦後の豊かで平和な時代では絶対に言えないことを皆がやっていた。そういうことでしょう。
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アホらしいという感覚は無かったみたいですよ。



 私の母と祖母が戦前の世代の人間なんですが、大阪市の軍港があった大正区の商家で、家がやや大きかったので、部屋の一部を大阪に寄港した軍艦の水兵さんたちの休息所として提供していたそうです。
 そこでは、(血縁関係も無い)水兵さんたちが「お母さん、ただいま」と言って笑顔で訪ねてきてたそうです。
 多分、本当の故郷に帰る時間の余裕も無く、一時、軍から離れて一軒の民家で過ごすことに故郷や肉親を思い出していたのでしょうか。
 祖母は配給の乏しい砂糖でおはぎを作ってもてなしたり、逆に、水兵が台湾に寄港したときに買い求めたバナナを土産に持ってきてくれた交流があったとのことです。

 成人後の母が短歌作りをしてたんですが、その短歌の中に「御盾となりて」とか、そんな若者を偲ぶ句がいくつもあって、最初は何の事か分からなかったんですが、「御盾」って国を守って死んだ多くの兵士のことですね。
 戦時中幼かった母の記憶に、兵士が家族の一員のように訪ねてきた様子や、その兵士が再び戦地に赴く様子などが記憶に刻まれていたのでしょうか。
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またも負けたか八連隊

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>戦時中の日本って「天皇陛下のために!お国のために!敵を殺して死ぬのが美徳!」みたいな世界だったそうですね。


違いますね。
日本受どこでもおおっぴらにそれに反対するようなことは言えなくても本心でそう思っているのは100人に1人いるか居ないかでしょう。

だれも自分は死にたくないしまして見たこともない天皇のために死のうなんて人は居ませんね。
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「なにがお国のためや、アホらし!命あっての物種や、もうやめさせてもらうわ!」などと口にしようものなら、誰かに密告されて憲兵がやってきて連行され、軍法会議にかけられて最悪は銃殺されます。

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火垂るの墓をご覧なさい。


あんな感じです。
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