「正真正銘のクソ野郎」の抜け出し方を、オードリー若林さんが教えてくれた
目を疑った。
まさか、私の中の最低な部分をこんなにもそのまま言葉で曝け出してくれる人がいたなんて。
しかもそれは、今までまったくといっていいほど正反対なタイプだと思っていた、とある漫才師の方だったから。
知人がよく読んでいるイメージがあって、なんとなくKindleで注文していた本。
オードリー若林さんが書いたエッセイ集、『ナナメの夕暮れ』だ。
最初は、自分なんかが踏み込めるわけのない芸能界で華々しく活躍する人の心の中を覗き見る感覚だった。
大御所芸人さんとの飲み会についてや、プロレスへの思い、海外旅行での一幕、M-1優勝後の率直な葛藤など。
当たり前のように、とある街で子どもとの幸せな時間を享受しながら細々と仕事をしながら暮らす9割型主婦の私には、縁遠い世界の話だと思いながら。
表舞台で生きる人が見る世界はこんなもんなのか〜芸能人っていろんなこと考えてるのね〜と他人事のようにページをめくっていた。
(Kindleなので、実際にはスワイプ、なのだけど)
衝撃が訪れたのは、突然だった。
本書の中盤で待ち構えていた「ナナメの殺し方」というエッセイ。
スタバで「グランデ」と言えない、そんななんてことのない日常のワンシーンから、鋭い考察がどんどん展開されていく。
まぁね、若林さんってちょっとひねくれてるイメージだし、おしゃれな「グランデ」なんて言葉、俺は使わねえよ、的な感じで斜に構えてるのかな。
と、今回も呑気に他人事として受け止めようとしていたのに、とある一節で急に心臓がドクン、と音を立てた。
他人の目を気にする人、私だ。
そして心の中で他人をバカにしまくっている人、きっと、私だ。
いや、弁解させてほしい。
バカにしまくっている、というのは言い過ぎだ。
決してバカにはしていない。
けど、何か一つ「あれ?」と思うようなことがある時、急に相手をリスペクトできなくなってしまうくらいに、私は心が狭いというのは薄々気づいていた。
それは明確な出来事であることもあるし、自分でも予想がつかないような、野生の嗅覚的なものが働いてしまう時もある。
いずれにせよ、「正真正銘のクソ野郎」であることには変わりない。
そして私はそんな自分が大っ嫌いだったし、認めたくなかったし、そんな自分がいつも顔を覗かせては押し殺して、誰かに気づかれないように必死になっていたこともわかっていた。
そうして一人、二人と、寄りかかれる人がいなくなっていく。
話しかけられる人が減っていく。
そうしていくうちに、自分から離れたくせに周囲から自分がどう思われているのかが気になり始めてしょうがなくなる。
愛ある言葉も裏返しに聞こえるし、何をされていなくても何かされているんじゃないかって気がして居ても立っても居られない。
「みっともない」って思われるのが、たまらなく怖くなる。
頑張っている、んだと思う。
仕事も子育ても、自分なりに頑張っている。
でも、これでいいのか、常にその答えを探している。
気落ちしている時ふとよぎるのは、「世の中のママはもっと頑張っている」「あの子はもっと成功している」「私は何もできていない」
頑張っているはずなのに。
自分の今を肯定できない。
誰かの言葉すら信じられないのに、それでも誰かの言葉で安心したがる。
パスを求めるのに、一向にボールを受け取らない天邪鬼。
本当に、何をやっていても不安で、楽しくないゾーンに陥ってしまうのだ。
私と若林さんって、同じ気持ちを共有しているのか?
いつも画面の向こうで見ている人気タレントと、この醜い内面でつながっているのだろうか?
急に親近感が湧き、ページをめくる。
(Kindleだから、スワイプだけど)
いや、それでもやっぱり若林さんは私とはまったくかけ離れた人間だ……
自分の嫌〜な部分を、ここまで冷静に分析して一種の哲学にまで落とし込めるなんて、凄すぎる……
ただただ嫌で臭いものに蓋をしてきた私に、さぁこれを目に焼き付けろとばかりに理論立ててこのどうしようもないクソ野郎な心理作用の仕組みを丁寧に説明してくれる。
直視するのがしんどい。
でも、反論の余地もない。
このクソ野郎な自分を殺す方法。
それは、ペンとノートを用意して、肯定ノートを書くことだという。
毎日、自分が何をしたら楽しいか、思いつくたびに書き込む。
そうすると、夢中になれることが増えていき、夢中になれることができると、誰かの趣味や好きなことも尊重できるようになるんだって。
理屈はわかったけど、実際本当なの、それ?
ナナメな私が顔を出す。
うっ。
また私の心を言い得てくる。
ひとまず、明日は100均でCampusノートを調達してこようと思う。