第5回 NATOとロシアの対立を深めたコソボという「パンドラの箱」
さて、「旧ソ連」地域の未承認国家をめぐる紛争について、ここまで見てきた「ナゴルノ・カラバフ共和国」以外についても、大雑把に見ておこう。南コーカサス(カフカス)の隣国ジョージア国内には2つの未承認国家「アブハジア共和国」と「南オセチア共和国」がある。
ジョージアは、アゼルバイジャンのようなエネルギー資源を持たず、経済基盤も弱いため、未承認国家を使ったロシアの統制をさらに受けやすい状態にあったものの、2008年8月、大きく事態が動いた。
「当時、わたしは北海道大学のスラブ・ユーラシア研究センターの共同研究員もやっていたのですが、札幌から東京へ飛行機で帰ってきたところ、携帯電話にたくさんの着信が入っているのに気づきました。なにかと思ったら、ジョージアとロシアの間で戦闘が始まったことに関する問い合わせの電話でした。あの戦争を今から振り返ると、より悪いのはロシアということになりますが、実はジョージアにも問題がありました。間違いなく言えることは、双方が戦争を意識して準備をしていたということです」
ジョージア国内にある未承認国家「南オセチア共和国」に対して、ジョージア軍は、「南オセチアからの挑発が続き、ジョージアの最後通牒にも応じなかった」として、攻撃を開始した。つまりジョージアが先制攻撃をしたことになる。一方で、ロシア側も南オセチアの「自国民保護」を名目に参戦した。それは、国際的に認められる国境でいえばジョージア領内での戦闘ということになるが、ロシアにはロシアなりの「理由」があった。
「ロシアは南オセチア住民にロシアパスポートを配布していて、当時、約9割の住民がロシアパスポートを保有していたと言われています。となると、ロシア人からすれば、当地住民は『ロシア人』、つまり自国民ということになります。こうしてロシアは参戦を正当化しました。紛争が起きた8月よりかなり前、双方とも4月ぐらいには完全に意識していたと考えています。4月の時点で、ロシアがジョージアを攻撃するために作成していたという攻撃リストのようなものが後で出てきたのですが、実際に展開された戦闘とほぼ同じなんですよね。一方で、ジョージアもかなりやる気だったと思います。当時のサーカシビリ大統領は、実効支配できていない『アブハジア』と『南オセチア』を取り戻すのが大きな目標だったわけです。実際に『アジャリア自治共和国』という、ジョージア国内でやはり主権が及んでいなかった地域については2004年に取り戻せたので、それに倣って他の2つの領域も取り戻したかったのです」
アジャリア自治共和国から親ロ的指導者を追放して、奪還できたことは、国土の分裂の回復を公約として当選したサーカシビリ大統領にとって大きな功績となった。この成功体験から、さらに一歩を踏み出したのが、2008年の動きだ。
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