
(歴史ライター:西股 総生)
なぜ、大きくなっていったのか?
前稿(皇居はなぜ江戸城の「本丸」にないのか?江戸末期に起きたやんごとなき事情)では、皇居が江戸城の本丸ではなく西の丸に置かれた事情を説明したが、江戸城については他にもいくつか意外な事実がある。
一つは、本丸の異常性である。江戸城の本丸は南北650メートル、東西は最大で330メートルもの広さを有しているが、これは本丸のサイズとしては日本の城でも最大だ。
比べてみると、大坂城の本丸が310×230メートル、名古屋城本丸は185メートル四方、大名居城としては広大な本丸をもつ広島城でも270×230メートルだから、江戸城の本丸がいかに破格であるかがわかるだろう。

江戸城はもともと、江戸湾に向かって北から張り出す台地の先端部に築かれている。徳川家康が入る前、つまり戦国時代の江戸城は、この台地の先端部を城域として、おそらく本丸・二ノ丸・三ノ丸くらいに堀と土塁で区切っていたのだろう。
『徳川実紀』という史料によれば、江戸城に入った家康は本丸が手狭に感じたので、堀を埋めて本丸を広げたという。その後も、徳川氏の権力が大きくなるにつれ本丸も拡張されて、ついに空前の規模となったのである。

いま一つ、江戸城の本丸で尋常でないのは、虎口(出入り口)の多さである。江戸城本丸には、上梅林門・汐見坂門・中雀(ちゅうじゃく)門・西拮橋(はねばし)門・北拮橋門という5箇所の虎口があるが、城の本丸としては異常な数といってよい。
日本の城では、本丸の虎口は2箇所か3箇所しかないのが普通である。上記の城だと、大坂城と広島城が2箇所、名古屋城が3箇所であるから、江戸城の5箇所というのは、やはり突出した数である。

城の本丸というと、御殿があって城主が暮らしている場所、という情景をイメージする人が多い。しかし、城の本質は軍事施設であるから、本丸とはまずもって防戦の指令所であり、最終防禦拠点でなくてはならない。
城の攻防戦において、本丸に立て籠もる状況というのは、追い詰められた状況でもある。三ノ丸→二ノ丸と後退してくるにつれ、最初は大勢いた城兵も次々に討死し、あるいは傷ついて戦闘力を失い……といった状態で本丸に立て籠もることになる。

したがって、本丸はみだりに広くせず、できるだけコンパクトにまとめて、動線も制限するのが城の設計セオリーというものだ。結果として、江戸時代に入って世の中が平和になってくると、多くの大名家では城の本丸が手狭になってしまった。かといって、おいそれと本丸を大拡張するわけにもいかない。
小高い丘を利用した平山城であれば、本丸に使える面積は最初から限られている。高低差の小さい平山城や平城なら、堀を埋めたりして本丸を広げることは、理論的には可能だ。けれども、幕藩体制下では城の改修には幕府の許可が要る。

うっかり大改修の計画など立てようものなら、「この平和な時代に何を軍備拡張を目論んでいるのか?」などと疑われて、下手をしたら改易の憂き目にあってしまう。そこで、本丸が手狭になった大名たちは二ノ丸や三ノ丸に広い御殿を建てて、日常の生活や政務を行う場所とし、本丸の御殿は儀式用にすることが多かった。
そこへゆくと家康は、江戸城に入った時点ですでに豊臣政権下最大の大名だった。仮に江戸城で籠城戦となった場合でも、他のどの大名より多くの兵力で守備する前提で城を設計するから、本丸も大きくできる。
しかも、関ヶ原合戦ののちは全国の大名を束ねる立場となって、征夷大将軍にも任じられたから、もう怖いものはない。権力・財力が強大化して広い御殿が必要になったら、本丸も好きなだけ大きくできる。

こうして本丸が巨大になると、普通の城のように虎口が2〜3箇所では、動線を捌ききれない。ただでさえ、普通の城とはくらべものにならない広さがあるし、将軍家の御殿として日頃から多くの人が出入りするとなれば、虎口もたくさん必要になる。
というような事情で、江戸城は尋常ならざる本丸を備えるようになったわけである。