大相撲初場所も終盤を迎えているが、場所中に横綱・照ノ富士が引退を表明した。引退した力士が進む道といえば、年寄として部屋を持つのが理想だ。ただ、誰もがなれるわけではない。部屋を持つどころか相撲界に残って、食っていくのも簡単ではないが、ポストを得ながら、自ら去る者もいる。
34代横綱の男女ノ川(みなのがわ)もそのひとりだ。彼は1942年の引退後、一代年寄として相撲協会理事も務めたが、終戦直前の1945年6月に突如として年寄を廃業する。不祥事を起こしたわけでも誰かに辞めろと言われたわけでもない。突然、自ら辞めたのだ。そのとき41歳。理由は実に単純明快だった。理事会に出るのが面倒くさくなったのである。
その人気で国技館を満員札止めに
男女ノ川は「忘れられた横綱」のひとりだろう。
1903年に現在の茨城県つくば市の農家の三男として生まれる。本名は坂田供二郎。190センチを超える上背と150キロに迫る巨漢から「仁王」と評された。しこ名は、郷里を詠んだ百人一首「筑波嶺(つくばね)の峰より落つる男女川 恋ぞつもりて淵となりぬる」からとった。
1924年の初土俵から頭角を現し、小結時代には千秋楽での武蔵山戦が大きな話題を呼び、両国国技館は18年ぶりの大入り満員札止めを記録した。巨体を活かしたかんぬきからの決め出しや小手投げは豪快だったが、下半身に欠陥があり、もろさも同居していた。