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龍造寺家晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
龍造寺家晴
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 慶長18年(1613年
改名 家晴、信重
別名 七郎左衛門または式部左衛門
官位 兵庫頭上総介
主君 龍造寺隆信政家高房鍋島勝茂
肥前佐賀藩
氏族 龍造寺氏諫早鍋島家
父母 龍造寺鑑兼
千葉胤繁(胤茂)の娘、龍造寺隆信の娘
諫早清直諫早直孝
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龍造寺 家晴(りゅうぞうじ いえはる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将肥前国佐賀藩の重臣。龍造寺四家の一つ・諫早鍋島家諫早氏)初代当主。

はじめ千葉胤繁(胤茂)の娘を妻とするが、天正14年(1586年)に亡くなった[1]。後妻に龍造寺隆信の娘を迎えた[1]

生涯

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龍造寺鑑兼の子として誕生した[2]。七郎左衛門、または式部左衛門を称した[2]官職兵庫頭上総介[2]は、はじめ家晴、のち信重を名乗った[2]

元亀元年(1570年)、大友宗麟佐賀城を攻めて以来、これと戦った[2]。龍造寺勢が大友勢を退けると、家晴は小田から蓮池城に移り、筑後国の境を守った[2]

天正7年(1579年)、龍造寺隆信が筑後を平定すると、家晴は南関に移り、肥後に備えた[2]

同8年(1580年)の筑後国柳川城攻めにおいて第三陣を率いて出陣した。龍造寺氏にとっては大恩ある蒲池鑑盛の嫡子・鎮漣を謀殺し、その一族をも皆殺しにした隆信とやや距離を置き、蒲池氏一族の蒲池貞久を家臣にしている。同12年(1584年)に柳川城主となる[2]。その後に隆信が沖田畷の戦いで戦死し、龍造寺氏勢力が動揺する最中に大友宗麟勢の立花道雪高橋紹運による侵攻を防いでいる。

主君・隆信の跡を継いだ龍造寺政家は、天正15年(1587年)6月に行われた豊臣秀吉九州平定に伴う国割り(九州国分)により、肥前7郡の所領を安堵されたものの筑後の所領を没収された。そのため柳川城は立花宗茂の与力、三池鎮実に給され、家晴は所領を失った。家晴は大坂への帰途にあった秀吉を追い、下関の赤間関にて嘆願した結果、九州平定に参陣しなかった肥前高来郡伊佐早領主・西郷信尚の所領を没収して与えられることが決せられた。同年8月に家晴は自軍の2,500騎、政家よりの援軍1,000騎を併せた軍勢で伊佐早を攻め、西郷信尚を居城の高城城から島原に追って所領とし、地名の字を諫早に改めた。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて、伏見城攻撃に参加した鍋島勝茂に従っていたが、勝茂は途中で徳川方に応じ、本国に戻り、西軍方と戦った[1]

龍造寺氏の領国の実権を握った鍋島氏と龍造寺隆信の孫・高房の相克における幕府からの呼び出しに際しては龍造寺信周龍造寺長信[3]と共に上京し、鍋島氏への権力移譲を容認した。

慶長18年(1613年)、死去した[2]。諫早の天祐寺に葬られた[2]

以後、家督を継いだ嫡子・直孝より龍造寺の名を憚り諫早へと改姓し、幕末まで龍造寺四家の一つとして存続した。また、長男の清直は「鷹屋入壷(後に入古)」と改名して毛利氏に仕え、子孫は長州藩士として存続している[4]

脚注

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  1. ^ a b c 長崎県史編纂委員会 1973, p. 1301.
  2. ^ a b c d e f g h i j 長崎県史編纂委員会 1973, p. 1300.
  3. ^ 一説には息子の多久安順
  4. ^ 正徳5年(1715年2月12日鷹屋清長が名字を「諫早」に復している。

参考文献

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