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鳥居忠政

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鳥居 忠政
鳥居忠政(長源寺蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄9年[1]1566年
死没 寛永5年9月5日[1]1628年10月2日
別名 松千代(幼名) [2]、新太郎(通称[1]
戒名 英山全雄大居士
墓所 東京都文京区江岸寺
官位 従五位下左京亮従四位下
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠家光
下総矢作藩主→陸奥磐城平藩主→出羽山形藩
氏族 鳥居氏
父母 父:鳥居元忠、母:松平家広の娘
兄弟 康忠忠政成次忠勝忠頼忠昌土岐定政室、真室御前(戸沢政盛正室)
正室:滝川雄利の養女
側室:内藤氏
忠恒戸沢定盛(戸沢政盛養嗣子)、忠春井伊直勝正室、桂岳院、酒井忠勝正室、宗姫、真田信重正室、大河内忠雄室ら
養女:牧野信成正室
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鳥居 忠政(とりい ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名徳川氏の家臣。下総国矢作藩の第2代藩主、陸奥国磐城平藩主、出羽国山形藩の初代藩主。官位従四位下左京亮[1]壬生藩鳥居家初代。

生涯

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三河国渡村(現在の愛知県岡崎市)にて鳥居元忠の次男として誕生した。母は形原松平家広の娘(徳川秀忠又従兄弟)。

徳川家康に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加した[1]。天正14年(1586年)に家康に従い上洛し、従五位下・左京亮に叙任される[3]

慶長5年(1600年)、父・元忠が伏見城攻防戦で討死し、長兄・康忠は早世していたので家督を継ぎ、下総矢作藩主となる[1]。忠政は家康の命令で関ヶ原の戦いの時は江戸城留守居役を勤めていた[1]。戦後に父の戦功によって陸奥磐城平に10万石を与えられ、亡父・元忠のために長源寺を建て、家康から香花料として100石を賜っている[4]

関ヶ原の戦いの後、伏見城で父・元忠と戦った鈴木重朝から元忠所用の「糸素縣縅二枚胴具足」の返還を申し出を受けた[5]。忠政は深く感銘し重朝にこの具足を譲り、2004年に鈴木家から大阪城天守閣に寄贈されている(なお兜は幕末期に新調されている)[5]

両度の大坂の陣では江戸城の留守居役を務めた[1]元和8年(1622年)、最上氏が改易された後を受けて出羽山形22万石に加増移封され、妹婿で新庄藩主・戸沢政盛、娘婿で鶴岡藩主・酒井忠勝、従弟で上山藩主・松平重忠らと共に[注釈 1]、徳川氏の譜代大名として伊達政宗などの東北諸大名の監視を命じられた。

寛永5年(1628年)9月5日、山形で死去した[1]。享年63。跡を長男の忠恒が継いだ。

墓所は東京都文京区江岸寺

系譜

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父母

正室

側室

  • 内藤氏

子女

養女

脚注

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注釈

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  1. ^ 忠政の転封に合わせて、酒井忠勝・直次忠重の3兄弟(忠勝・直次は忠政の娘婿でもある)には旧最上領内にそれぞれ13万8千石・1万2千石・8千石が、忠政の妹婿である戸沢政盛には6万石が、従弟(母親が元忠の妹)である松平重忠には4万石が与えられ、万一の際には忠政がこれらの大名の兵を動員して対応する構想であった[6]
  2. ^ 戸沢政盛の養子。政盛の正室の真室御前は鳥居元忠の娘で、忠政と同腹。
  3. ^ 田口五左衛門『新庄古老覚書』1918年、104頁。 によれば鳥居忠恒の娘とする説がある。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 阿部 & 西村 1990, p. 555
  2. ^ 藩翰譜: 訂正. 上(1926)
  3. ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。 
  4. ^ 佐原市役所編『佐原市史』1966年、115頁。
  5. ^ a b ザ・AZABU 第44号”. 港区麻布地区総合支所. 2020年11月7日閲覧。
  6. ^ 小宮山敏和『譜代大名の創出と幕藩体制』吉川弘文館、2015年、52頁。 

参考文献

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  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9 

関連項目

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