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高倉馨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高倉馨(たかくら かほる、1897年明治30年)9月10日 - 1973年昭和48年)11月)は、戦前は日本統治の朝鮮総督府で、終戦後は宮城県仙台市に奉職した日本の都市計画家

1897年(明治30年)9月10日、福島県双葉郡双葉町に生まれる。

1925年大正14年)4月より1945年(昭和20年)8月15日まで朝鮮総督府士木課に勤務し、同年11月に同僚の八巻芳夫(元仙台市建設局長)と一緒に内地に引きあげ。

1948年(昭和23年)9月、総理府特別調達局仙台局長として仙台赴任。1950年(昭和25年)末頃に仙台市土地区画整理担当の精算課長[注釈 1]。仙台駅前整理に関わるビジネスセンター問題に際して[注釈 2]、小規模ながら合同ビルを完成させ今日の市街地再開発事業の先端を行う事業を担当した。

仙台では区画整理の精算は一地区ごとに計算。整理前8,000筆、整理後5,000筆合せて13,000筆の評価指数の計算を伴うのを高倉はすべての路線価を決定。計算の段階で退職[注釈 3]

1973年(昭和48年)11月に死去。

脚注

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  1. ^ 『都市計画』1989年1月号、都市計画学会「戦災都市は全国で150もあり事業施行方策は土地区画整理なので熟練者は全体に不足しているときなので常に心強く思った。しかし本格的な精算事務に至るまでに至っていなかったので訴訟·訴願その他苦情処理もやって貰った」
  2. ^ 『都市計画』1989年1月号、「仙台駅については駅の広場及び隣接する住民の土地も合せて2,000坪について米軍が接収。しかし昭和27年中頃には返還するという内報があったので返還後は如何にすべきかについて検討した。鉄道用地は広場にすること、民有地1000坪については所有者18人もおり戦前の使用状況は木造旅館他は土産店雑貨店などでこのままの復興は仙台の玄関ロとしてふさしからぬものであった。」「岡崎市長はこの土地全体を基礎として地下1地上10階の大ビルディングを建設して地下には仙台駅を引き込み (仙台一名巻線)更にバスセンターを設置し、地上には旅館ホテル商工物産展示場,宮城県の観光案内場などいわゆる仙台ビジネスセンターを建設しようという案を発表した。」「その内に反対者も表はれ市会でも野党がらのきびしい質問などが出て来て難しくなって来た。市長も改選時期も迫って来たので遂に幻にせざるを得なかった。」
  3. ^ 計算は小型計算器を利用しても容易でないと考え電気計算協会に依頼。協会も初のことで約1年半位かかったが一万3千筆の計算は1時間でプリントになって出て来たという。