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馬希広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
廃王 馬希広
第4代王
王朝
在位期間 天福12年5月11日 - 乾祐3年12月14日
947年6月2日 - 951年1月24日
都城 長沙
姓・諱 馬希広
徳丕
生年 不詳
没年 乾祐3年12月15日[1]
951年1月25日
武穆王

馬 希広(ば きこう)は、十国の第4代王。武穆王馬殷の三十五男で文昭王馬希範の弟。

生涯

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天福12年(947年)、文昭王馬希範の薨去により即位し、まもなく後漢より天策上将軍・楚王に封じられた。武穆王馬殷の遺命では兄弟順の相続であったにもかかわらず、最年長の三十兄の馬希萼でなく馬希広が即位したことを、兄の馬希崇が遺命違反として馬希萼の擁立を企てる。

乾祐2年(949年)、武平軍節度使であった馬希萼が叛乱を起こし、楚の都城の潭州を攻めるが失敗、馬希広は兄弟を害することを避けるために追撃を行わなかった。南方に逃れた馬希萼は乾祐3年(950年)、蛮族の協力を得、さらに南唐に臣下と称して協力を仰ぎ、再度馬希広を攻撃する。馬希広は討伐軍を発するが敗れ、潭州は馬希萼により陥落させられ、馬希広は捕らえられた。程なくして馬希萼より自殺を命じられた。

脚注

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  1. ^ 資治通鑑』巻289 後漢紀四 隠帝 乾祐三年十二月戊申条による。
先代
文昭王
十国楚の第4代
947年 - 950年
次代
恭孝王