飯尾氏
飯尾氏(いいのおし、いのおし、いいおし)は、日本の氏族。以下の系統がある。
飯尾氏(三善氏系)
[編集]飯尾氏 | |
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本姓 | 三善朝臣 |
家祖 | 飯尾倫忠 |
種別 | 武家 |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 |
阿波国麻殖郡飯尾村[2] 遠江国(戦国時代) |
著名な人物 | 飯尾連龍 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
本姓は三善氏。三善倫忠の代に飯尾姓を名乗った。元々は室町幕府の奉行衆の家柄であった。伝承では、飯尾長連の代に駿河国に下り、今川氏譜代の家臣となったと伝えられている。
しかし、『宗長手記』によれば長連は三河吉良氏の家臣で遠江国浜松荘の代官を務めており、今川義忠が遠江に侵攻した際にこれに加勢をしようとしたが、義忠と共に駿河に撤退する際に討たれたと記されている。これを裏付ける史料として、『山科家礼記』応仁2年(1468年)7月5日条に「吉良殿内飯尾善四郎」という人名が記載されていることが挙げられる。善四郎は飯尾氏代々の当主の通称であり、飯尾氏が今川氏譜代ではなく吉良氏家臣であった事実を裏付けている。吉良氏の家臣には巨海氏や狩野氏のように義忠に抵抗した者もおり、今川派の長連は彼らとの争いに敗れたと考えられている。その後、吉良氏は遠江守護の斯波氏の要請に応える形で長連の子である賢連ではなく、親・斯波氏とみられた大河内貞綱を代官に任じている。吉良氏はこの争いには中立を保とうとしたようであるが、浜松荘と引馬城(後の浜松城)を巡って貞綱を支持する斯波義達と賢連を支持する今川氏親が争う形となり、永正5年(1508年)に今川氏親が斯波義達から遠江守護職を奪い、永正14年(1517年)には斯波義達を捕虜として遠江全域を支配した。その結果、吉良義堯は今川氏親の娘婿となって和睦する代わりに遠江から撤退し、飯尾賢連は氏親から浜松荘と引馬城を与えられて今川氏の被官となった[3]。
戦国時代、賢連の子乗連は今川義元に桶狭間の戦いで従軍し、討ち死にした。乗連の子飯尾連龍は初め義元の跡を受けて家督を継いだ今川氏真に仕えたが、三河の徳川氏に内通し、今川氏から離反した。その後、今川氏真から和睦と偽った召喚に応じた連龍が誅殺されたために、飯尾氏の嫡流は絶家した。
系譜
[編集]飯尾氏(織田氏支族)
[編集]飯尾氏 (織田氏支族) | |
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本姓 |
桓武平氏? 忌部(斎部)宿禰? |
家祖 | 飯尾定宗 |
種別 | 武家 |
出身地 | 尾張国 |
主な根拠地 | 尾張国 |
著名な人物 | 飯尾尚清 |
支流、分家 | 永沼氏(武家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
織田氏の一族清洲の守護代「織田大和守家」の織田敏宗(または織田敏定)の子が尾張国の土豪飯尾氏の養子となり、飯尾定宗と名乗ったことに始まる。定宗は織田信長に仕え、桶狭間の戦いで討ち死にした。定宗の跡を継いだ尚清(信宗)は赤母衣衆となり、本能寺の変後、織田信雄、さらに豊臣秀吉に仕えた。嫡子敏成は尚清に先立って死去していたため嫡流は絶家したが、庶流の尚清の弟飯尾重宗の系統が続く。重宗には嫡子敏隆がいたが早世したため、敏成の弟を養子として永沼と名乗らせた。
系譜
[編集]脚注
[編集]関連項目
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