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韓范

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

韓 范(かん はん、? - 410年)は、五胡十六国時代前秦後燕南燕の官僚。

生涯

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前燕司空を務めた人物(韓恒と思われる)の孫[1]。前燕が滅んだ後、前秦では姚興ととともに太子中舎人を務めた[2]慕容徳らに従い西に出、後燕では中書侍郎となった。

398年、慕容徳が滑台にて燕王を名乗ると東晋軍が北上。迎撃のため慕容徳が軍を率いて南下すると、滑台城内にいた者が北魏と通じてしまう。滑台を奪還せんとした慕容徳に対し、韓范は別の場所に拠点を移した方が良いと提唱。承認された[3]

400年、慕容徳は南燕の皇帝に即位。宴の中で臣下に対し、自らの才能が過去の皇帝に引き比べていかなるものかを問う。鞠仲を復興させた少康を復興させた光武帝を引き合いに出すと、慕容徳は布帛千匹を褒美に与えると言い出した。宴の軽口に対する褒美とするには余りに膨大な量である。鞠仲が慌てて辞退すると、慕容徳は「お前が虚言を言い出したから俺も虚言で答えたのだ」と言う。これらのやりとりを聞いた韓范は「天子に戯言無し、と仄聞しております。ならば忠臣にも虚妄に満ちた答えがあってはなりますまい。ただいまの応答を伺いまするに、上も下もが欺きあっておられる。これは君臣どちらにも手落ちがあると申すしかございますまい」と諫めた。慕容徳はこの言葉に喜び、韓范に布帛五十匹を下賜した。以降南燕朝廷内では直言諫言の気風が培われた[4]

403年、東晋桓玄が簒奪、を立てる。禍を避けるべく劉軌司馬休之劉敬宣高雅之らが南燕に亡命。韓范は慕容徳に南土侵攻の好機であると勧め、実際にその準備が進められたが、計画は慕容徳が病に倒れたため取りやめとなった[5]

405年、慕容徳が死亡。あとを継いだ慕容超は元々南燕に仕えていた慕容鍾段宏と不和に陥っていた。やがて身を危ぶんだ慕容鍾が決起。慕容超はここで韓范に、慕容凝とともに鎮圧軍を率いさせる。しかし進軍する中で慕容凝もまた反旗を翻し、韓范殺害を目論む。韓范は先手を打って慕容凝を攻撃。慕容凝は後秦に出奔した[6]

407年、慕容超は後秦に捕らえられていた母および妻の返却を求めるべく、後秦に和親を提案した。決して友好的とは言えなかった両国の関係を取り持つため、韓范が使者として派遣された。姚興は長らくぶりに再会した韓范に対し論戦を挑むのだが、韓范は難なく論戦を切り抜けた。「そなたを越せたと思っていたが、まだまだ叶う相手ではなかったか」と姚興は感嘆、改めて韓范と旧交を温める宴を開いた。その宴においても韓范は姚興に対し当意即妙の受け答えをし、姚興を大いに喜ばせた[7]

409年、慕容超による東晋領内の略奪がきっかけとなり、晋将劉裕の侵攻を受ける。このとき慕容超は籠城戦を選択、あわせて韓范を後秦に派遣、援軍を要請していた。姚興もこれに応じ一万からなる援軍を編成したのだが、同時期に発生した赫連勃勃の反乱に後秦軍が敗北。予定された援軍も赫連勃勃軍に充てなければならなくなった。それを目の当たりとした韓范は「天は燕を滅されるおつもりであったか!」と嘆いた。同行者の中には後秦に亡命すべきだと勧めるものもあったが、韓范は劉裕の行軍が天意に認められたものとしか考えられず、ならば秦も間もなく滅ぼされるであろうと拒否、劉裕の元に下った[8]。劉裕は韓范に南燕の将士らに向け降伏勧告をなすよう要請。すると韓范は代々仕えた国を滅ぼすような言葉を発するのは耐えきれないと拒否する。劉裕もその忠節を良きものであるとし、それ以上強要することはなかった[9]

410年、広固陥落。予定よりもはるかに攻城期間が延びたことに劉裕は激怒し、城内の男たちをことごとく穴埋めにし、その妻子はみな兵士らへの褒美に当てる、と言い出す。それを聞き、韓范が「斉の地にいるのは晋の遺民である。それを皆殺しにするのであれば、この先北魏や後秦から国土を奪回したときに民が東晋に帰服すまい」と諫言。劉裕も受け入れはしたが、それでもなお南燕の王公以下の鮮卑三千人は殺され、穴埋めとされた。妻や娘たちは将兵らへの褒美となり、城郭は破壊し平地とされた。

その後韓范は旧南燕の地の統治を委任されたが、劉穆之により「謀反を企んだ」とされ、処刑された[10]

脚注

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  1. ^ 晋書』巻128「自亡祖司空世荷燕。」
  2. ^ 『晋書』巻128「昔與姚興俱為秦太子中舎人,可遣將命,降號修和。」
  3. ^ 『晋書』巻127「及德此行也,辯又勸和反,和不從。辯怒,殺和,以滑台降于魏。時將士家悉在城内,德將攻之,韓范言於德曰:「魏師已入城,據國成資,客主之勢,翻然復異,人情既危,不可以戰。宜先據一方,為關中之基,然後畜力而圖之,計之上也。」德乃止。」
  4. ^ 『晋書』巻127「因宴其群臣,酒酣,笑而言曰:「朕雖寡薄,恭己南面而朝諸侯,在上不驕,夕惕於位,可方自古何等主也?」其青州刺史鞠仲曰:「陛下中興之聖後,少康、光武之儔也。」德顧命左右賜仲帛千匹。仲以賜多為讓,德曰:「卿知調朕,朕不知調卿乎!卿飾對非實,故亦以虚言相賞,賞不謬加,何足謝也!」韓范進曰:「臣聞天子無戲言,忠臣無妄對。今日之論,上下相欺,可謂君臣俱失。」德大悦,賜范絹五十匹。自是昌言競進,朝多直士矣。」
  5. ^ 『晋書』巻127「時桓玄將行簒逆,誅不附己者。冀州刺史劉軌、襄城太守司馬休之、征虜將軍劉敬宣、廣陵相高雅之、江都長張誕並内不自安,皆奔於德。於是德中書侍郎韓范上疏曰:「夫帝王之道,必崇經略。有其時無其人,則弘濟之功闕;有其人無其時,則英武之志不申。至於能成王業者,惟人時合也。自晋國内難,七載於茲。桓玄逆簒,虐逾董卓,神怒人怨,其殃積矣。可乘之機,莫過此也。」」
  6. ^ 『晋書』巻128「超尋遣慕容鎮等攻青州,慕容昱等攻徐州,慕容凝、韓范攻梁父。昱等攻莒城,抜之,徐州刺史段宏奔于魏。封融又集群盗襲石塞城,殺鎮西大將軍餘鬱,青土振恐,人懷異議。慕容凝謀殺韓范,將襲廣固。范知而攻之,凝奔梁父。范併其衆,攻梁父克之,凝奔姚興,慕容法出奔于魏。」
  7. ^ 『晋書』巻128「及至長安,興謂范曰:「封愷前來,燕王與朕抗禮。及卿至也,款然而附。為依春秋以小事大之義?為當專以孝敬為母屈也?」……范承間逞説,姚興大悦,賜范千金,許以超母妻還之。」
  8. ^ 資治通鑑』巻115「初,興遣衛將軍姚強帥歩騎一萬,隨韓范往就姚紹於洛陽,並兵以救南燕,及為勃勃所敗,追強兵還長安。……遂降於裕。裕將范循城,城中人情離沮。或勸燕主超誅范家,超以范弟言卓盡忠無貳,並范家赦之。」
  9. ^ 『晋書』巻128「翌日,裕將范循城,由是人情離駭,無復固志,裕謂范曰:「卿宜至城下,告以禍福。」范曰:「雖蒙殊寵,猶未忍謀燕。」裕嘉而不強。」
  10. ^ 『資治通鑑』巻115「時克燕之問未至,朝廷急征劉裕。裕方議留鎮下邳,經營司、雍,會得詔書,乃以韓范為都督八郡軍事、燕郡太守,封融為勃海太守,檀韶為琅邪太守,戊申,引兵還。韶,祗之兄也。久之,劉穆之稱范、融謀反,皆殺之。」

参考文献

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