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静火神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
静火神社

鳥居と社殿
所在地 和歌山県和歌山市和田
位置 北緯34度12分10.64秒 東経135度12分28.86秒 / 北緯34.2029556度 東経135.2080167度 / 34.2029556; 135.2080167 (静火神社)座標: 北緯34度12分10.64秒 東経135度12分28.86秒 / 北緯34.2029556度 東経135.2080167度 / 34.2029556; 135.2080167 (静火神社)
主祭神 静火大神
社格 式内社名神大
村社
竈山神社境外摂社
創建 不詳
承和11年(844年)以前)
札所等 紀三所社
例祭 4月16日
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静火神社旧地碑(手前)と現在社の鎮座する薬師山

静火神社(しずひじんじゃ/しづひじんじゃ)は、和歌山県和歌山市和田にある神社式内社名神大社)で、旧社格村社。現在は竈山神社の境外摂社。

伊達神社(和歌山市園部)、志磨神社(和歌山市中之島)とともに「紀三所社(きのさんしょしゃ)」と称される[1]

祭神

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祭神は次の1柱[2]

  • 静火大神

社家の鵜飼氏の文書によれば、祭神は火結神とされていた[2]。別説として、『続風土記』では「紀三所社」が伊太祁曽三神(五十猛命・大屋都比売命・都麻都比売命)を分祀するとし、静火神社祭神を都麻都比売命に推定する[1]。一方、「木の国」である紀伊国の「鎮火の神」であったとする説もある[3]。また『住吉大社神代記』では、住吉大社摂社の船玉神社が紀氏の神であり「志麻神・静火神・伊達神」の本社であるとしている。

歴史

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創建

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創建は不詳。元々は現在地の東約200メートルの地に鎮座した(北緯34度12分9.46秒 東経135度12分37.07秒 / 北緯34.2026278度 東経135.2102972度 / 34.2026278; 135.2102972 (静火神社旧地)[2]。『続風土記』によると、静火神社は永仁年間(1293年-1299年)以前に廃絶したとされるが、長享元年(1487年)の日前宮文書には粢散米1斗を静火神社にあてた記載がある[1]。『南紀徳川史』によると享保8年(1723年)頃までには廃絶しており、同年に和歌山藩によって薬師山(前山・天霧山;現社地)に社殿が再建され、竈山神社が管理したという[1]

概史

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国史では、いずれも伊達神・志摩神(志磨神)とともに承和11年(844年)に正五位下、嘉祥3年(850年)に従四位下、貞観元年(859年)に正四位下、貞観17年(875年)に従三位の神階昇叙の記事が記載されている[1]

延喜式神名帳では紀伊国名草郡に「静火神社 名神大」と記載され名神大社に列しているほか、『紀伊国神名帳』では「正一位 静火大神」と記載されている[1]。いずれも竈山神社に比して上位である。

かつては伊達神社(和歌山市園部)、志磨神社(和歌山市中之島)とともに「紀三所社(きのさんしょしゃ)」と称されたとされる[4]。「紀三所社」の記載は、永承3年(1048年)の収納米帳を初めとして、『中右記天仁2年(1109年)条、『梁塵秘抄』四句神歌等に見える[4]。『住吉大社神代記』では紀三所社の由来について、神功皇后三韓征伐に用いた船3艘を武内宿禰に祀らせたことによるとする[4]

また、当地の和田村はかつて日前神宮・國懸神宮の神領であったため、静火神は同神宮や紀伊国造家に深く関係した。同神宮境内に祀られている草宮では、9月15日に静火神が神幸して静火祭が行われたという[3]

明治6年(1873年)に近代社格制度において村社に列したが、明治42年(1909年)に竈山神社末社の稲荷神社に合祀された[1][2]昭和25年(1950年)、元の薬師山に社殿が造営され遷座した[2]

神階

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  • 六国史における神階奉叙の記録
  • 六国史以後

脚注

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参考文献

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  • 神社由緒書
  • 日本歴史地名大系 31 和歌山県の地名』平凡社、1983年。ISBN 458249031X 
    • 「静火神社跡」「志磨神社」
  • 丸山顕徳 著「竈山神社・静火神社」、谷川健一編 編『日本の神々 -神社と聖地- 6 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社、1986年。ISBN 456002216X 
  • 中野清 著「静火神社」、式内社研究会編 編『式内社調査報告 第23巻 南海道』皇學館大学出版部、1987年。 

関連項目

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