静火神社
静火神社 | |
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鳥居と社殿 | |
所在地 | 和歌山県和歌山市和田 |
位置 | 北緯34度12分10.64秒 東経135度12分28.86秒 / 北緯34.2029556度 東経135.2080167度座標: 北緯34度12分10.64秒 東経135度12分28.86秒 / 北緯34.2029556度 東経135.2080167度 |
主祭神 | 静火大神 |
社格等 |
式内社(名神大) 旧村社 竈山神社境外摂社 |
創建 |
不詳 (承和11年(844年)以前) |
札所等 | 紀三所社 |
例祭 | 4月16日 |
静火神社(しずひじんじゃ/しづひじんじゃ)は、和歌山県和歌山市和田にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は村社。現在は竈山神社の境外摂社。
伊達神社(和歌山市園部)、志磨神社(和歌山市中之島)とともに「紀三所社(きのさんしょしゃ)」と称される[1]。
祭神
[編集]祭神は次の1柱[2]。
- 静火大神
社家の鵜飼氏の文書によれば、祭神は火結神とされていた[2]。別説として、『続風土記』では「紀三所社」が伊太祁曽三神(五十猛命・大屋都比売命・都麻都比売命)を分祀するとし、静火神社祭神を都麻都比売命に推定する[1]。一方、「木の国」である紀伊国の「鎮火の神」であったとする説もある[3]。また『住吉大社神代記』では、住吉大社摂社の船玉神社が紀氏の神であり「志麻神・静火神・伊達神」の本社であるとしている。
歴史
[編集]創建
[編集]創建は不詳。元々は現在地の東約200メートルの地に鎮座した(北緯34度12分9.46秒 東経135度12分37.07秒 / 北緯34.2026278度 東経135.2102972度)[2]。『続風土記』によると、静火神社は永仁年間(1293年-1299年)以前に廃絶したとされるが、長享元年(1487年)の日前宮文書には粢散米1斗を静火神社にあてた記載がある[1]。『南紀徳川史』によると享保8年(1723年)頃までには廃絶しており、同年に和歌山藩によって薬師山(前山・天霧山;現社地)に社殿が再建され、竈山神社が管理したという[1]。
概史
[編集]国史では、いずれも伊達神・志摩神(志磨神)とともに承和11年(844年)に正五位下、嘉祥3年(850年)に従四位下、貞観元年(859年)に正四位下、貞観17年(875年)に従三位の神階昇叙の記事が記載されている[1]。
『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「静火神社 名神大」と記載され名神大社に列しているほか、『紀伊国神名帳』では「正一位 静火大神」と記載されている[1]。いずれも竈山神社に比して上位である。
かつては伊達神社(和歌山市園部)、志磨神社(和歌山市中之島)とともに「紀三所社(きのさんしょしゃ)」と称されたとされる[4]。「紀三所社」の記載は、永承3年(1048年)の収納米帳を初めとして、『中右記』天仁2年(1109年)条、『梁塵秘抄』四句神歌等に見える[4]。『住吉大社神代記』では紀三所社の由来について、神功皇后が三韓征伐に用いた船3艘を武内宿禰に祀らせたことによるとする[4]。
また、当地の和田村はかつて日前神宮・國懸神宮の神領であったため、静火神は同神宮や紀伊国造家に深く関係した。同神宮境内に祀られている草宮では、9月15日に静火神が神幸して静火祭が行われたという[3]。
明治6年(1873年)に近代社格制度において村社に列したが、明治42年(1909年)に竈山神社末社の稲荷神社に合祀された[1][2]。昭和25年(1950年)、元の薬師山に社殿が造営され遷座した[2]。
神階
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 神社由緒書
- 『日本歴史地名大系 31 和歌山県の地名』平凡社、1983年。ISBN 458249031X。
- 「静火神社跡」、「志磨神社」。
- 丸山顕徳 著「竈山神社・静火神社」、谷川健一編 編『日本の神々 -神社と聖地- 6 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社、1986年。ISBN 456002216X。
- 中野清 著「静火神社」、式内社研究会編 編『式内社調査報告 第23巻 南海道』皇學館大学出版部、1987年。