陳継儒
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陳 継儒(ちん けいじゅ、嘉靖37年(1558年) - 崇禎12年(1639年))は、中国明代末期の書家・画家。字は仲醇、号は眉公・麋公。董其昌の親友として知られる。
略歴
[編集]松江府華亭県泖橋(現在の上海市金山区楓涇鎮[1])の人。書は蘇軾・米芾などに師法した。またその文才は王錫爵・王世貞らに推賞されるほどであった。29歳の時に崑山に草庵を建て隠遁し晩年は東佘山に隠れた。度々宮廷から招聘されたが生涯仕官することなく、文筆をもって生計を立てた。書画に造詣が深かったが、自らは余技として墨竹・山水を得意とした。董其昌とは終生の友情を分かち合った。『皇明書画史』・『妮古録』・『眉公秘笈』・『書画金湯』など編著多数。蘇軾の書を刻した法帖『晩香堂帖』は書家に著名である。
逸話
[編集]陳継儒は当時「通隠」として有名だったが、陶望齢は二度まで訪問したが二度とも会えず、その後やっと太倉の宰相邸で面会することができた。陶望齢が笑いながら、「陳先生は高士だから、深山窮谷の中に居られるとばかり私は想像していました。こういうお屋敷でお目にかかろうとは、全く夢にも思いませんでしたよ」と言ったので、さすがの陳眉公もいたく赤面した、という[2](尤侗『艮斎続説』より)。
代表作
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脚注
[編集]- ^ 楓涇鎮人民政府 陳継儒
- ^ 松枝茂夫・訳『模糊集』生活社、1944年、P.59頁。
参考文献
[編集]- 曾布川寛「董其昌の文人画」『中華文人の生活』、荒井健編、平凡社、1994年、ISBN 4582482066
- 嶋田英誠 WEB版 中国絵画史辞典 (SHIMADA's Dictionary for Chinese Painting)