阿部正邦
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 万治元年4月19日(1658年5月21日) |
死没 | 正徳5年1月27日(1715年3月2日) |
改名 | 作十郎、正邦 |
戒名 | 長生院殿尋誉耀海踞岸 |
墓所 | 谷中霊園 |
官位 | 従五位下、対馬守、従四位下、備中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉→家宣→家継 |
藩 | 武蔵岩槻藩主→丹後宮津藩主→下野宇都宮藩主→備後福山藩主 |
氏族 | 阿部氏 |
父母 | 父:阿部定高、母:不詳 |
兄弟 | 六丸、正邦 |
妻 |
正室:山内豊昌の娘 継室:春日氏 側室:中村氏 |
子 | 正羽、正福、正容、榊原政倫婚約者、土井利実正室、丹羽秀延正室、昭覚院、六郷政長正室ら |
阿部 正邦(あべ まさくに)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。武蔵国岩槻藩5代藩主、丹後国宮津藩主、下野国宇都宮藩主、備後国福山藩藩主。官位は従四位下備中守。阿部家宗家5代。
生涯
[編集]岩槻藩3代藩主・阿部定高の次男として誕生した。幼名は作十郎。
父・定高は万治2年(1659年)に25歳で死去するが、嫡子である正邦はわずか2歳と幼少であったため、定高の弟(三浦)正春が家督を継いだ。しかし家中に反発もあり、寛文11年12月19日(1672年)、正春は14歳の正邦に家督を譲り、支藩の上総国大多喜藩を自ら分知して立てた。
正邦は幕府に疎んじられたらしく、10年後の天和元年(1681年)に丹後宮津藩(旧領と同じ9万9000石)へ転封され(この時点では正春は大多喜にとどまった)、それから16年後の元禄10年(1697年)には下野宇都宮藩に1000石増加の10万石で移され、さらに13年後の宝永7年(1710年)、備後福山藩(石高同じ)に転封された。福山藩への入封時には正邦は既に53歳になっていて、「至極ニ能所」であるが「只今ハ困窮いたし」と、宇都宮から遠く離れた福山への転封に困惑する心境を述べている。以後は正邦一代にとどまらず、幕末まで阿部家に転封はなく、福山藩に定着した。
正邦は福山転封の翌年、正徳元年(1711年)3月28日に福山へ入部し、「指出帳」(宝永差出帳)を全村から提出させて、領内の実情を把握した。この差出帳には、各村の石高、寺社、商品作物、鉄砲など村の概要と年貢納入の方法や、五人組などの諸制度が載せられている。同年9月には各郡奉行から村々へ、治安に関する条項を中心とした「条々」35ヵ条を公布して、領主交替時に起こる動揺を抑えようとし、正徳2年(1712年)には年貢の納め方についての請書を出させた。また、正徳3年(1713年)には村入用に関する規定を定め、節約と村政の公正を命令している。商業統制では宝永7年(1710年)に升改めを実施している。こうして、正徳3年(1713年)頃までに正邦は福山藩領内を掌握し、西国街道筋の譜代大名としての存在意義を定着化させていった。
このように正邦は、阿部家の福山藩主では藩政に比較的積極的に取り組んでいたが、転封から5年後の正徳5年(1715年)、江戸において死去した。家督は四男の正福が継いだ。諡は長生院殿尋誉耀海踞岸。墓地は西福寺(台東区浅草)、のち谷中墓地(台東区谷中)に改葬。
官位
[編集]系譜
[編集]外部リンク
[編集]- 福山城博物館
- 福山誠之館同窓会
- 備後歴史探訪倶楽部特別版「福山城」 - ウェイバックマシン(2005年4月7日アーカイブ分)