鏑木誠
生誕 |
1857年10月7日 上総国 |
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死没 | 1919年4月9日(61歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1878年 - 1918年 |
最終階級 | 海軍少将 |
鏑木 誠(かぶらぎ まこと、1857年10月7日(安政4年8月20日) - 1919年(大正8年)4月9日)は、日本の大日本帝国海軍軍人。海軍少将、従四位勲三等。
経歴
[編集]医師・鏑木玄悦の二男として1857年(安政4年)に上総国(現・千葉県)夷隅郡に生まれる。
古城村(現・千葉県旭市の一部)の歴史をまとめた『古城村史 後編』の人物史には、「誠ハ安政四年八月廿日。元悦の次男として鏑木字河岸湖に生まる。(壬申戸籍にハ三年生とあり)幼名を清之助と曰ふ。」、また慶応義塾に入学する前は「普通学を匝瑳群作新学校に学び」とあるため、千葉県旭市(当時下総国)生まれの可能性がある。
明治4年3月に慶應義塾に入学し、箕作佳吉らと勉学に励む。のち、海軍兵学校(5期)へ転ずる。兵学校卒業後、少尉候補生を経て1886年に大尉。千島回航事務取扱委員(艦長心得)に抜擢され、軍艦「千島」委員長としてイギリスに派遣される。帰朝の際、愛媛県興居島沖にて神戸を出航してきたP&O社所属の英商船ラベンナ(Ravenna)に衝突され、艦は沈没するが難を逃れる(千島艦事件)。
第四水雷艇隊(司令)として日清戦争で功を挙げる。その後軍令部第一局東京防御総督部参謀に補せられ、在イタリア公使館付武官、後にイギリス公使館付武官、転じて大佐に進む。このとき、伊東祐亨軍令部長に宛てた5月9日付電報によれば、鏑木はイギリスの潜水艇の実地検分を行い、その上で彼は、潜水艇を「山師的なもの」で実戦に使用するなど到底できない、と切り捨てている[1]。日露戦争時には駐英公使館付武官で、戦後、海軍少将に抜擢される。語学に秀でており、イギリス・フランス・イタリアとの外交でも秀でたものがあった。この時、師である福澤諭吉から勝利を祝う書簡を受け取っている[2] 。その後交詢社での戦勝祝賀会に参加。
「和泉」艦長、「鎮遠」艦長、佐世保水雷団長、呉港務部長兼呉予備艦部長、呉水雷団長、佐世保水雷団長を経て予備役。1914年(大正3年)3月1日に後備役となる[3]。1918年8月20日に退役した[4]。
栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 呉水雷団長呉水雷隊司令官 - ウェイバックマシン(2008年4月11日アーカイブ分)
- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、315-316頁 。(近代デジタルライブラリー)
外部リンク
[編集]- 海軍兵学校卒業者一覧 - ウェイバックマシン(2014年10月27日アーカイブ分)