コンテンツにスキップ

錫良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
錫良
プロフィール
出生: 1853年
死去: 1917年
出身地: 清の旗
職業: 政治家
各種表記
繁体字 錫良
簡体字 锡良
拼音 Xīliáng
注音二式 Shīliáng
和名表記: しゃくりょう
発音転記: シーリャン
テンプレートを表示

錫良(しゃくりょう、シリャン、満洲語: ᠰᡳᠯᡳᠶᠠᠩ[1]、転写:siliyang)は清末の政治家。総督などの地方官を歴任した人物で、特に西南部と東北部において、政治・軍事・産業の近代化の基盤を築き上げた。姓はバヨト氏(Bayot hala、巴岳特氏)。字は清弼モンゴル人蒙古鑲藍旗の人。

事跡

[編集]

光緒元年(1874年)、甲戌科進士となる。各地の知県・知州・知府・道員を歴任した後、光緒24年(1898年)、山西按察使となる。翌年、湖南布政使に遷る。同年9月に湖南巡撫、光緒26年(1900年)に山西巡撫、翌年に湖北巡撫(赴任せず)と歴任した。同年5月、東河河道総督に遷り、光緒28年(1902年)2月、河南巡撫となり、同年5月、熱河都統となった。

光緒29年(1903年)4月、署四川総督に昇進し、翌年に正式に四川総督に任命された。光緒33年(1907年)2月に雲貴総督に遷った。宣統元年(1909年)2月、欽差大臣に任命され、さらに東三省総督兼管三省将軍事に遷った。翌年、他省の総督・巡撫らと共に、内閣の組織、国会の開設を清朝中央に電文で要請した。宣統3年(1911年)4月、病により辞任、休養した。同年11月、再び熱河都統に任じられたが、民国元年(1912年)1月、辞任した。総督として任じられていた間に、錫良は各任地で政務に辣腕を振るい、政治・軍事・産業の近代化の基盤を築き上げ、民国以後にも影響を与えた。

民国6年(1917年)、病没。享年65。

脚注

[編集]

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典』河北人民出版社、1991年
先代
毓賢
山西巡撫
1900-1901
次代
岑春煊
先代
于蔭霖
湖北巡撫
1901
次代
端方(ドゥワンファン)
先代
任道鎔
河道総督
1901-1902
次代
(廃止)
先代
松寿(スンシェウ)
河南巡撫
1902
次代
張人駿
先代
セレンゲ(色楞額)
熱河都統
1902-1903
次代
松寿(スンシェウ)
先代
岑春煊
四川総督
1903-1907
次代
趙爾豊
先代
岑春煊
雲貴総督
1907-1909
次代
李経羲
先代
徐世昌
東三省総督
1909-1911
次代
趙爾巽
先代
溥頲
熱河都統
1911-1912
次代
-