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鈴木貫太郎内閣

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鈴木貫太郎内閣
国務大臣任命式後の記念撮影
(1945年4月7日)
内閣総理大臣 第42代 鈴木貫太郎
成立年月日 1945年昭和20年)4月7日
終了年月日 1945年(昭和20年)8月17日
与党・支持基盤 大日本政治会
挙国一致内閣
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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鈴木貫太郎内閣(すずきかんたろうないかく)は、男爵枢密院議長鈴木貫太郎が第42代内閣総理大臣に任命され、1945年昭和20年)4月7日から1945年(昭和20年)8月17日まで続いた日本の内閣

内閣の顔ぶれ・人事

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国務大臣

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1945年(昭和20年)4月7日任命[1]。在職日数133日。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 42 鈴木貫太郎 退役海軍大将
海兵14期海大将校科甲種1期
男爵
外務、
大東亜大臣兼任
初入閣
外務大臣 62 鈴木貫太郎 退役海軍大将
(海兵14期、海大将校科甲種1期)
男爵
内閣総理大臣、
大東亜大臣兼任
初入閣
1945年4月9日免兼[2]
63 東郷茂徳 貴族院
無所属
無所属倶楽部
大東亜大臣兼任 1945年4月9日任[2]
内務大臣 61 安倍源基 内務省 初入閣
大蔵大臣 47 広瀬豊作 大蔵省 初入閣
陸軍大臣 31 阿南惟幾 陸軍大将
陸士18期陸大30期
初入閣
1945年8月14日死亡欠缺[注釈 1]
- (欠員) 1945年8月14日から
海軍大臣 24 米内光政 海軍大将
海兵29期海大甲種12期
留任
司法大臣 45 松阪廣政 司法省
検事正
留任
文部大臣 57 太田耕造 貴族院
無所属
(無所属倶楽部)
初入閣
厚生大臣 11 岡田忠彦 衆議院
大日本政治会
初入閣
大東亜大臣 3 鈴木貫太郎 退役海軍大将
(海兵14期、海大将校科甲種1期)
男爵
内閣総理大臣、
外務大臣兼任
初入閣
1945年4月9日免兼
4 東郷茂徳 貴族院
無所属
(無所属倶楽部)
外務大臣兼任 1945年4月9日兼
農商大臣 4 石黒忠篤 貴族院
無所属
(無所属倶楽部)
軍需大臣 4 豊田貞次郎 予備役海軍大将
海兵33期海大甲種17期
運輸通信大臣兼任
運輸通信大臣 4 豊田貞次郎 予備役海軍大将
(海兵33期、海大甲種17期)
軍需大臣兼任 1945年4月9日免兼
- (欠員) 1945年4月11日まで
5 小日山直登 民間 初入閣
1945年4月11日任
1945年5月19日免
(運輸通信省廃止) 1945年5月19日付
運輸大臣 (運輸省未設置) 1945年5月19日設置
1 小日山直登 民間 転任
1945年5月19日任
国務大臣 - 桜井兵五郎 衆議院
大日本政治会
初入閣
国務大臣 - 左近司政三 貴族院
無所属
同和会
退役海軍中将
海兵28期海大甲種10期
国務大臣 - 下村宏 貴族院
無所属
研究会
情報局総裁 初入閣
国務大臣 - 安井藤治 予備役陸軍中将
陸士18期陸大25期
初入閣
1945年4月11日任
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

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1945年(昭和20年)4月7日任命[1]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 50 迫水久常 貴族院
無所属
(無会派)
総合計画局長官[注釈 2][3]
法制局長官 44 村瀬直養 貴族院
無所属
(研究会)
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

政務次官

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1945年(昭和20年)5月15日任命[4]

職名 氏名 出身等 備考
外務政務次官 伊東二郎丸 貴族院/無所属(研究会)/子爵
内務政務次官 窪井義道 衆議院/大日本政治会
大蔵政務次官 中村三之丞 衆議院/大日本政治会
陸軍政務次官 小山邦太郎 衆議院/大日本政治会
海軍政務次官 綾部健太郎 衆議院/大日本政治会
司法政務次官 浜野徹太郎 衆議院/大日本政治会
文部政務次官 橋本実斐 貴族院/無所属(研究会)/伯爵
厚生政務次官 三善信房 衆議院/大日本政治会
大東亜政務次官 豊田収 衆議院/大日本政治会
農商政務次官 上田孝吉 衆議院/大日本政治会
軍需政務次官 野田武夫 衆議院/大日本政治会
運輸通信政務次官 真鍋儀十 衆議院/大日本政治会 1945年5月19日免
(運輸通信省廃止) 1945年5月19日付
運輸政務次官 (運輸省未設置) 1945年5月19日設置
真鍋儀十 衆議院/大日本政治会 1945年5月19日任[5]

参与官

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1945年(昭和20年)5月15日任命。

職名 氏名 出身等 備考
外務参与官 鶴惣市 衆議院/大日本政治会
内務参与官 小泉純也 衆議院/大日本政治会
大蔵参与官 西川貞一 衆議院/大日本政治会
陸軍参与官 大岡忠綱 貴族院/無所属(研究会)/子爵
海軍参与官 神山嘉瑞 貴族院/無所属(公正会)/男爵
司法参与官 倉富鈞 貴族院/無所属(公正会)/男爵
文部参与官 伊藤五郎 衆議院/大日本政治会
厚生参与官 斉藤正身 衆議院/大日本政治会
大東亜参与官 南雲正朔 衆議院/大日本政治会
農商参与官 藤本捨助 衆議院/大日本政治会
軍需参与官 三木武夫 衆議院/大日本政治会
運輸通信参与官 羽田武嗣郎 衆議院/大日本政治会 1945年5月19日免
(運輸通信省廃止) 1945年5月19日付
運輸参与官 (運輸省未設置) 1945年5月19日設置
羽田武嗣郎 衆議院/大日本政治会 1945年5月19日任[5]

内閣の動き

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鈴木貫太郎内閣は、前の小磯内閣総辞職を受け、枢密院議長だった鈴木貫太郎組閣した内閣である。

内閣が発足した1945年(昭和20年)4月30日にはベルリンドイツ国ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが自殺し、5月8日にはドイツ軍無条件降伏した(欧州戦線における終戦)ことによって、日本は有力な同盟国を失った。国内各都市への日本本土空襲が日増しに激化する中、内閣総合企画局は『国力の現状』と題する報告書を6月6日の最高戦争指導会議に提出、産業の現状から継戦は困難という見解を示したが、徹底抗戦を求める軍部の圧力を受けて「敢闘精神を補えば本土決戦は可能」という結論となり、6月8日の御前会議において「皇土保衛」「国体護持」を目的とした「戦争指導大綱」が決定される。これを前提とした決戦体制作りに向けた法案(義勇兵役法など)審議のため、6月9日に帝国議会が開会され、わずか4日の審議でこれらの法案は可決成立した。この間、鈴木が本会議でおこなった演説の言質を議員が問題として議事が紛糾した天罰発言事件も起きている。しかし、6月23日には沖縄における組織的戦闘が終結するなど、日本の敗色は濃厚となっていった。

こうした状況下で内大臣木戸幸一海軍大臣米内光政は講和に向けて働きかけを行い、6月22日の御前会議で「ソ連を仲介とした米英との講和交渉」が決定され、7月上旬に近衛文麿元首相の特使派遣がソ連に対して打診された。その申し出に対して、すでにヤルタ会談での密約で対日参戦を決めていたソ連は、実質的な拒絶回答をおこなったが、なおも密約を知らぬ日本政府はソ連に対して仲介を求め続けていた。

7月26日イギリス首相ウィンストン・チャーチル中華民国主席蔣介石アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンの三ヶ国首脳名で発表された降伏勧告である「ポツダム宣言」に対して、これをうけた外務大臣東郷茂徳は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言したが、鈴木首相は同月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する。」とコメントし、中立国で和平協定(日ソ中立条約)を結んでいたソ連を仲介した講和に望みを託した。

しかし8月9日未明には、協定を無視しソ連軍が日本と満州国侵攻する(ソ連対日参戦)を受け和平工作の失敗が明白となった。さらに6日広島、同月9日には長崎原子爆弾が投下されて壊滅的な被害を受けた。

8月10日午前0時3分[6]から行われた御前会議での議論では、外相の東郷茂徳、海相の米内光政、枢密院議長の平沼騏一郎が、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し陸相の阿南惟幾、陸軍参謀総長の梅津美治郎、海軍軍令部総長の豊田副武は「ポツダム宣言の受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。

松花江で進軍を続けるソ連軍(8月10日)

しかし、唯一の同盟国であったドイツ政府は無条件降伏し、イギリスとアメリカ、オーストラリアカナダニュージーランドなどの連合国軍は、いまだに戦争を継続しようとする唯一の枢軸国となった日本本土に迫っており、さらに唯一の頼みの綱であった日ソ中立条約を破棄して開戦した元中立国のソ連も、先日の開戦により樺太や満州から日本本土へ迫っており、北海道上陸さえ時間の問題であった。ここで鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を希望していることを直接口にしたことにより御前会議での議論は降伏へと収束し、10日の午前3時から行われた閣議で日本のポツダム宣言受託が承認された[7]

日本国の首脳陣の中では、最終的に中立国であったソ連の参戦がポツダム宣言を受託する理由となったが、実際に昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「(対日中立国の)ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている[8]

日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、10日の午前8時に海外向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また中立国の加瀬俊一スイス公使と岡本季正スウェーデン公使より、11日に両国外務大臣に手渡され、両国より連合国に渡された。なおスウェーデンなど一部の中立国では、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、「日本が降伏した」と早とちりし、一部マスコミがこれを報道した場合があった[9]

ソ連大使館側の要請により、10日午前11時から貴族院貴賓室にて外相東郷と駐日ソ連大使ヤコフ・マリクの会談が行われた。その中で、マリク大使より正式に対日宣戦布告の通知が行われたのに対し、東郷は「日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っており、ポツダム宣言の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのか」とソ連側を強く批判した。また10日夜にはソ連軍による南樺太および千島列島への進攻、つまり沖縄に次ぐ日本固有の領土内での、市民を巻き込んだ市街戦も開始された[10]

なおポツダム宣言は日本政府により正式に受諾されたものの、この時点では日本軍や一般市民に対してもそのことは伏せられており、さらに停戦も全軍に対して行われておらず、それは「ポツダム宣言受諾=降伏ではない」ことから、完全な停戦を行っていないのはイギリスやアメリカ、ソ連などの連合国も同様であった[11]。なお実際10日にはアメリカ軍により花巻空襲が行われ、家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名の被害を出した。

11日と12日の両日においては日本、連合国の双方の首脳陣において大きな動きはなかったが、12日には皇族に対して、ポツダム宣言受諾を昭和天皇から伝えられている[12]。また12日午前0時過ぎに連合国は、日本のポツダム宣言受託決定を受けて、アメリカのジェームズ・F・バーンズ国務長官による返答、いわゆる「バーンズ回答」を行った[7]

その回答を一部和訳すると「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に『subject to』する」というものであった。外務省は「subject to」を「制限の下に置かれる」だと緩めの翻訳、解釈をしたが、12日午前中に原文を受け取った参謀本部は、これを「隷属する」と曲解して阿南陸相に伝えたため、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、またアメリカ1国だけの回答ということもあり鈴木首相も再照会について同調した。

さらに12日午後、軍令部総長の豊田は梅津陸軍参謀総長ともにポツダム宣言受諾の反対を奏上する[13]。同日米内海軍大臣は豊田と大西の2人を呼び出した。米内は豊田の行動を「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と非難し、豊田は「申し訳ない」という様子で一言も答えなかった[14]

13日午前9時から行われた軍と政府の最高戦争指導会議では、「バーンズ回答」をめぐり再度議論が紛糾した上、この日の閣議は2回行われ、2回目には宣言の即時受諾が優勢となった。しかし1日以上経っても「バーンズ回答」に対して日本政府側からの回答がなかったため、アメリカ軍とアメリカ政府では「日本の回答が遅い」、「政府と軍部で停戦の同意がなされていないのではないか」という意見が起きており、13日の夕刻には日本政府の決定を訝しむアメリカ軍が、東京に早期の申し入れと「バーンズ回答」を記したビラを散布している[15]

さらにイギリスやアメリカ、そして中立国の多くも日本政府のポツダム宣言受諾をラジオや新聞などで一般に伝えたが、日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日本国民および前線に伝えなかったために、日本政府と軍の態度を懐疑的に見たイギリス軍やアメリカ軍、ソ連軍との戦闘や爆撃は継続され、その後も千葉(下記参照)や小田原熊谷土崎などへの空襲や、南樺太および千島列島、満洲国への地上戦[10]が継続された。

御前会議(8月14日午前11時/日本標準時

14日午前11時より行われた再度の御前会議は、昭和天皇自身もその開催を待ち望んでおり、阿南陸相は「午後1時が都合がいい」と申し出していたが、昭和天皇は「なるべく早く開催せよ」と鈴木首相に命じて、午前11時開始となった[16]

御前会議では依然として阿南陸相や梅津陸軍参謀総長らが戦争継続を主張したが(この時阿南や梅津は、もし終戦になったら陸軍内で一部将兵がクーデターが起こすことを認知していた)、昭和天皇が「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と訴えたことで、阿南陸相も了承し、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承した。

終戦の詔書の国務大臣署名欄(8月14日)

これを受けて夕方には閣僚による終戦の詔勅への署名、深夜には昭和天皇による玉音放送が皇居内で録音され、録音されたレコードが放送局に搬出された。また加瀬スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた[10]

また、昭和天皇によるラジオ放送の予告は、午後9時の全国の内地および外地、占領地などのラジオ放送のニュースで初めて行われた。内容として「このたび詔書が渙発される」、「15日正午に天皇自らの放送がある」、「国民は1人残らず玉音を拝するように」、「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」などが報じられた。なお、昭和天皇がラジオで国民に向けて話すという、一般国民が天皇の肉声を聴くというのはこれが日本史上初めてのことであった。

阿南陸相は14日の御前会議の直後の午後1時に井田正孝中佐ら陸軍のクーデター首謀者と会い、御前会議での昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」[17]、「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」[18]、と諄諄と説いて聞かせた。

しかしクーデター計画の首謀者の一人であった井田中佐は納得せず「大臣の決心変更の理由をおうかがいしたい」と尋ねると、阿南陸相は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」[19]「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と説いた[20]。この期に及んでも一部の佐官から抗議の声が上がったが、阿南陸相はその者たちに対して「君等が反抗したいなら先ず阿南を斬ってからやれ、俺の目の黒い間は、一切の妄動は許さん」と大喝している[21]。なお終戦詔勅への署名の後、日本軍の上層部ならびに情報部などそれらの直属の部署には、終戦の連絡が伝わっていた。

しかし8月15日未明には、「聖断」をも無視する椎崎二郎中佐や井田正孝中佐などの狂信的な陸軍将校らにより、玉音放送の録音音源の強奪とクーデター未遂事件が皇居を舞台に発生し、森赳近衛師団長が殺害されたが、15日朝に鎮圧される(宮城事件)など、昭和天皇の元ポツダム宣言受諾をしたにもかかわらず陸軍内で争いが起きていた。また、午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。なお、クーデターか起きる中、阿南惟幾陸相は15日早朝に自殺している。また午前7時21分より全国および外地、占領地などのラジオ放送で、正午に昭和天皇自らのラジオ放送が行われる旨の2回目の事前放送が行われた[22]

正午に昭和天皇はラジオ放送玉音放送)をもって、日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、ここに全ての日本軍の戦闘行為は停止された[23]

玉音放送終了後、直ちに終戦に伴う臨時閣議が開催され、まず鈴木首相から「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句も披露した。閣僚たちは、1つだけ空いた陸軍大臣の席を見ながら、予想していたこととはいえ大きな衝撃を受けた[24]

また午後に、大本営大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、自衛のための戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令した[25]。しかし、日本の敗戦を知った厚木基地の一部将兵が16日に徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をしたが、まもなく徹底抗戦や戦争継続の主張は止んだ。他は大きな反乱は起こらず、外地や占領地を含むほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。

大任を終えた鈴木内閣は8月17日、「閣内の意見を統一できず、聖断を仰ぐに至った責任を取る」として、内閣総辞職。後継に、東久邇宮内閣東久邇宮稔彦王首相)が成立した。

脚注

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注釈

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  1. ^ 阿南が8月15日に敗戦の責任を取って自決したため、総辞職の8月17日まで陸相欠員。
  2. ^ 1945年(昭和20年)8月16日任。

出典

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  1. ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和20年4月7日
  2. ^ a b 歴代外務大臣、外務省
  3. ^ 『官報』第5583号「叙任及辞令」、昭和20年8月22日
  4. ^ 『官報』第5500号「叙任及辞令」、昭和20年5月17日
  5. ^ a b 『官報』第5505号「叙任及辞令」、昭和20年5月23日
  6. ^ 昭和天皇実録より
  7. ^ a b 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.264
  8. ^ 昭和天皇実録 iza14090905120002 2/3
  9. ^ 衣奈多喜男『最後の特派員』朝日ソノラマ 1988年7月、ISBN 978-4-257-17205-5
  10. ^ a b c 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.267
  11. ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.265
  12. ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 219 / 85%.
  13. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 471頁
  14. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 473頁
  15. ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.274
  16. ^ 新人物往来社 1995, p. 166.
  17. ^ 角田房子 1980, p. Kindle5159.
  18. ^ 半藤一利 2006, p. 66.
  19. ^ 阿部牧郎 2003, p. 461.
  20. ^ 半藤一利 2006, p. 68.
  21. ^ 伊藤正徳・5 1961, p. 284.
  22. ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.275
  23. ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 pp.277-278
  24. ^ 半藤一利 2003, p. 520.
  25. ^ 森松俊夫 1994, 大陸命第千三百八十一号-第千三百八十二号.

参考文献

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  • 鈴木貫太郎伝記編纂委員会編「鈴木貫太郎伝」鈴木貫太郎伝記編纂委員会,1960
  • 鈴木貫太郎「終戦の表情」労働文化社,1946
  • 迫水久常「機関銃下の首相官邸—2・26事件から終戦まで—」恒文社,1964/ちくま学芸文庫,2011
  • 迫水久常「大日本帝国最後の四か月」オリエント書房,1973
  • 迫水久常「降伏時の真相」『自由国民』1946年2月特集号
  • 聞き手:三國一朗 「私の昭和史5」 旺文社文庫、のち文春文庫、1987
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005。

関連項目

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外部リンク

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