賀川太郎
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名前 | ||||||
カタカナ | カガワ タロウ | |||||
ラテン文字 | KAGAWA Taro | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1922年8月9日 | |||||
出身地 | 兵庫県神戸市 | |||||
没年月日 | 1990年3月6日(67歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
神戸一中 | ||||||
神戸経済大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
田辺製薬 | ||||||
大阪サッカークラブ | ||||||
代表歴 | ||||||
1951-1954[1] | 日本 | 5 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
賀川 太郎(かがわ たろう、1922年8月9日 - 1990年3月6日)は、兵庫県神戸市出身の元サッカー選手。
来歴
[編集]神戸一中(現・県立神戸高校)、神戸経済大学(現・神戸大学)を経て、1948年に田辺製薬サッカー部に入団。全日本実業団サッカー選手権大会で6連覇を含む7回の優勝を遂げた田辺製薬の黄金期を支えた一人だった。同時期の天皇杯全日本サッカー選手権大会には大阪クラブの選手として出場し、1951年から3年連続で準優勝している。
日本代表としてもワールドカップ・スイス大会予選など、国際Aマッチ5試合に出場した[1]。
2006年に第2回日本サッカー殿堂入りした。サッカーライターの賀川浩は実弟である。
所属クラブ
[編集]経歴
[編集]- 日本代表初出場(国際Aマッチ):1951年3月7日 対イラン戦(ニューデリー)[1]
- 日本代表初出場:1951年2月11日 対全関西(日本)戦(大阪スタヂアム)
- 日本代表初得点:1951年2月18日 対全関学(日本)戦(西宮球場)
代表歴
[編集]出場大会
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 5試合 0得点(1951-1954)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1951 | 2 | 0 | 4 | 2 | 6 | 2 |
1952 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | 1 |
1953 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 |
1954 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 |
通算 | 5 | 0 | 8 | 3 | 13 | 3 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1951年03月07日 | ニューデリー | イラン | △0-0(延長) | 二宮洋一 | アジア大会 | |
2. | 1951年03月08日 | ニューデリー | イラン | ●2-3 | アジア大会 | ||
3. | 1954年03月07日 | 東京都 | 明治神宮外苑競技場 | 韓国 | ●1-5 | 竹腰重丸 | ワールドカップ予選 |
4. | 1954年03月14日 | 東京都 | 明治神宮外苑競技場 | 韓国 | △2-2 | ワールドカップ予選 | |
5. | 1954年05月01日 | マニラ | インドネシア | ●3-5 | アジア大会 |
出典
[編集]外部リンク
[編集]- 賀川太郎 - National-Football-Teams.com
- 賀川太郎 - WorldFootball.net
- 賀川サッカーライブラリー
- 日本サッカーアーカイブ