荒井良平
あらい りょうへい 荒井 良平 | |
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生年月日 | 1901年10月22日 |
没年月日 | 1980年10月22日(79歳没) |
出生地 | 日本 長野県上田市 |
死没地 | 日本 香川県小豆郡内海町(現在の同県同郡小豆島町内海地区) |
職業 | 映画監督、脚本家、俳優 |
ジャンル | 劇映画(現代劇・時代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1923年 - 1959年 |
配偶者 | あり |
著名な家族 | 荒井良雄(長男) |
主な作品 | |
『鍔鳴浪人』 |
荒井 良平(あらい りょうへい、1901年10月22日 - 1980年10月22日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。
人物・来歴
[編集]1901年(明治34年)10月22日、長野県上田市に生まれる[1][2]。
長じて東京に移ったが、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起き、焼け出されて大阪に移る[1]。当時、日活大将軍撮影所の時代劇の原作募集に応募、入選した[1]。これをきっかけに同所の池永浩久の面接を受けて、監督志望である旨を伝えたが、俳優研究生として同社に入社した[1]。記録に残るもっとも早い時期の出演作は、1926年(大正15年)2月28日に公開された楠山律監督の現代劇『愛の貴公子』における「滝川耀子の父・義人」役で、満24歳にして宮部静子の父親役を演じた[3][4][7]。1928年(昭和4年)8月、同社を退社、福井に人造絹糸の工場を開き、実業家に転身する[1]。
1929年(昭和4年)、新設された日活太秦撮影所(のちの大映京都撮影所、現存せず)に復帰、同年3月31日に公開された池田富保監督の『英傑秀吉』に出演したのを最後に、助監督に転向、池田富保、仏生寺弥作、伊藤大輔に師事した[1][3][4][7]。1933年(昭和8年)1月10日に公開された『新蔵兄弟』で映画監督としてデビューした[1][3][4][7]。『水戸黄門 来国次の巻』(1934年)、『水戸黄門 密書の巻』(1935年)、『水戸黄門 血刃の巻』(同)、『牢獄の花嫁』(1939年)、『鍔鳴浪人』(同)等のヒット作を手がけ、「ドル箱監督」としての地位を築いた[1]。1942年(昭和17年)、大日本帝国陸軍第25軍報道部に所属して、マレー半島およびスマトラ島に配置される[1]。
第二次世界大戦終結後は、1947年(昭和22年)9月には、マキノ眞三のマキノ映画で短篇教育映画『ゴムまり』を監督、1948年(昭和23年)9月28日に公開された『サザエさん 前後篇』(『サザエさん 七転八起の巻』)を監督した[3][5]。1953年(昭和28年)からは大映京都撮影所と契約した[1][3]。1959年、テレビドラマ『アチャコ武芸帖』を最後に監督を引退[8](テレビドラマデータベースでは1957年(昭和32年)に放映されたテレビ映画『甘から横丁』が、荒井の「監督引退記念作」とされる[9])。をその後は、調布の日活撮影所で端役を演じたりした[7]。晩年は、瀬戸内海の小豆島に移住した[1]。
1980年(昭和55年)10月22日、香川県小豆郡内海町(現在の同県同郡小豆島町内海地区)で死去した[2]。生没同日、満79歳没。
1997年(平成9年)11月に行われた第10回東京国際映画祭「ニッポン・シネマ・クラシック」部門で、山中貞雄とともに応援監督として参加した『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』(監督稲垣浩、1935年)が上映された。
フィルモグラフィ
[編集]特筆以外すべてクレジットは「監督」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5][10]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。
日活大将軍撮影所
[編集]すべて製作は「日活大将軍撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][7]。
- 『愛の貴公子』 : 監督楠山律、1926年2月28日公開 - 出演「滝川耀子の父・義人」役
- 『太陽に直面する男』 : 監督中山呑海、1926年4月30日公開 - 出演「神崎源太郎」役
- 『更生』 : 監督田坂具隆、1927年11月5日公開 - 出演「富豪・芦澤照徳」役
- 『意気衝天』 : 監督三枝源次郎、1928年6月8日公開 - 出演「巡査」役
- 『新日本の健児』 : 監督三枝源次郎、1928年6月22日公開 - 出演「跣のナタ」役
- 『笑はぬ良人』 : 監督三枝源次郎、1928年8月26日公開 - 出演「技師」役
日活太秦撮影所
[編集]すべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][7]。
- 『建国史 尊王攘夷』 : 監督池田富保、1927年10月1日公開 - 出演「鷹司輔熈卿」役、120分尺で現存・『尊王攘夷』題でDVD発売(日本名作劇場)
- 『維新の京洛 竜の巻 虎の巻』 : 監督池田富保、1928年9月27日公開 - 出演「二條斉敬卿」役
- 『英傑秀吉』 : 監督池田富保、1929年3月31日公開 - 出演「足軽三八」役
- 『馬子の唄』 : 監督仏生寺弥作、1930年1月31日公開 - 助監督
- 『高瀬舟』 : 監督仏生寺弥作、1930年3月28日公開 - 助監督
- 『素浪人忠弥』 : 監督伊藤大輔、1930年7月15日公開 - 助監督
- 『仇討選手』 : 監督内田吐夢、1931年12月18日公開 - 助監督、約29秒の断片のみが現存(大阪芸術大学所蔵[11])
- 『新蔵兄弟』 : 1933年1月10日公開 - 監督デビュー作
- 『伊庭八郎』 : 1933年3月8日公開
- 『龍造寺大助』 : 1933年7月1日公開
- 『武士道くづれ雁』 : 1933年10月26日公開
- 『血戦大利根嵐』 : 1934年2月15日公開
日活京都撮影所
[編集]特筆以外すべて製作は「日活京都撮影所」(太秦)、配給は「日活」、特筆以外すべてトーキーである[3][4][7]。
- 『任侠二筋道』 : サイレント映画、1934年8月23日公開 - 原作・脚本・監督
- 『水戸黄門 来国次の巻』 : サイレント映画、1934年11月1日公開 - 監督、50分尺で現存(マツダ映画社所蔵[10])
- 『水戸黄門 密書の巻』 : サウンド版、1935年1月15日公開 - 監督、1分の断片のみが現存(NFC所蔵[5]) / 49分尺で現存(マツダ映画社所蔵[10])
- 『水戸黄門 血刃の巻』 : サウンド版、1935年4月3日公開 - 監督、1分の断片のみが現存(NFC所蔵[5]) / 77分尺で現存(マツダ映画社所蔵[10])
- 『突っかけ侍』 : 1935年8月25日公開
- 『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』 : 監督稲垣浩、1935年11月15日公開 - 応援監督(山中貞雄と共同)、77分尺で現存(NFC所蔵[5])
- 『江戸の春遠山桜』(『江戸の春 遠山櫻』[7]) : 1936年1月23日公開
- 『勘太郎月の唄』 : 1936年5月21日公開
- 『東の伊達男』 : 1936年11月5日公開
- 『浮世三味線 第一絃』 : 1937年4月公開
- 『白浪五人男』 : 1938年1月7日公開
- 『右門捕物帖 血染の手形』 : 1938年4月28日公開
- 『業平の千太郎』 : 1938年8月18日公開
- 『右門捕物帖 拾万両秘聞』 : 1939年1月5日公開
- 『牢獄の花嫁』 : 1939年8月17日公開 - 監督、95分尺で現存(マツダ映画社所蔵[10]) / 96分尺で現存(日本名作劇場DVD発売)
- 『牢獄の花嫁 解決篇』(『牢獄の花嫁 後篇』[7]) : 1939年9月28日公開 - 監督、『牢獄の花嫁 解決篇』題で10分の断片のみが現存(NFC所蔵[5])
- 『鍔鳴浪人 前篇』 : 1939年12月30日公開 - 監督、52分尺の『鍔鳴浪人』題で現存(NFC所蔵[5])
- 『鍔鳴浪人 後篇』 : 1940年1月6日公開 - 監督、70分尺の『續 鍔鳴浪人』題で現存(NFC所蔵[5])
- 『風雲将棋谷 前篇』 : 1940年8月15日公開
- 『風雲将棋谷 完結篇』(『風雲将棋谷 解決篇』[7]) : 1940年9月12日公開
- 『神変麝香猫 第一篇 地獄の門』 : 1940年12月30日公開
- 『神変麝香猫 解決篇』 : 1941年3月15日公開
- 『柳生月影抄』 : 1941年6月1日公開 - 監督、86分尺の再公開版が現存(NFC所蔵[5])
- 『南方発展史 海の豪族』 : 製作日活京都撮影所・台湾総督府、1942年10月8日公開
フリーランス
[編集]- 『ゴムまり』 : 製作マキノ映画、短篇教育映画、1947年9月完成 - 監督、15分尺の16mmフィルムが現存(NFC所蔵[5])
- 『サザエさん 前後篇』 : 製作マキノ映画、配給松竹、1948年9月28日公開 - 監督、50分尺の『サザエさん 七転八起の巻』の題で現存(NFC所蔵[5])
- 『ササエさん のど自慢歌合戦』 : 製作東洋スタジオ、配給大映、1950年7月29日公開
- 『エノケンの豪傑一代男』 : 製作エノケンプロダクション(榎本健一)、配給新東宝、1950年10月15日公開 - 監督、81分尺で現存(ジュネス企画DVD発売)
- 『西鶴一代女』 : 監督溝口健二、製作児井プロダクション・新東宝、配給新東宝、1952年4月17日公開 - 監督補佐、136分尺で現存(NFC所蔵[5])
- 『右門捕物帖 謎の血文字』 : 製作・配給新東宝、1952年5月22日公開
大映京都撮影所
[編集]特筆以外すべて製作は「大映京都撮影所」、配給は「大映」である[3][4]
- 『地獄太鼓』 : 1953年4月8日公開
- 『怪談佐賀屋敷』 : 1953年9月3日公開 - 監督、94分尺で現存(ハピネット・ピクチャーズDVD発売)
- 『怪猫有馬御殿』 : 1953年12月29日公開 - 監督、49分尺で現存(ハピネット・ピクチャーズDVD発売)
- 『妻恋黒田節』 : 1954年2月17日公開
- 『投げ唄左門一番手柄 死美人屋敷』 : 1954年5月23日公開
- 『投げ唄左門二番手柄 釣天井の佝僂男』 : 1954年7月28日公開
- 『赤穂義士』 : 1954年9月15日公開
- 『地獄谷の花嫁』 : 1955年1月22日公開
- 『天下を狙う美少年』 : 1955年4月8日公開
- 『悪太郎売出す』 : 1955年10月19日公開
- 『酔いどれ牡丹 前篇・地獄の使者 後篇・深夜の美女』 : 製作京都映画、配給松竹、1956年12月12日公開
- 『甘から横丁』 : 詳細不明、テレビ映画、1957年放映 - 監督引退記念作
- 『黄金奉行』 : 監督山田達雄、製作・配給新東宝、1958年6月29日公開 - 脚本(山田達雄と共同)
- 『愛は空の果てへ』 : 監督野口博志、製作・配給日活、1959年2月17日公開 - 出演「乾分C」役[7]
- 『アチャコ武芸帖』 : 製作MBS・吉本興業、1959年11月14日〜1960年2月6日放映[12]
- 『銀座旋風児 黒幕は誰だ』 : 監督野口博志、製作・配給日活、1959年12月7日公開 - 出演「黒川の乾分F」役[6]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l キネマ旬報社[1976], p.16.
- ^ a b c 荒井良平、jlogos.com, エア、2013年1月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 荒井良平、日本映画データベース、2013年1月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 荒井良平、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 荒井良平、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月21日閲覧。
- ^ a b 荒井良平、KINENOTE、2013年1月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 荒井良平、日活データベース、日活、2013年1月21日閲覧。
- ^ 『やくざ監督東京進出』p346〜348、西原儀一著・円尾敏郎編、ワイズ出版、2002年 荒井とともに『アチャコ武芸帖』の演出を担当した西原儀一は、出演した雲井三郎と演技に関して揉めた事等で、自信をなくしたのではないかと証言している。
- ^ 甘から横丁、テレビドラマデータベース、2013年1月21日閲覧。
- ^ a b c d e 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇、マツダ映画社、2013年1月21日閲覧。
- ^ 玩具映画プロジェクト 時代劇、大阪芸術大学、2013年1月21日閲覧。
- ^ アチャコ武芸帖、テレビドラマデータベース、2013年4月14日閲覧。
参考文献
[編集]- 『日本映画監督全集』、キネマ旬報第698号、キネマ旬報社、1976年
- 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133