芳賀一晶
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芳賀 一晶(はが いっしょう、生年不詳 - 1707年(宝永4年)4月)は、江戸時代前期の俳人[1][2]、画家である[2]。名は治貞[2][3]、通称は順益(玄益とも[2])[1][3]。別号に崑山翁[2][3]、冥霊堂等がある[1][2]。
経歴・人物
[編集]京都に生まれ[1][2]、後に伊藤信徳や鶏冠井令徳[2][3]、三井秋風らから俳諧を学ぶ[2][3]。一晶の作風はその時代の流行を取り入れたものであり[2]、延宝から元禄時代に活動が顕著であった[2]。一晶は1万3500句程度の矢数俳諧によって一躍有名となり[3]、西山宗因が総帥だった談林俳諧の点者に認められる[3]。
1683年(天和3年)には江戸に入り[3]、松尾芭蕉や蕉門と親交を持ち彼らと共に活動した[2]。移住後は俳人としての活動以外にも師の令徳旧蔵の「崑山」印や菱川師宣の作風をよくし[1][2]、井原西鶴の自画像作成にあたる等画家としても活動し[2][3]、後に医師としても活動したとされている[3]。
主な著作物
[編集]主著
[編集]- 『丁卯文集』
- 『千句前集』
その他の著書
[編集]- 『四衆懸隔』
- 『蔓付贅』
- 『如何』
- 『八衆懸隔』
- 『千句後集』
- 『万水入海』
- 『一塵重山』