コンテンツにスキップ

紫式部日記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
紫式部日記絵巻五島美術館蔵、国宝[1]

紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)は、紫式部によって記された日記とされる。藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。

写本宮内庁書陵部蔵の黒川本が最もよいとされているが一部記載については他の写本がすぐれているとも。写本の表紙の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。

全2巻であり1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容である。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫式部日記』にでてくる記述に基づいている。

鎌倉時代初期の13世紀前半ころに、紫式部日記のほぼ全文を絵画化した「紫式部日記絵巻」が制作された。

来歴

[編集]
寛弘5年(1008年)11月1日に土御門殿で催された敦成親王(後の後一条天皇)誕生後の「五十日の祝い」の宴席場面。左衛門督藤原公任(画面右、室内を眺めやる人物)が「あなかしこ、此のわたりにわかむらさきやさふらふ(恐れ入りますが、この辺りに若紫は居られませんか)」と酔態で戯れに尋ねる。『紫式部日記絵巻』より(五島美術館蔵)

古写本には表題を「紫日記」とするものが多く、室町時代の源氏物語の注釈書「河海抄」には、「紫記」・「紫式部が日記」・「紫日記」・「紫式部仮名記」といったさまざまな名称で現存する紫式部日記に含まれる文章が引用されている。

1010年寛弘7年)に完成されたとするのが通説である。13世紀(鎌倉時代)には『紫式部日記絵巻』という紙本着色の絵巻物が著された。作者は不詳である。なお、『栄花物語』と一部文章が全く同じであり、同物語のあとがきには日記から筆写した旨記されている。

中世の源氏物語研究の中では取り上げられることがほとんど無かったが、江戸時代安藤為章紫家七論で取り上げて以降、源氏物語の成立事情を考えるための第一資料とされるようになっている。

本書の1008年(寛弘5年)11月1日の記述が源氏物語が歴史上はじめて記録されたものであることを根拠として丁度千年後の2008年(平成20年)が源氏物語千年紀に、また11月1日古典の日に定められた[2]

構成

[編集]

前半部および末尾は、できごとの日記体記述である。その間に「消息文」と呼ばれる、紫式部の意見を述べた書簡体の部分がはさまれている。この両部分の対照がこの日記の特徴である。筆写される経過で、本来の日記の中に書簡がまぎれこんだのではないかという説もある。

日記体部分

[編集]
寛弘5年7月[注 1] 出産のため、中宮彰子が父藤原道長の土御門邸へ里帰り。
寛弘5年8月 懐妊10ヶ月に入る。公卿たちが宿直。
寛弘5年9月 めでたく敦成親王(後一条天皇)を出産。
寛弘5年10月 一条天皇が面会に土御門邸へ行幸。
寛弘5年11月 誕生五十日の祝宴。中宮彰子は内裏へ還る。
寛弘5年12月 紫式部も内裏に戻る。初出仕の頃の回想。
寛弘6年1月 元旦は坎日(かんにち)の凶日で、若宮の戴餅の儀は延期。

消息文

[編集]

日記体部分

[編集]
時期不明記事 (萩谷[3]などによれば寛弘5年5-6月[注 2])道長との和歌贈答。
寛弘7年1月 敦成・敦良(後朱雀天皇)両親王の戴餅の儀。

内容

[編集]

中宮彰子の出産が迫った1008年寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、史料的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。また、彰子の実父である藤原道長や、同母弟である藤原頼通藤原教通などの公卿についての消息も多く含む。

よく話題にされる部分では、和泉式部に対しては先輩として後輩の才能を評価しつつもその情事の奔放さに苦言を呈したり、先輩に当たる赤染衛門には後輩として尊敬の意を見せている。特に清少納言への評では「清少納言と言うのはとても偉そうに威張っている人である。さも頭が良いかのように装って漢字を書きまくっているけれども、その中身を見れば至らぬところが多い。他人より優れているように振舞いたがる人間は後々見劣りするであろう。(中略)そういう人間の行末が果たして良いものであろうか」とあって、実際に後の「古事談」に似た話(清少納言の住居が零落したさまになり、侮りを口にした通行人に瞬時に故事を持ち出して反撃した話)が記されている。

そして、清少納言の「枕草子」には人々のふるまいへの批判的な感想も多く、紫式部の亡くなった夫が人に批判されることもあって、恨まれていたと解釈されている。

本文の一部

[編集]
寛弘5年11月、『源氏物語』の清書編集をしていた頃[注 3]の記述
見所もなきふるさとの木立を見るにも、ものむつかしう思ひ乱れて。年ごろ、つれづれにながめ明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋に行き交ふ空のけしき、月の影、霜、雪を見て、「その時来にけり」とばかり思ひ分きつつ、いかにやいかにやとばかり、行く末の心細さはやる方なきものから、はかなき物語などにつけて、うち語らふ人、同じ心なるは、あはれに書き交はし...

見所もない実家の庭の木立ちを見るにつけても、なんとも気がふさぎ込んで思い乱れて、[注 4]長年所在ないままに物思いしながら日を明かし暮らしながら、花の色や鳥の音を見たり聞いたりするにつけても、季節の移り変わる空の様子や、月の光、霜、雪を見ても、ただその時節が来たのだなあと意識する程度で、わが身はいったいどうなるのだろうかと思うばかりで、行く末の心細さはどうしようもないものの、一方でとりとめもないわたしの源氏物語などについて、話を交わす人の中で、気持ちの通じ合う人とは、しみじみと手紙を書き交わし...(渋谷栄一[6]

消息文から。「日本紀の御局」と呼ばれた話
左衛門の内侍といふ人はべり。あやしうすずろによからず思ひけるも、え知りはべらぬ、心憂きしりう言の、多う聞こえはべりし。
内裏の上の、源氏の物語、人に読ませ給ひつつ、聞こし召しけるに、「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。真に才あるべし」と宣はせけるを、ふと推し量りに、「いみじうなむ才がる」と、殿上人などに言ひ散らして、「日本紀の御局」とぞつけたりける。いとをかしくぞはべる。この古里の女の前にてだに慎みはべるものを、さる所にて才賢し出ではべらむよ。

左衛門の内侍という人がいます。妙にわけもなくわたしのことを良くなく思っていたのを、知らないでいましたところ、嫌な陰口がたくさん聞こえてきました。

内裏の主上様が源氏物語を人にお読ませになりながらお聞きになっていた時に、「この人は、きっと日本紀を読んでいるに違いない。本当に学識があるようだ。」と、仰せになったのを、ふと当て推量に、「たいそう学識を鼻にかけている。」と殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」と渾名をつけたのだったが、とても滑稽なことです。わたしの実家の侍女の前でさえ包み隠していますのに、そのような宮中などでどうして学識をひけらかすことをしましょうか。(渋谷栄一訳)

消息文の結び
かく世の人言の上を思ひ思ひ、果てに閉じめはべれば、身を思ひ捨てぬ心の、さも深うはべるべきかな。何せむとにかはべらむ。

このように世間の人の口の端を心配しいしい、最後に書き結んでみますと、わが身を思い捨てられない気持ちが、こんなにも深くあるものなのですね。我ながら一体どうしたらよいというのでしょうか。 (中野幸一訳[7]

本文

[編集]

いくつかの校訂書が出版されている。

  • 『紫式部日記』 池田亀鑑秋山虔岩波文庫、1964年1月、ISBN 978-4003001578
  • 『紫式部日記全注釈』上・下、萩谷朴角川書店、1971-1973年(日本古典評釈全注釈叢書)ISBN 978-4047610200
  • 『紫式部日記』上・下、宮崎荘平講談社学術文庫、2002年7月-8月、ISBN 978-4061595538&ISBN 978-4061595545
    • 『新版 紫式部日記 全訳注』講談社学術文庫、2023年6月、ISBN 9784065294703
  • 『紫式部日記』 小谷野純一、笠間書院〈笠間文庫 原文&現代語訳シリーズ〉、2007年4月、ISBN 978-4-305-70420-7
  • 新編 日本古典文学全集26 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐典侍日記』 藤岡忠美・中野幸一・犬養廉・石井文夫、小学館、1994年8月、ISBN 4096580260
  • 新日本古典文学大系 土佐日記 蜻蛉日記 紫式部日記 更級日記』 長谷川政春・今西祐一郎・伊藤博・吉岡曠、岩波書店、1989年11月、ISBN 4-00-240024-7
  • 『紫式部日記 現代語訳付き』 山本淳子訳注、角川ソフィア文庫、2010年8月、ISBN 978-4044001063

翻訳

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 7月とはこの日記自体の記述でなく、道長の『御堂関白記』や藤原行成の『権記』による。
  2. ^ 寛弘5年の記事とすれば、なぜこの部に収録されたのか、多くの説がある。萩谷によれば、道長の求愛という忘れがたい思い出を、目立たぬようにすべりこませたのではと指摘する。
  3. ^ この時どこまで源氏物語が完成されていたか。最低「若菜」の前までは書かれていた[4]、または「幻」までは書かれていた[5]という推定が多い。
  4. ^ 萩谷や中野の訳ではここに「夫の死後」を補う。

出典

[編集]
  1. ^ e国宝 - 紫式部日記絵巻断簡”. emuseum.nich.go.jp. 2023年8月29日閲覧。
  2. ^ 第13回 紫式部日記”. 京都新聞 (2018年10月25日). 2021年1月10日閲覧。
  3. ^ 萩谷朴『紫式部日記全注釈』(角川書店、1973年)
  4. ^ 白方勝『紫式部日記臆説』(風間書房、1986年)
  5. ^ 鬼束隆昭「『紫式部日記』と源氏物語」(石原昭平ほか編『女流日記文学講座第3巻 和泉式部日記 紫式部日記』勉誠社、1991年)
  6. ^ 渋谷栄一 源氏物語の世界
  7. ^ 中野幸一『正訳紫式部日記』(勉誠出版、2018年)

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]