神田多町
神田多町 | |
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北緯35度41分39.36秒 東経139度46分8.44秒 / 北緯35.6942667度 東経139.7690111度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 千代田区 |
地域 | 神田地域 |
人口 | |
• 合計 | 859人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
101-0046[2] |
市外局番 | 03[3] |
ナンバープレート | 品川 |
神田多町(かんだたちょう)は、東京都千代田区の地名。現行行政地名としては、神田多町二丁目のみが存在する。住居表示未実施地域。郵便番号は101-0046[2]。
地理
[編集]千代田区の北部に位置し、町域東部は神田須田町と神田鍛冶町に、西部は神田司町に、南部は神田警察通りを境に内神田に、北部は神田須田町と接している。かつては一丁目も存在したが、1966年に住居表示が行われ、一丁目は内神田三丁目の一部となった。
町内中央を南北に多町大通りが、また東西に一八通りが通っている。商業地域で、オフィスビルや商店などが多く見られるほか、近年ではマンションも多くなってきている。
歴史
[編集]1606年(慶長11年)に起立した古町である。慶長年間に名主の河津五郎太夫が二丁目に菜市を開き、明暦の大火後規模を拡大し、御用市場となって発展した。近代に入っても神田青物市場として繁栄を続けたが、関東大震災で壊滅し、1928年(昭和3年)秋葉原に移転、3世紀余りの歴史を終えた。
1911年(明治44年)神田の冠称を外す。1933年(昭和8年)の区画整理により、竪大工町と新石町の一部を併せて新しく多町一丁目とし、元の多町町域を多町二丁目とした。1947年(昭和22年)神田区が千代田区に合併すると同時に冠称を復した。1966年(昭和41年)の住居表示により一丁目は内神田となったが、住民の反対運動により二丁目は未実施である。
地名の由来
[編集]もと田地だったことに由来する。当初田町と書かれ、市の繁栄に伴い字を改めたというが、改名の年代は不明である。メッタ町の俗称もあった。
世帯数と人口
[編集]2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
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神田多町二丁目 | 607世帯 | 859人 |
小・中学校の学区
[編集]区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[4]。なお、千代田区の中学校では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能[5]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
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神田多町二丁目 | 全域 | 千代田区立千代田小学校 | 千代田区立麹町中学校 千代田区立神田一橋中学校 |
交通
[編集]町域内に鉄道駅はないが、北西部方面では地下鉄丸ノ内線・淡路町駅や、都営新宿線・小川町駅、千代田線・新御茶ノ水駅が、南東部方面では神田駅がそれぞれ至近であり、また徒歩圏内に秋葉原駅や御茶ノ水駅があるなど、交通の便は良い。
施設
[編集]出身・ゆかりのある人物・小説
[編集]- 阿部定(芸者、情痴殺人者、阿部定事件の犯人)
- 「神田滅多町の女」飯島耕一 1996「『虚栗』の時代」1998所収
- *好色一代男西鶴 (刊三 木綿布子も仮の世「江戸滅多町にてしのびちぎりをこめし清林がつれし米かみ」)
脚注
[編集]- ^ a b “町丁別世帯数および人口(住民基本台帳)”. 千代田区 (2017年12月6日). 2018年1月2日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月2日閲覧。
- ^ “区立小学校の通学区域”. 千代田区 (2017年8月17日). 2018年1月2日閲覧。
- ^ “区立中学校の通学区域と学校選択”. 千代田区 (2017年10月26日). 2018年1月2日閲覧。