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石川大浪

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石川 大浪(いしかわ たいろう、宝暦12年〈1762年[1] - 文化14年12月23日1818年1月29日〉)は、江戸時代後期の洋風画家。弟の石川孟高も洋風画家。

名を乗加のりまさ、通称は甲吉、のち七左衛門。字は啓行、大浪は号で、別号に董松軒、董窓軒。大浪の号は、喜望峰のそびえるテーブルマウンテンの中国名「大浪山」に由来し、作品の多くにそのオランダ名「Tafel berg」とサインする。

伝記

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杉田玄白像、1811年(文化8年)

400俵取りの旗本出身。明和8年(1771年)9歳で父の跡を継ぎ、高力式部支配に入る。天明4年(1784年)将軍徳川家治に御目見え、同6年(1786年本所が出水した際、自宅が床上浸水したため40両を拝借している。天明8年(1786年)27歳で大番(白須甲斐守組、11番所属)となり、亡くなるまで同職を勤めた。

絵は狩野派から始めたが、山村才助との深い交流を通じて積極的に西洋の情報を吸収し、大量で良質な西洋銅版画を模写することで技術的に習熟していった。大浪は蘭書の挿絵を参照しただけでなく、それが内包する海外情報や図像の意味を理解した上で模写しており、単なる挿絵画家ではなく深い教養と好奇心の持ち主だった。『大画法書』など当時希少だった蘭書も多く所持し、大槻玄沢木村蒹葭堂と対等の人間関係を結んでいる。晩年、山村才助の死後は、古物・古書画の鑑賞・鑑定に傾倒し、同じ趣味をもつ松平定信大田南畝らと交わった。一方で杉田玄白と親密だったらしく、その肖像画を描き大浪晩年の代表作と言える。

油絵の遺作はなく、水墨画か淡彩画による洋風画や、龍虎図や羅漢図のような東洋の伝統的な画題など、画域は幅広い。また、大槻玄沢著『蘭畹摘要』や杉田立卿(杉田玄白の子)著『眼科新書』などの挿絵も担当している。大浪は司馬江漢のように油彩画や銅版画を残していないにもかかわらず、谷文晁は大浪を「泰西画法」の師と仰いでいるが、それは当時活躍したどの絵師よりも大浪が西洋の画法を正しく実践できる技術を持っている、と文晁が認めていたからだろう。

大浪の蔵書、ニューホフ著『東西海陸紀行』やフランス語版『イソップ物語』は、後に一部が歌川国芳の手に渡り、国芳はその洋風表現を自身の作品に取り入れている。

代表作

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作品名 技法 形状・員数 所有者 年代 款記・印章
ファン・ロイエン筆 花鳥図模写 紙本著色 1幅 秋田県立近代美術館 1796年(寛政8年)
備考
孟高との合作。 大槻玄沢賛。秋田県指定有形文化財(絵画)。8代将軍徳川吉宗の依頼で享保11年(1726年オランダから舶載され、のちに江戸本所の五百羅漢寺に下賜された「W.Van Royen 1725」のサインがある花鳥画の模写。同じ図を谷文晁も模写している(神戸市立博物館蔵、画像)が、両方を比較すると、大浪・孟高の方は西洋画法を学び取ろうと画面左にある光源を意識し、モチーフの立体感を意識しながら陰影や遠近感を写し取っているのに対し、文晁は図様を正確に写すことに重点を置き、水滴がただのシミのようになったり細部が曖昧になる傾向があることから、文晁画はファン・ロイエン画を直接模写したのではなく、大浪・孟高画を写した重模本だと考えられる。
乱入図 絹本著色 1幅 平野政吉美術館 1800年(寛政12年)か?
靴の濃い青色には、蒹葭堂から貰ったプルシアンブルーが使われている。
紅毛婦人図 絹本墨画淡彩 1幅 神戸市立博物館 1801年(享和元年)か? 款記「Tafel Berg」
木村蒹葭堂旧蔵。
杉田玄白像 絹本著色 1幅 早稲田大学図書館 1811年(文化8年)
杉田玄白自賛(文化9年〈1812年〉元旦)。重要文化財「大槻玄沢関係資料」の一部。

ギャラリー

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脚注

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  1. ^ 『赤沼掃墓叢書』(森銑三「洋画家石川大浪」『森銑三著作集』第三巻、中央公論社、1971年)より。『諸家系譜』や『寛政重修諸家譜』では明和2年11月8日1765年12月20日)と記され定説とされたが、これらの史料は虚偽の申告がなされる場合があることや、宝暦13年生まれの弟・孟高より後になってしまう点から、宝暦12年(1762年)のほうが正しいと考えられる(勝盛、93頁)。

参考資料

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