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石坂専之介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石坂 専之助(專之助、いしさか[1] / いしざか[2] せんのすけ、1849年9月14日(嘉永2年7月28日[1])- 1915年大正4年)10月6日[1][2][3])は、明治期の教育者、公吏、政治家衆議院議員、富山県会議長。旧姓・嵯峨。

経歴

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越中国新川郡東岩瀬村[1]石川県新川郡東岩瀬村、富山県[2]上新川郡東岩瀬町を経て現富山市[1])の伝馬問屋・嵯峨健寿の三男として[1]、金沢十三間町(現金沢市[3])で生まれた[1]。その後、新川郡栗山村(中新川郡早月加積村栗山[1]、滑川町を経て現滑川市 [1])の石坂太郎左衛門の養子となる[1]

1869年(明治2年)大学南校に入学[1][2][3]。卒業後、大学少助教、慶應義塾教授、文部省出仕、同人社教授を歴任したが[1][2][3]、1877年(明治10年)病のため帰郷した[1]

1879年(明治12年)栗山村外5カ村公選戸長に就任し[1]、その後、江沼郡書記となる[2][3]。1881年(明治14年)石川県会議員に選出[1][2]。その後、富山県庁農商課長となる[1]。1889年(明治22年)退官し、中越大同倶楽部の幹事に就任[1]。1890年(明治23年)富山県会議員に選出され、同議長を務めた[1][2][3]

磯部四郎の辞職に伴い、1890年(明治23年)11月に実施された第1回衆議院議員総選挙富山県第1区補欠選挙で当選し[1][4]、衆議院議員に1期在任した[2][3]

その後、富山県上新川郡、礪波郡射水郡の各郡長を務めた[1][2][3]

親族

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  • 父 嵯峨健壽 東岩瀬大村屋 金沢に移り藩医黒川良安に従事し医業を成す
  • 嵯峨寿安(日本人初シベリア横断者)[1]
  • 弟 嵯峨正作 東岩瀬大村屋

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『富山大百科事典 上巻』88頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』136頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』44頁。
  4. ^ 『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』231頁。
  5. ^ a b 『人事興信録 第8版』イ137頁。

参考文献

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  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『富山大百科事典 上巻』北日本新聞社、1994年。