畢懋康
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畢 懋康(ひつ ぼうこう、1571年 - 1644年)は、明代の官僚・画家・軍事技術者。字は孟侯、号は東郊。本貫は徽州府歙県。
生涯
[編集]1598年(万暦26年)、進士に及第した。中書舎人に任じられ、御史に抜擢され、長蘆を監察した。清河の治水工事を勧める上奏をおこなって、万暦帝に聞き入れられた。1610年(万暦38年)、陝西巡按御史となり、辺政十事を上疏して、副総兵の王学書ら7人を弾劾して罷免させた。宗学を郡県の学制に準じて建てるよう請願して、許可された。1617年(万暦45年)、山東巡按御史に転じた。1618年(万暦46年)、順天府丞に抜擢された。1621年(天啓元年)、母の喪に服すために官職を退いた。1624年(天啓4年)2月、右僉都御史として再び起用され、鄖陽巡撫をつとめた。
懋康は趙南星の推挙により任用されていたことから、魏忠賢に憎まれ、1625年(天啓5年)6月に御史の王際逵に弾劾されて官爵を剥奪された。1628年(崇禎元年)、懋康は南京通政使として再起した。1634年(崇禎7年)、北京に召還されて兵部右侍郎に任じられたが、まもなく罷免された。武剛車や神飛炮などの兵器を作成し、『軍器図説』を編纂して崇禎帝に進上した。1639年(崇禎12年)、南京戸部右侍郎としてまた起用され、食糧備蓄を監督した。1640年(崇禎13年)、病のため致仕し、帰郷した。1644年(崇禎17年)2月22日、家で死去した。享年は74。
懋康は兄の畢懋良(字は師皐)とともに名声があり、「二畢」と称された。著書に『西清集』・『管涔集』・『孟侯疏草』があったが、いずれも散逸し、『軍器図説』と『明創置順天府学田記』が今に伝わっている。