焚書
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焚書(ふんしょ、英: Book burning)は、学問・思想弾圧の手段として書物を焼却する行為[1]。言論統制、検閲、禁書などの一種でもあり、特定の思想、学問、宗教等を排斥する場合、逆に特定の思想等以外を全て排斥する場合がある。現代では書物の他、レコード、写真、磁気テープ、ディスクメディアなどの情報格納メディアも対象に含まれる場合がある[要出典]。
歴史的に著名な例には秦の焚書坑儒や、ナチス・ドイツの焚書などがある。
主な焚書
[編集]始皇帝の焚書
[編集]秦の始皇帝は、紀元前213年に李斯の提案にしたがって、焚書を行った。提案の内容は、次の通りであった[2]。
- 秦以外の諸国の歴史書を焼却する。
- 詩経、書経及び諸子百家の書は、博士官(中国語: 博士 (官職))のみがこれを所有する。
- 民間人は、医学・占い・農業以外の書物を博士官に渡し、博士官はそれを焼却する。
- 30日以内に博士官に渡さなかった場合、入墨の刑に処する。
- 法律は、官吏がこれを教える(民間の独自解釈による教育を禁じると言うこと)。
始皇帝の焚書により、様々な書物の原典が失われた。しかし、壁の中に書物を隠す[注 1]などして書物を守った人もおり、それが、秦の滅亡後再発見され、研究に役立った。また、儒教の書物が狙われたと考えられがち[誰によって?]であるが、他の諸子百家の書物も燃やされた[要出典]。
ナチス・ドイツの焚書
[編集]ナチス・ドイツの行った焚書では、カール・マルクスなどの社会主義的な書物や、ハインリヒ・ハイネ、エーリッヒ・ケストナー、ハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、エーリヒ・マリア・レマルク、クルト・トゥホルスキー、カール・フォン・オシエツキーなどの、「非ドイツ」的とみなされた多くの著作が燃やされた。
また売れない画家としての前歴を持つアドルフ・ヒトラーは、それまでの芸術の規範を飛び越えた近代的な芸術を退廃芸術として弾圧し、それに代わって肉体美や農村などを美化した「古き良き」芸術を大ドイツ芸術展を開いて称揚した[要出典]。
創作における焚書
[編集]- 華氏451度
レイ・ブラッドベリ著。本の所持、読書が禁じられた世界を描いたディストピア小説。華氏451度は、本が自然発火する温度。書物の所有が発覚した場合、それらは直ちに昇火士(焚書官、ファイアマン)の手によって焼却される。
脚注
[編集]出典
[編集]注釈
[編集]- ^ 当時は、紙が発明されていなかったので、もっぱら木簡や竹簡に文章が書かれていた。そのため、壁に埋めて、上から塗りこめても書物が劣化する可能性は低かった。
関連項目
[編集]- 焚書
- エレミヤ書 - 第36章23節に、王が巻物を燃やす様子の記述がある。
- 焚書坑儒
- ナチス・ドイツの焚書
- 国際クルアーン焼却日
- 虚栄の焼却
外部リンク
[編集]- Dokumentation der Bücherverbrennung 1933 in der Universitätsstadt Göttingen
- GHQ焚書・50音別 - 戦後GHQによって焚書された7769書のうちオンラインで読めるもの