涼風 (駆逐艦)
艦歴 | |
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発注 | ②計画 |
起工 | 1935年7月9日 |
進水 | 1937年3月11日 |
就役 | 1937年8月31日 |
その後 | 1944年1月25日戦没 |
除籍 | 1944年3月10日 |
要目(計画時) | |
排水量 | 基準:1,685トン |
全長 | 111m |
全幅 | 9.9m |
吃水 | 3.5m |
主缶 | ロ号艦本式缶3基 |
主機 | 艦本式オール・ギアードタービン2基2軸 42,000hp |
速力 | 34ノット |
航続距離 | 18ktで4,000浬 |
乗員 | 226名 |
兵装 | 50口径12.7cm連装砲 2基4門 50口径12.7cm単装砲 1基1門 13mm連装機銃 2基[1] 61cm4連装魚雷発射管 2基8門 (魚雷16本) 爆雷投射機2基 爆雷×16 |
涼風(すずかぜ)は、日本海軍の駆逐艦[2]。白露型の10番艦(海風型4番艦)である[3]。第二次軍備補充計画(②計画)では海風型(改白露型)を14隻建造の予定であったが、軍縮条約脱退もあり「涼風」で建造を打ち切り、残りは設計を改め朝潮型として完成した。
艦歴
[編集]太平洋戦争以前
[編集]1935年(昭和10年)6月20日、日本海軍は浦賀船渠で建造予定の駆逐艦を「涼風」、三井造船の鴻型水雷艇を「雉」、浅野造船所の駆潜艇を「第三号駆潜艇」と命名した[2][4]。同日附で2隻(涼風、雉)は艦艇類別等級表に登録される[5]。 同年7月9日、「涼風」は浦賀船渠で起工[6][7]。 当時の浦賀船渠では白露型2番艦「時雨」が竣工に向け艤装中(同年5月18日進水)[8]。白露型6番艦「五月雨」が涼風起工3日前の7月6日に進水[9][10]。白露型8番艦「山風」が同年5月25日に起工していた[11]。
1937年(昭和12年)3月11日に進水[6][12]。5月1日、日本海軍は井上良雄少佐(吹雪型駆逐艦「響」艦長)を涼風艤装員長に任命する(後任の響艦長は駆逐艦雷艦長竹内虎四郎少佐)[13]。5月3日、浦賀船渠に涼風艤装員事務所を設置し、事務を開始する[14]。 同年6月30日、浦賀船渠で「山風」が竣工[11]。「山風」より約2ヶ月遅れて、「涼風」は8月31日に竣工した[6]。主要幹部は、井上良雄少佐(駆逐艦長)、浅井秋生大尉(砲術長)、藤田淳大尉(水雷長)、西村定男大尉(航海長)、斎藤孝吉機関大尉(機関長)[15]。同日附で艤装員事務所を撤去する[16]。
竣工と同時の8月31日附で姉妹艦3隻(海風、山風、江風)の第24駆逐隊(5月31日附で編制。駆逐隊司令久宗米次郎大佐)に編入[17][18]。定数4隻(海風、山風、江風、涼風)を揃えた第24駆逐隊は第二次上海事変(昭和12年)に投入され、中国大陸に進出した。
1938年(昭和13年)12月15日附で第24駆逐隊司令久宗米次郎大佐は迅鯨型潜水母艦2番艦長鯨艦長へ転任する[19][注釈 1]。後任の24駆司令は中川浩大佐となった[19]。同日附で涼風駆逐艦長井上良雄中佐も吹雪型「朝霧」艦長へ転任、後任の涼風駆逐艦長は田中正雄少佐(海軍水雷学校教官)[注釈 2][19]。
1939年(昭和14年)11月15日、田中正雄中佐(涼風駆逐艦長)は海軍艦政本部部員へ転任[20]。海軍水雷学校教官と海軍航海学校教官を兼務していた守屋節司少佐が涼風駆逐艦長に任命される[21]。
1940年(昭和15年)9月16日、涼風駆逐艦長は守屋節司少佐から神山昌雄少佐(重巡愛宕水雷長)[22]に交代(後日、守屋は陽炎型15番艦「野分」艦長[23]。野分沈没時に戦死)。 10月11日、第24駆逐隊のうち2隻(涼風、江風)は紀元二千六百年記念行事に伴う観艦式に参加、第二列(長門、陸奥、伊勢、摂津、凉風、江風、村雨、春雨、夕立、五月雨、漣、綾波、浦波、初雪、白雪、吹雪)に配置されていた[24]。 10月19日附で中川24駆司令は古鷹型重巡洋艦1番艦古鷹艦長[25]へ転任[注釈 3]。後任の24駆司令には第27駆逐隊司令松原博大佐が任命された[注釈 4][25]。11月、第24駆逐隊は第二艦隊・第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦那珂)に編入された。
1941年(昭和16年)2月3日、「涼風」は演習中に「山風」と触衝し修理を行った[26]。7月25日附で第24駆逐隊司令は平井泰次大佐に交代[27]。
太平洋戦争緒戦
[編集]太平洋戦争開戦以後、「涼風」は南方部隊に属しレガスピー上陸作戦、ラモン湾上陸作戦に従事した。1942年(昭和17年)1月から蘭印部隊に属しタラカン攻略作戦、バリックパパン攻略作戦に参加した。2月3日-5日、マカッサル攻略部隊(軽巡洋艦長良、水上機母艦瑞穂、第8駆逐隊、第15駆逐隊など)は順次セレベス島スターリング湾に集結した[28]。2月4日夕刻、「涼風」はスターリング湾外で哨戒中のところを米潜水艦スカルピンに雷撃された。右舷前部に魚雷1本が命中し機関室浸水、湾内に避退して応急修理をおこなった[28]。戦死9名[29]。2月7日、輸送船団に先行してスターリング湾を出港した第8駆逐隊と第15駆逐隊は敵潜水艦を発見するも見失った[28]。さらに駆逐艦「満潮」(第8駆逐隊)は敵潜に対し爆雷攻撃を行い、効果確実を報告する[28]。「満潮」が攻撃したのはスカルピンで、同艦は船団攻撃を諦めて退避した。損傷した「涼風」は佐世保に帰投し、7月まで修理を行った。 この間、第24駆逐隊は4月10日に第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)に編入。 4月15日、涼風駆逐艦長神山昌雄少佐は第四水雷戦隊附となり、若竹型駆逐艦3番艦「早苗」や睦月型駆逐艦8番艦「長月」艦長を歴任した柴山一雄少佐が、神山の後任として涼風駆逐艦長に補職される[30]。神山少佐は4月27日附で白露型駆逐艦5番艦「春雨」艦長に任命され[31]、続いて夕雲型駆逐艦10番艦「涼波」艤装員長[32]および初代艦長[33]となるが、ラバウル空襲における同艦沈没時に戦死した。
6月23日に姉妹艦「山風」が米潜水艦ノーチラスの雷撃で撃沈され[34]、第24駆逐隊は白露型3隻(海風、江風、涼風)体制となった[35]。7月14日、第24駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)に編入された。 7月30日附で第24駆逐隊司令は平井大佐から村上暢之助大佐[36]に交代(平井大佐は8月15日附で軽巡洋艦夕張艦長)[37]となった。
ガダルカナル島の戦い
[編集]8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に上陸を開始してガダルカナル島の戦い、フロリダ諸島の戦いがはじまった。8月11日、横須賀を出港し空母千歳をトラックまで護衛。つづいて増援部隊指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官および二水戦各艦(神通、海風、涼風、江風《途中で船団から分離、ガ島へ先行》)、哨戒艇4隻(1号(旧島風)、2号(旧灘風)、34号、35号)は、ガダルカナル島上陸を目指す陸軍一木支隊第二梯団および海軍陸戦隊の輸送船3隻(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸)の護衛を下令される[38]。挺身隊(嵐、萩風、陽炎、谷風、浦風、浜風)と第二梯団はそれぞれトラックを出撃する[38]。挺身隊は8月18日深夜にガ島へ到着、揚陸に成功した(一木清直大佐指揮下の同部隊は8月21日イル川渡河戦で全滅)[39]。
8月24日、日米空母機動部隊対決(第二次ソロモン海戦)で日本海軍は空母龍驤を喪失、水上機母艦千歳が中破、アメリカ軍側は空母エンタープライズ中破という損害を受けた。しかし空母サラトガとガダルカナル島のアメリカ軍ヘンダーソン飛行場は健在であった。8月25日午前6時、ガ島砲撃を終えて北上してきた駆逐艦5隻(睦月、弥生、磯風、陽炎、江風)が涼風以下輸送船団と合流、直後に輸送船団は急降下爆撃機SBDドーントレスとB-17型爆撃機の空襲を受けた[40]。2隻(駆逐艦睦月、輸送船金龍丸)が沈没、旗艦「神通」が炎上し戦闘不能となった[40]。田中司令官は旗艦を「神通」から「陽炎」に変更、「涼風」を「神通」の護衛につけて2隻をトラック泊地へ退避させた[40]。こうして輸送船団によるガ島揚陸作戦は中止され、第二次ソロモン海戦はアメリカ軍の勝利に終わった[41]。 第二水雷戦隊司令官田中頼三少将は8月29日附で外南洋部隊増援部隊指揮官の任務を解かれ、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将(旗艦「川内」)が増援部隊指揮官を継承した。
9月2日、上層部(連合艦隊、第八艦隊)の不興を買っていた村上大佐は第24駆逐隊司令を解任される[42]。9月3日、第24駆逐隊新司令に陽炎型駆逐艦10番艦「時津風」駆逐艦長中原義一郎中佐(白露型4番艦夕立初代駆逐艦長)をあてる人事が決まる[43]。中原中佐着任までの間、暫定的に村上大佐が指揮を継続することになった。 その後、第24駆逐隊は駆逐艦による高速輸送作戦(鼠輸送)に従事した。 10月中旬には第三戦隊(金剛、榛名)や第五戦隊(妙高、摩耶)によるガダルカナル島砲撃に参加[44]、つづいて10月26日の南太平洋海戦に参加。 11月上旬、外南洋部隊増援部隊指揮官は三水戦司令官橋本信太郎少将から二水戦司令官田中頼三少将に交代。第二水雷戦隊は再び最前線に投入される。11月中旬の第三次ソロモン海戦における二水戦は、輸送船団の護衛に従事。 11月18日、姉妹艦「海風」が空襲で損傷、戦線を離脱する。11月25日、第24駆逐隊司令駆逐艦は「海風」から「江風」に変更された[45]。 11月30日、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦長波)の指揮下、駆逐艦8隻(長波、高波、黒潮、親潮、陽炎、巻波、江風、涼風)という戦力は輸送任務のためガダルカナル島へ突入。ルンガ沖夜戦に参加した。 12月11日、第24駆逐隊(涼風、江風)は秋月型駆逐艦2番艦「照月」(第二水雷戦隊旗艦)の沈没に遭遇。 続いて12月18日、軽巡「天龍」(第十八戦隊旗艦。司令官松山光治少将)、駆逐艦4隻(涼風、磯波、荒潮、電)は輸送船2隻(愛国丸、護国丸)を護衛し、マダン上陸作戦に従事していたところ、米潜水艦アルバコアの雷撃で「天龍」が大破、「涼風」による曳航が試みられるも「天龍」は沈没した(第十八戦隊旗艦は「磯波」に変更)[46][47]。 12月29日附で第二水雷戦隊司令官は田中頼三少将から小柳冨次少将(海軍兵学校42期)に交代した[48][49]。
昭和18年前半の戦い
[編集]1943年(昭和18年)1月2日、増援部隊指揮官小柳冨次第二水雷戦隊司令官直率の駆逐艦10隻(警戒隊《長波、江風、涼風、巻波、荒潮》、輸送隊《親潮、黒潮、陽炎、磯波、電》)はガダルカナル島輸送作戦を実施[50]。進撃中に空襲を受け「涼風」は至近弾により損傷、「電」の護衛下でショートランド泊地へ引き返した[51]。 ラバウルで応急修理を行った。 1月21日、第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将は負傷した木村進少将の後任として第十戦隊司令官へ転任[52]。1月23日附で伊崎俊二少将(海兵42期)が第二水雷戦隊司令官に任命された(着任30日)[53][52]。また二水戦から長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」(第三次ソロモン海戦で損傷)が外れ、二水戦旗艦は同隊に復帰した「神通」に変更[54]。応急修理を終えた「涼風」は、ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)に補給部隊の護衛艦として参加する[55]。ガ島撤退作戦成功後の2月9日、「江風」が輸送船と衝突して損傷[56]。第24駆逐隊は全艦が損傷状態となる。 2月12日、「涼風」をトラック泊地を出発[57][58]。18日、佐世保到着[59]。 2月24日、24駆司令駆逐艦は「涼風」から、修理を終えた「海風」に交代[60][61]。「海風」は佐世保を出撃し、トラック泊地へ向かった[62]。 佐世保海軍工廠は阿賀野型軽巡洋艦2隻(矢矧、酒匂)等の建造や[63]、多数の艦艇の整備・修理を行っていた[64]。「涼風」も修理を実施[65]、4月[66][67]、5月と修理を実施[68][69]。
5月23日、涼風駆逐艦長柴山一雄少佐は第一水雷戦隊附となり、神風型駆逐艦9番艦「夕凪」艦長等を歴任した山下正男少佐が涼風駆逐艦長[70]に補職される(柴山は6月9日附で駆逐艦「朝雲」艦長[71]。レイテ沖海戦で同艦沈没。戦後、生還)。5月27日、「江風」は「涼風」より先に佐世保を出撃[72]。 6月15日、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、空母3隻(龍鳳、大鷹、沖鷹)、軽巡「五十鈴」、駆逐艦部隊(第7駆逐隊《潮、曙、漣》、第16駆逐隊《雪風》、第17駆逐隊《浜風、谷風》、第27駆逐隊《時雨、有明、夕暮》、第24駆逐隊《涼風》、秋月型《新月》、夕雲型《清波》)という戦力で横須賀を出港、6月21日トラック泊地に到着した[73][74]。 6月23日、第七戦隊司令官西村祥治少将は指揮下5隻(熊野、鈴谷、新月、涼風、有明)をひきいてラバウルへの輸送任務を実施、27日トラックへ戻った[75]。「新月」は外南洋部隊増援部隊に編入され、ラバウルに残った。 6月27日、第24駆逐隊司令駆逐艦は「涼風」に変更となる[76]。 6月末、重巡「鳥海」、護衛駆逐艦(雪風、涼風、江風、谷風)と共をラバウルへ進出中[77]、「江風」は軸受故障によりトラックに引き返した。
7月上旬、ニュージョージア島の戦いが勃発。ニュージョージア諸島で日米双方が戦闘を繰り広げるなかの7月5日、コロンバンガラ島輸送の途中でクラ湾夜戦が勃発。日本艦隊は、支援隊(秋月型駆逐艦《新月:第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将座乗》、第24駆逐隊《涼風》、第17駆逐隊《谷風》)、第一次輸送隊(望月、三日月、浜風)、 第二次輸送隊(天霧、初雪、長月、皐月)という編制だった。米軽巡洋艦ヘレナ撃沈に対し駆逐艦2隻(新月、長月《座礁放棄》)が沈没、秋山三水戦司令官と三水戦司令部も総員戦死した。「涼風」は被弾し損傷を受け、戦死者2名を出す[29]。
7月8日、第24駆逐隊司令は中原義一郎大佐から久保田智大佐(海兵46期)[78]に交代した(中原は8月20日より、夕雲型駆逐艦3隻《涼波、藤波、早波》で編成された第32駆逐隊司令)[79]。 この前日、第三水雷戦隊司令官として伊集院松治大佐が任命される[80]。だが第三水雷戦隊(旗艦、軽巡川内)は準備不足のため、第二水雷戦隊が投入される。 7月13日のコロンバンガラ島沖海戦で二水戦旗艦「神通」が沈没、同艦座乗の司令官伊崎俊二少将以下二水戦司令部が全滅した。そこで第四水雷戦隊が解隊され、同隊戦力(司令官高間完少将:旗艦/長良、第27駆逐隊《時雨、白露、有明、夕暮》、五月雨等)と二水戦残存艦艇を統合、新たな第二水雷戦隊を編成した[81][82]。
7月21日に「涼風」と軽巡洋艦「長良」、重巡洋艦「愛宕」、「高雄」はトラックを出発し、7月26日に横須賀に入港[83]。 「涼風」は同地で修理を行う[84][85]。
昭和18年後半の戦い
[編集]1943年(昭和18年)8月15日、「海風」の修理が完了[86]。同日附で阿賀野型軽巡洋艦2番艦「能代」が第二水雷戦隊に編入、二水戦旗艦は「長良」から「能代」に変更となった[87]。
8月17日、主力部隊(戦艦3隻《大和、長門、扶桑》、空母《大鷹》[88] 、巡洋艦3隻《愛宕、高雄、能代》、駆逐艦部隊《涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風》)として呉を出撃し、8月23日トラックへ進出[89][90]。トラック到着後、24駆司令駆逐艦は「涼風」から「海風」に変更された[91]。 8月25日、第24駆逐隊(海風、涼風)は第十四戦隊司令官伊藤賢三少将(旗艦那珂)の指揮下、巡洋艦2隻(那珂、高雄)を護衛してラバウルへの輸送作戦に従事[86][92]。27日にラバウルに到着して陸兵を揚陸すると、29日にトラックへ戻った[92]。
9月16日、トラック泊地環礁内で二水戦(能代、海風、涼風)による戦闘訓練実施中、「涼風」は魚雷1本を喪失[93] 9月18日、第三戦隊をブラウン環礁方面へ護衛した。10月には、第五戦隊をラバウルまで、第三戦隊をブラウン方面へ護衛。同月末には戦艦2隻(伊勢、山城)、空母2隻(隼鷹、雲鷹)、巡洋艦2隻(利根、龍田)、駆逐艦4隻(海風、涼風、谷風、曙)と共にトラック泊地から内地へ帰投した[94][95]。 11月5日、米潜水艦ハリバットの雷撃で「隼鷹」が航行不能となり、「利根」に曳航されて呉へ戻った(呉へ戻った? トラック発では?)[96]。 この護衛任務中の10月31日、第24駆逐隊に朝潮型駆逐艦3番艦「満潮」が編入され、同隊は駆逐艦3隻(海風、涼風、満潮)編制となる[97]。 11月6日、第24駆逐隊(海風、涼風)は佐世保に到着、入渠修理作業をおこなう[98]。11月下旬、「満潮」が佐世保に到着[98][99]。
12月3日、第24駆逐隊(海風、涼風、満潮)は柱島泊地に集結した[100]。だが「満潮」は空母2隻(雲鷹、瑞鳳)護衛のため横須賀に回航され、別行動となった[101]。 12月中旬から下旬にかけて、駆逐艦3隻(海風、涼風、潮)は輸送船4隻(日蘭丸、良洋丸、日美丸、但馬丸)の釜山からトラック泊地進出を護衛[102][103]。12月26日夕刻にトラック泊地南水道着、翌朝到着[104]。28日附で3隻(海風、涼風、潮)は内南洋部隊に編入され、海上機動第1旅団のマーシャル諸島進出を護衛することになった[105][106]。なおマーシャル諸島に配備された各部隊は、1月下旬~2月上旬のクェゼリンの戦いおよびエニウェトクの戦いによって全滅した。
沈没
[編集]1944年(昭和19年)1月18日、ポナペ島方面の輸送を担当していた「涼風」はトラック泊地に帰投[107]。「海風」もトラック泊地に戻った[108][109]。 1月19日、連合艦隊より米潜水艦の雷撃を受けた空母「雲鷹」救援の命令を受け、駆逐艦3隻(白露型《海風、涼風》、不知火型《浦風》)は特務艦「明石」救難作業隊を「海風」に乗せてトラックを出撃するも[110]、命令により2隻(涼風、浦風)は引き返した[107][111][112]。 1月20日、給糧艦「伊良湖」と駆逐艦「皐月」はトラック泊地を出発するが、その日のうちに米潜水艦(シードラゴン)に雷撃される[113]。「涼風」は「鳥海」等と共に、「伊良湖」救難のために出動した[107][114]。
1月24日、特設運送船「興津丸」と「日豊丸」がトラックからブラウン環礁へ向け出発し、それを「涼風」と第三十三号駆潜艇が護衛した[115]。 1月25日23時5分、「涼風」はポナペ島北東北緯09度00分 東経157度27分 / 北緯9.000度 東経157.450度地点[116]もしくは北緯08度51分 東経157度10分 / 北緯8.850度 東経157.167度[29]地点で、米潜水艦スキップジャックに雷撃されて沈没[34]。山下駆逐艦長以下231名が戦死[117]。生存者13名とも[118]。
3月10日、「涼風」は白露型駆逐艦[119]、 第24駆逐隊[120]、 帝国駆逐艦籍[121] のそれぞれから除籍された。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』310-311頁による。階級は就任時のもの。
艤装員長
[編集]艦長
[編集]- 井上良雄 少佐:1937年8月31日[15] - 1938年12月15日[19]
- 田中正雄 中佐:1938年12月15日[19] - 1939年11月15日[20]
- 守屋節司 少佐:1939年11月15日[21] - 1940年9月16日[22]
- 神山昌雄 少佐:1940年9月16日[22] - 1942年4月15日[30]
- 柴山一雄 少佐:1942年4月15日[30] - 1943年5月23日[70]
- 山下正男 少佐:1943年5月23日[70] - 1944年1月25日戦死(同日附で海軍中佐に昇進)[122]
注釈
[編集]- ^ 後日、久宗大佐は軽巡川内艦長、重巡青葉艦長、戦艦長門艦長、山城艦長等を歴任
- ^ 井上中佐は朝霧艦長、漣艦長、萩風艤装員長・初代艦長等を歴任。第18駆逐隊司令として駆逐艦不知火沈没時に戦死
- ^ 後日、中川は軽巡阿賀野艦長等を歴任。第三水雷戦隊司令官としてサイパン島の戦いで戦死した
- ^ 後日、松原大佐は軽巡阿賀野艦長、空母翔鶴沈没時艦長等を歴任
参考文献
[編集]- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 国本康文「「利根」型の搭載機銃」「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.47 利根型重巡』学習研究社、2005年。 ISBN 4-05-603653-5
- 半藤一利『航空戦史シリーズ41 ルンガ沖夜戦』朝日ソノラマ、1984年5月。ISBN 4-257-17041-7。
- 福田啓二編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年。 ISBN 4-87565-207-0
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書46 海上護衛戦』朝雲新聞社、1971年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』朝雲新聞社、1971年9月。
- 防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
- 『日本郵船戦時船史 太平洋戦争下の社船挽歌 上』日本郵船、1971年
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071974300。
- 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/巻3追録/第13類艦船(1)』。Ref.C13072003500。
- 『昭和10年 達 完/6月』。Ref.C12070098700。
- 『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(2)』。Ref.C12070164500。
- 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(4)』。Ref.C12070181400。
- 『昭和18年9~10月 内令4巻/内令昭和18年10月(5)』。Ref.C12070181500。
- 『自昭和19年1月~至昭和19年7月 内令/昭和19年3月(1)』。Ref.C12070194700。
- 『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年3月(5)』。Ref.C12070196900。
- 『第1126号11.4.24艦船工事概括表認許の件』。Ref.C05110733200。
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- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886713』海軍大臣官房、1940年。
脚注
[編集]- ^ 『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』による。福田啓二編『軍艦基本計画資料』、国本康文「「利根」型の搭載機銃」によると25mm連装機銃2基を搭載した。
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- ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|白露型|白露、時雨、村雨、夕立、春雨、五月雨、海風、山風、江風、涼風』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.210『◎驅逐艦涼風水雷艇雉第三號驅潜艇命名ノ件 昭和十年六月二十日(達七〇)艦艇造造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻水雷艇一隻驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス 浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 涼風スズカゼ|三井物産株式會社造船部玉工場ニ於テ建造 水雷艇 雉キジ|株式會社浅野造船所ニ於テ建造 第三號驅潜艇』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.69『昭和十年六月二十日(内令二四七) 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 驅逐艦一等ノ部白露型ノ項中「江風」ノ下ニ「、涼風」ヲ加フ 水雷艇ノ部中鴻型ノ項中「鵲」ノ下ニ「、雉」ヲ加フ』
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- ^ 昭和12年06月01日付 官報第3121号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959604 p.8
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- ^ #電詳報其弍(4)1712p.17『十八戦隊司令官十二月十八日二二三七(宛略)|一.RZK上陸成功二二〇八/二.天竜被害ニ依リ将旗ヲ磯波ニ移揚ス/三.天竜ハ涼風ヲシテ極力曳航ニ努メシアルモ尚沈下シツツアリ浸水後部上甲板線ニ達ス』
- ^ 「昭和17年12月31日(発令12月29日付)海軍辞令公報(部内限)第1022号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088700
- ^ #半藤(朝日ソノラマ)235頁
- ^ #S1801二水戦日誌(2)p.18『三.軍隊区分』
- ^ #S1801二水戦日誌(2)pp.28-29『3日1225増援部隊指揮官→8F司令長官(略)|一.第五次ガ島輸送部隊2日1100ショートランド発1215地点ケトネ41ニ於テB-17五P-38五機ト交戦撃退1605地点ケヌフ14ニ於テ爆撃機戦斗機十数機ト交戦味方直衛戦斗機六機ト共ニ撃退涼風至近弾ニ依リ損傷電掩護ノ下ニショートランドニ回航セシム 輸送部隊2200エスペランス着警戒隊ヲ以テ魚雷艇約八隻ノ執拗ナル来襲ヲ阻止撃攘(一隻撃沈)シツツ揚陸作業強行ドラム缶540ゴム嚢250投入2230泊地発3日0800(涼風電ハ0630)ショートランド帰着(以下略)』
- ^ a b 「昭和18年1月25日(発令1月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1040号 p.14」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089500
- ^ #S1801二水戦日誌(1) p.11『司令官|少将|小柳冨次|二十三日退隊|(伊崎俊二)|三十日着任』
- ^ #S1801二水戦日誌(1)p.10『四.第二水雷戰隊各隊(艦)行動要覧(斜線部航海中)』
- ^ #S1801二水戦日誌(3)pp.4-5『(二)第二十四驅逐隊 涼風一月三十一日「トラック」發前進部隊警戒隊トシテ「ケ」號作戰ニ参加補給隊ノ警衛ニ從事シ二月十日「トラック」皈着十二日同地發「サイパン」経由十八日佐世保歸着修理ニ從事』
- ^ #S1801二水戦日誌(3)pp.5,57『江風外南洋部隊増援部隊トシテ第一次第二次「ガ」島撤収作戦ニ従事7日磯風(第三次撤収作戦時損傷)ノ護衛ニ任ジ9日「ショートランド」西口外ニテ東運丸ト觸衝損傷「ラバウル」ニテ修理ニ従事』
- ^ #S1801二水戦日誌(3)p.7『三.第二水雷戰隊各(隊)艦行動要覧(斜線部航海中)』
- ^ #S1801二水戦日誌(3)p.19『一二(天候略)一.一〇三〇涼風佐世保ニ向ケ「トラック」發(「サイパン」経由)』
- ^ #S1801二水戦日誌(3)pp.20-21『一八(天候略)二.一三〇〇涼風(司令24dg)佐世保着』
- ^ #S1801二水戦日誌(3)p.65『24dg司令|二十四日一三四七(宛略)當隊司令駆逐艦ヲ涼風ヨリ海風ニ変更ス 艦船番號ヲ左ノ通改ム 一番艦海風 二番艦涼風 三番艦江風』
- ^ 「昭和18年3月3日 海軍公報(部内限)第4330号 p.43」 アジア歴史資料センター Ref.C12070429700 『○司令驅逐艦變更 第十五驅逐隊司令ハ一月二十六日司令驅逐艦ヲ陽炎ニ變更セリ/第四驅逐隊司令ハ二月二十四日司令驅逐艦ヲ萩風ニ變更セリ/第二十四驅逐隊司令ハ二月二十四司令驅逐艦ヲ海風ニ變更セリ』
- ^ #S1801二水戦日誌(3)p.5『海風引續キ佐世保ニ於テ修理ニ従事二十五日佐世保發二十七日清波ト共ニ盤谷丸西貢丸ヲ護衛シ「トラック」ニ向ケ横須賀發』
- ^ #S1803佐鎮(1)pp.16-17『(六)佐世保海軍工廠ニ於テ建造中ノ艦船左ノ通』
- ^ #S1803佐鎮(1)p.16『(五)作戰地ヨリ入港セル左記艦船ニ對スル整備工事ヲ實施セリ 最上、千歳、伊一六六、涼風、時雨、金剛、榛名、朝顔、白露、伊一六五潜、浮島丸、夕凪、伊一〇』
- ^ #S1801二水戦日誌(4)p.7『四.行動要覧(斜線部航海中)』
- ^ #S1801二水戦日誌(5)p.4『(二)第二十四驅逐隊(略)江風涼風ハ佐世保ニ在リテ修理ニ従事』
- ^ #S1804佐鎮(1)p.16『(三)作戰地ヨリ入港セル左記艦船ニ對スル整備工事ヲ實施セリ 最上、千歳、伊一六六潜、涼風、伊一六五潜、浮島丸、夕凪、伊一〇潜、江風、長壽山丸、足柄、三日月、日向』
- ^ #S1805佐鎮(1)pp.24-25『(二)作戰地ヨリ入港セル左記艦船ニ對スル整備工事ヲ實施セリ 千歳、伊一六六潜、涼風、伊一六五潜、夕凪、伊一〇潜、江風、足柄、三日月、日向、川内、瑞鳳、文月、朝風、大鷹』
- ^ #S1801二水戦日誌(6)p.4『(二)第二十四驅逐隊 海風(司令24dg)ハ上旬外南洋部隊増援部隊ニ属シ「コロンバンガラ」輸送ニ従事十日前進部隊ニ復皈同日「ラバウル」發十二日「トラック」着十七日主隊編入同地發二十二日横須賀着前進部隊ニ復皈二十四日同地發二十九日「トラック着 江風涼風ハ佐世保ニ在リテ修理ニ従事江風二十七日「トラック」ニ向ケ佐世保發』
- ^ a b c 「昭和18年5月24日(発令5月23日付)海軍辞令公報(部内限)第1123号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091100
- ^ 「昭和18年6月11日(発令6月9日付)海軍辞令公報(部内限)第1142号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091500
- ^ #S1801二水戦日誌(6)p.9『行動要覧(斜線部航海中)』
- ^ #S1805四水戦日誌(2)p.9『15日27dg(時雨)GF電令作第590号AdB電令作第218号ニ依リAdBニ復帰、16日27dg(白露欠)ハGF電令作第593号ニ依リ将旗3Sノ指揮下ノ下ニ3S、7S(最上欠)2sf(龍鳳)五十鈴雲鷹冲鷹7dg16dg(雪風)浜風谷風凉風清波新月等ト共ニ横須賀発、21日「トラック」着(将旗)2sfノ指揮ヲ解カル爾後27dg(時雨)ハ前記「ナウル」輸送任務ニ従事』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.5『(五)六月十五日前進部隊ニ編入セラレ六月十六日第三戰隊司令官指揮ノ下ニ第三戰隊第七戰隊(最上欠)第二航空戰隊(龍鳳)五十鈴雲鷹沖鷹第七駆逐隊第十六駆逐隊(雪風)第二十七駆逐隊(白露欠)浜風谷風涼風新月清波ト横須賀發二十一日「トラック」着』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.5『(六)六月二十三日輸送任務ノ為第七戰隊(最上欠)新月涼風有明ヲ率ヰ「トラック」発二十五日「ラボール」着同日第七戰隊(最上欠)有明涼風ヲ率ヰ「ラボール」発二十七日「トラック」到着尓後「トラック」ニ在リテ警戒待機竝ニ諸訓練ニ従事ス』
- ^ 「昭和18年7月30日 海軍公報(部内限)第4453号 p.36」 アジア歴史資料センター Ref.C12070432600 『○第二十四驅逐隊司令ハ六月二十七日司令驅逐艦ヲ涼風ニ變更セリ』
- ^ #S1805四水戦日誌(2)p.76『30日1140/一.鳥海、16dg(雪風)24dg(涼風江風)谷風ハ鳥海艦長之ヲ指揮シ急速「トラック」出撃「ラボール」ニ進出スベシ』
- ^ 「昭和18年7月10日(発令7月8日付)海軍辞令公報(部内限)第1069号 p.11」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092100
- ^ 「昭和18年8月21日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1196号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092600
- ^ 「昭和18年7月7日(発令7月7日付)海軍辞令公報(部内限)第1167号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092100
- ^ 「昭和18年7月20日(発令7月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1174号 p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092200
- ^ #S1806二水戦日誌(1)p.33『(六)艦隊編制 聯合艦隊第二艦隊第二水雷戰隊 七月二十日』
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』357ページ
- ^ #S1806二水戦日誌(1)p.29『(三)第二十四驅逐隊(1)涼風(司令)(旗艦)長良ト共ニ十九日KdBニ二十日KdB本隊ニ編入二十一日「トラック」發4S警戒任務ニ從事二十六日横須賀着、同地ニ於テ南東方面作戰中損傷セル方位盤、一番砲、探照燈等ノ修理ニ從事』
- ^ #S1806二水戦日誌(1)p.65『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ a b #S1806二水戦日誌(2)p.5『海風(AdB十五日以後YBニ編入)ハ前月二十五日以降佐廠ニテ入渠修理中ノ處八月十五日完成十六日佐世保發十六日内海ニテ主力部隊ニ合同「トラック」ニ進出二十三日「トラック着司令驅逐艦トナル二十五日24dg(海風涼風)ハ14S(那珂)高雄ト共ニ「トラック」至「ラバウル」同増援部隊輸送ノ爲「トラック」出撃二十七日「ラバウル」着揚陸後即日同發二十九日「トラック」ニ歸投ス』
- ^ #S1806二水戦日誌(2)pp.3-4『(二)能代ノ2sd編入(旗艦豫定)及長良ノ8F編入豫定ニ關聯長良ハ急速内地ニ回航修理ノ事トナリ九日「トラック」發十四日呉着 十五日附能代2sd編入ニ依リ同日旗艦變更』
- ^ #S1806二水戦日誌(2)p.51『一七日〇六〇〇(長官)2F(宛略)2F機密第一六二三二一番電 「トラツク」回航ニ關スル機密AdB命令要旨 一.第二軍隊區分(主力部隊ト合同後)區分指揮官兵力ノ順 主隊直率4S(摩耶缺)大鷹警戒隊(司令官)2sd 2sd(能代)24dg(涼風海風)秋雲(以下略)』
- ^ #S1806二水戦日誌(2)p.4『(三)2sd(能代)ハ十六日主力部隊(長官1F直率)ノ指揮下ニ入リ主力部隊ノ警戒隊(司令官2sd、2sd(能代)初風天津風)トナリ十六日呉出撃八島假泊(海風ト合同佐鎮五特、便乗者一部移載)十七日假泊發十八日一一〇〇(長官)2F直率部隊(24dg(涼風)ヲ含ム)ト合同(指揮官)YBノ麾下(YB警戒隊)トナリ二十三日「トラツク」着』
- ^ #S1806二水戦日誌(2)p.60『二三日一一五五(長官)1F(宛略)1F機密第二三一〇一九番電 大和長門扶桑愛宕高雄能代24dg(涼風海風)11dg(秋雲夕雲)天津風若月初風ヲ率ヒ「トラツク」着二三日〇七四五』
- ^ #S1806二水戦日誌(2)p.5『(三)第二十四驅逐隊 涼風(KdBニ編入中)司令驅逐艦トシテ前月下旬ヨリ横須賀ニ於テ修理中ノ處上旬完了十五日YBニ編入セラレ十七日4Sト共ニ横須賀發二十三日「トラック」着司令驅逐艦ヲ海風ニ變更』
- ^ a b #S1804十四戦隊日誌(2)p.25『当隊(五十鈴欠)ハUNB信令第一號ニ依リ高雄第二十四駆逐隊(海風凉風)ヲ率ヰ「ラボール」方面行増援隊人員物件ノ緊急輸送ニ任ジ二十五日一五三〇「トラック」発二十七日〇九〇〇「ラボール」着増援隊人員物件ヲ揚搭同日一五〇〇「ラボール」発「トラック」ニ帰還ノ途次二十八日一一五〇〇度四八分北、一四九度五三分東ニテ的敵大型機一機ノ触接ヲ受ケ之ヲ砲撃南西方ニ鯨対二十九日〇九〇〇「トラック」皈着』
- ^ #S1806二水戦日誌(3)pp.91-92『一六(天候略)2sd(能代)24dg(海風涼風)〇五〇〇発/玉波二三〇〇仮泊|2sd(能代)24dg(海風涼風)「トラック」環礁内ニ於テ戦闘諸訓練実施/玉波曳的艦トシテ出動|涼風魚雷一本沈没』
- ^ #S1806二水戦日誌(4)pp.84-85『三一(天候略)大波〇四〇〇「トラツク」発/24dg(海風涼風)〇四四〇「トラツク」発/五月雨一四三〇「ラバウル」発|24dg(海風涼風)伊勢山城龍田隼鷹利根ヲ護衛シ呉ニ向ケ「トラツク」発/31dg(大波)2sf基地員物件輸送ノ爲「カビエン」ニ向ケ「トラツク」発/島風〇八〇〇東亜丸日本丸護衛ヲ止メ一四一五日章丸日榮丸ニ合同護衛任務ニ付キ「トラック」ニ向フ/五月雨一四三〇敵輸送船団及護衛艦隊撃滅ノタメ「ラバウル」発|GF電令作第七八一号31dgヲNTBニ編入ス/三十一日附24dgノ項中ニ満潮ヲ加フ』
- ^ #S1804十一水戦日誌(5)p.4『28日連合艦隊電令作第778號ニ依リ本職内地回航部隊(龍田山城伊勢隼鷹雲鷹利根第24駆逐隊(海風涼風)谷風第7駆逐隊(曙))ヲ指揮シ31日「トラック」発内地ニ回航セリ』
- ^ #S1701八戦隊日誌(7)p.45『利根ハ(略)途中5日ヨリ被雷艦隼鷹ヲ曳航11月6日呉入港…』
- ^ #内令昭和18年10月(5)p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』
- ^ a b #S1806二水戦日誌(5)p.9『(2)24驅(海風涼風)伊勢山城龍田隼鷹利根ヲ護衛「トラツク」ヨリ呉ニ回航後六日佐世保着修理整備ニ従事中/満潮 横濱ニ在リテ修理整備中ノ所十四日完成横須賀ニ回航出撃準備實施二十二日横須賀發近海對潜掃蕩ニ従事ノ上二十四日桂島泊地着二十五日呉着二十七日呉發桂島泊地着諸訓練ニ従事中』
- ^ #S1806二水戦日誌(5)p.17『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #S1812二水戦日誌(1)p.24『三日一〇一五(司令)24dg(宛略)24dg機密第〇三一〇一五番電 當隊(海風涼風満潮)三日一〇〇〇桂島錨地着』
- ^ #S1812二水戦日誌(1)p.12『満潮内海西部ニ在リテ諸訓練ニ従事中/六日桂島發七日横須賀着/十二日雲鷹瑞鳳ヲ護衛横須賀発十三日二〇三〇頃母島乾埼ノ305°8浬ニテ敵潜ヲ探知攻撃セルモ効果不明/十七日戊三號輸送第二部隊ニ編入セラル「トラック」着(略)』
- ^ #S1812二水戦日誌(1)p.19『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #S1812二水戦日誌(1)p.34『一四日一五三五(司令)24dg(宛略)24dg(海風涼風)潮関門佐伯経由「トラツク」ニ向エ釜山発』
- ^ #S1812二水戦日誌(1)p.55『二六日一八〇〇(司令)24dg(宛略)丁船団護衛隊一八〇〇「トラック」着』
- ^ #S1812二水戦日誌(1)p.58『二八日一五五六(長官)GF(宛略)GF機密第二八一五五六番電 一.24dg(海風涼風)及潮ヲ内南洋部隊ニ編入ス/二.内南洋部隊指揮官ハ南洋第二支隊及海上機動第一旅団乗船ノ「トラック」「マーシャル」方面間行動中之ガ護衛ニ任ズベシ』
- ^ #S1812二水戦日誌(2)p.18『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ a b c #S1812二水戦日誌(3)pp.9-10『涼風 丁輸送船団第二分団ヲ護衛一日「ポナペ」着(中略)十八日「トラック」歸着/十九日雲鷹救難ノ爲24dg(海風)浦風ト共ニ出撃セルモ命ニ依リ引返セリ/二十日伊良湖救難ノ爲出港翌二十一日入港/二十四日夕張丸興津丸日豊丸ヲ護衛「トラック」発「ブラウン」ニ向ケ航行中/二十五日二三〇五9°-0′N150°-27′ニ於テ敵潜発見攻撃中雷撃ヲ受ケ沈没』
- ^ #S1812二水戦日誌(3)p.5『24dg(海風涼風)「マーシャル」方面輸送終了十八日「トラック」帰着翌十九日海風ハ前項雲鷹救難涼風ハ伊良湖救難ニ從事セリ』
- ^ #S1812二水戦日誌(3)p.18『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #S1812十戦隊(2)pp.27-28『GF機密第一九一四〇七番電 GF電令作第六四號 一.24dg(海風凉風)17dg(浦風)ハ先任司令指揮速ニ出港2sd司令官ノ指揮ヲ受ケ雲鷹救援ノ警戒ニ任ズベシ/二.明石特務艦長ハ救難作業隊ヲ編成シ海風ニ乗艦セシムベシ』
- ^ #S1812二水戦日誌(3)p.55『一九日一七三六(長官)GF(宛略)浦風、涼風引返セ 海風ハ予定ノ如ク行動セヨ』
- ^ #S1812十戦隊(2)p.28『GF機密第一九一七三六番電 浦風涼風引返セ海風ハ予定ノ如ク行動セヨ』
- ^ #S1812三水戦日誌(5)p.12『自一月二十日至一月二十二日 皐月自「トラック」至サイパン間伊良湖護衛』
- ^ #S1812二水戦日誌(3)p.81『二十日(天候略)涼風伊良湖救難ノ爲「トラック」発』
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』490ページ
- ^ #S1812二水戦日誌(3)p.67『二六日〇〇二〇ch33(宛略)二三〇五北緯九度〇分東経一五七度二七分ニテ涼風雷撃ヲ受ケ轟沈ス我制圧中』
- ^ #半藤(朝日ソノラマ)247頁
- ^ #S1812二水戦日誌(4)p.21『二日一二〇五(司令)24dg(宛略)24dg機密第〇二一二〇五番電 涼風戦闘概報 一.涼風日豊丸、興津丸船団ヲ護衛一月二十四日〇五〇〇「トラツク」発「ブラウン」ニ向ケ航行中一月二十五日二三〇三北緯九度〇分東経一五七度二七分ニ於テ雷撃ヲ受ケ三本命中轟沈/二.乗員中ノ生存(行衛不明)者准士官以上〇名(「五)下士官兵一三(不詳)』
- ^ #内令昭和19年3月(1)p.18『内令第四百十三號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十九年三月十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等球磨型ノ項中「球磨」ヲ削ル|驅逐艦、一等初雪型ノ項中「、漣」ヲ、同白露型ノ項中「、涼風」ヲ削ル』
- ^ #内令昭和19年3月(1)p.19『内令第四百十八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第七驅逐隊ノ項中「、漣」ヲ削ル|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風、」ヲ削ル』
- ^ #内令昭和19年3月(1)p.20『内令第四百二十號|呉鎮守府在籍 軍艦 球磨 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 漣|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 涼風|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|昭和十九年三月十日 海軍大臣嶋田繁太郎』
- ^ 「昭和19年4月20日(発令1月25日)海軍辞令公報(部内限)第1433号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C13072097400