浅野一摩
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浅野 一摩(あさの かずま、1852年5月26日〈嘉永5年4月8日〉 - 1934年〈昭和9年〉10月30日[1])は、日本の剣道家。流派は津田一伝流。称号は大日本武徳会剣道範士。
経歴
[編集]一伝流浅野庄太夫重賢の二男として、現在の福岡県久留米市荘島町に生まれる。重賢が若くして病没後、一門とともに津田一左衛門正之に合流、津田一伝流の極意印可巻を授かる[1]。
1883年(明治16年)、福岡県警察本部教習所の剣道教授となる[1]。
1894年(明治27年)、日清戦争中の広島大本営で開かれた天覧試合に出場する[1]。
1896年(明治29年)、第2回武徳祭大演武会に出場。高野佐三郎に敗れる。
1897年(明治30年)、大日本武徳会から精錬証を授与される。この年授与された人物は浅野一摩、柴江運八郎、内藤高治、下江秀太郎、鈴木重信の5名であった。
1899年(明治32年)、第4回武徳祭大演武会に出場。中山博道に敗れる。
1905年(明治38年)、大日本武徳会から剣道教士号を授与される。
1911年(明治44年)、大日本帝国剣道形制定の委員を務める。
1918年(大正7年)、大日本武徳会から剣道範士号を授与される[1]。
福岡県立中学修猷館、福岡市立福岡商業学校でも教えた。門人には、松井松次郎、田中耕太郎(最高裁判所長官)らがいる[1]。
兄の浅野彰太も有名な剣客であった。彰太の弟子に小城満睦がいる。
没後、武徳会は福岡市内の福岡県公会堂で武徳葬を行い、一等有功章を贈った[1]。
参考文献
[編集]- 『月刊剣道日本』1976年11月号、スキージャーナル