津軽承昭
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津軽承昭 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 天保11年8月12日(1840年9月7日) |
死没 | 大正5年(1916年)7月19日 |
改名 | 寛五郎(幼名)→細川護明(初名)→津軽承烈→承昭 |
墓所 | 東京都台東区谷中の谷中霊園 |
官位 | 従五位下・土佐守、越中守、従四位下・侍従、左近衛権少将、従一位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 陸奥弘前藩主 |
氏族 | 細川氏→津軽氏 |
父母 |
父:細川斉護、母:青木甚之助娘 養父:津軽順承 |
兄弟 |
細川慶前、細川韶邦、細川護久、承昭、 友之丞、長岡護美、勇姫ら |
妻 |
正室:津軽順承四女・常姫 継室:津軽尹子 側室:多津、阿弥 |
子 |
楢麿、津軽行雅室、寛子 養子:英麿 |
津軽 承昭(つがる つぐあきら)は、江戸時代後期の大名、明治から大正前期にかけての華族。位階爵位は従一位伯爵。
陸奥国弘前藩12代(最後)藩主、初代(最後)藩知事。和歌にも優れていたと言われている。
生涯
[編集]熊本藩主・細川斉護の四男として江戸にて誕生。初名は細川護明(ほそかわ もりあきら)。安政4年(1857年)6月28日、弘前藩11代藩主・津軽順承の婿養子となり、その偏諱を受け津軽承烈(つぐてる)と名乗り、後に承昭と改名した。同年12月16日、従五位下・土佐守に叙任する。後に越中守に改める。安政5年(1858年)11月23日、従四位下に昇進する。安政6年(1859年)2月7日、養父の隠居で家督を継ぐ。藩政においては洋式軍備の増強に努めた。
明治元年(1868年)の戊辰戦争では、当初は新政府に従う。しかし5月、奥羽越列藩同盟に参加する。7月に中央の政局の情報を受け、官軍に与して箱館戦争などで功績を挙げたため、戦後に新政府より1万石を加増された。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で免官、東京へ移る。明治11年(1878年)、麝香間祗候を命じられる。明治17年(1884年)に伯爵となる。
その後は第十五国立銀行取締役となる。大正5年(1916年)7月19日、77歳で死去した。跡を養子の英麿(近衛忠房次男)が継いだ。実子の楢麿は分家して男爵となっている。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
家族
[編集]- 父:細川斉護
- 母:青木甚之助の娘
- 養父:津軽順承
- 正室:常姫、明光院 - 津軽順承の四女
- 継室:津軽尹子(1849年 - 1900年)、信姫 - 近衛忠煕の六女
- 側室:多津 - 田中彦四郎の娘
- 側室:阿弥 - 伊勢屋万助の娘
- 生母不明の子女
- 養子
- 曾孫:正仁親王妃華子
その他
[編集]- 初代藩主津軽為信が豊臣秀吉から拝領し、歴代藩主が受け継いできた太刀「友成」を高照神社に寄進した[4]。この太刀は2020年現在、神社横に建設された高岡の森弘前藩歴史館に収蔵されている。
- 軽井沢に建てたあめりか屋建築の洋館別荘は、「神言会軽井沢修道院[5]」として現存している。ただしこの別荘は、その竣工が承昭の死後である1918年頃とされていることから[6]、使用したのは彼の家族と考えられる。なお、ひ孫である華子(正仁親王妃)も少女時代から軽井沢に度々滞在していたことで知られるが、この別荘を使用していたかどうかは不明。
脚注
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
伯爵 (弘前)津軽家初代 1884年 - 1916年 |
次代 津軽英麿 |