洞院佶子
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洞院 佶子 | |
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第90代天皇后 | |
皇后 |
文応2年2月8日(1261年3月10日) (中宮) 弘長元年8月20日(1261年9月16日) (皇后) |
京極院 | |
院号宣下 | 文永9年8月9日(1272年9月2日) |
誕生 | 寛元3年(1245年) |
崩御 |
文永9年8月9日(1272年9月2日) |
陵所 | 蓮華峯寺陵(京都市右京区) |
諱 | 佶子(きつし) |
氏族 | 藤原氏(洞院家) |
父親 | 洞院実雄 |
母親 | 徳大寺栄子(徳大寺公審の娘) |
配偶者 | 亀山天皇 |
入内 | 文応元年12月22日(1261年1月24日) |
子女 |
晛子内親王 知仁親王 後宇多天皇 |
女御宣下 | 文応元年12月25日(1261年1月27日) |
立后前位階 | 従三位 |
洞院 佶子(とういん きつし、藤原 佶子(ふじわら の きつし)、1245年〈寛元3年〉- 1272年9月2日〈文永9年8月9日〉)は、鎌倉時代の女性。亀山天皇の皇后で、後宇多天皇の生母。女院号は京極院(きょうごくいん)。
系譜
[編集]左大臣洞院実雄の女。生母は法印徳大寺公審の娘・栄子。異母妹に伏見天皇生母の洞院愔子(玄輝門院)、花園天皇生母の洞院季子(顕親門院)がいる。
略歴
[編集]『増鏡』によると佶子は大変容姿が優れており、同母兄の権中納言公宗に恋慕されるほどであったという。文応元年(1260年)11月、大嘗祭の際に亀山天皇の女御代を務め、翌12月に入内。女御宣下を受ける。
翌文応2年(1261年)2月、中宮に冊立される。半年後の弘長元年(1261年)8月、女御西園寺嬉子が立后されるのを受け、皇后となる。嬉子はこのときまだ10歳と幼く、天皇の寵愛も薄かったと言われているのに対し、佶子は天皇より4歳年上であるにもかかわらず寵愛が深く、この後、天皇との間には二男一女を儲ける。
しかし、文永9年8月9日(1272年9月2日)、佶子は28歳で崩御。同日院号宣下を受け、京極院と称された。陵所は京都市右京区の蓮華峯寺陵。のちに佶子所生の後宇多天皇も同所に葬られた。
所生の皇子女
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