河辺満甕
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かわべ みつかめ 河辺 満甕 | |
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生誕 |
1897年7月29日 日本兵庫県淡路島福良 |
死没 |
1970年5月9日(72歳没) 日本 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 関西学院、ドルー神学校、グリーンビル・カレッジ、エディンバラ大学、オックスフォード大学 |
職業 | 牧師、伝道者 |
親 | 河辺貞吉 |
河辺 満甕(かわべ みつかめ、1897年7月29日 - 1970年5月9日)は日本の牧師、伝道者、教育者。
生涯
[編集]1897年(明治30年)兵庫県生まれ。河辺貞吉の長男として淡路島・福良に生まれる。関西学院文学部卒業した後、1920年(大正9年)にアメリカ合衆国に留学しグリーンビル・カレッジに留学し、その後ドルー神学校で学んだ後、イギリスに渡りエディンバラ大学、オックスフォード大学で学ぶ。その後、エルサレムのアメリカ東洋研究所員になり、W・F・オルブライトの指導を受ける。1925年(大正14年)帰国。林順と結婚し、関西学院文学部教授に就任する。のち予科長、高校校長、宗教総主事をつとめる一方、自由メソヂスト教会教職として牧会にも従事する。
1948年自由メソヂスト教会を離れ自宅を開放し開拓伝道を始め、単立千里山基督教会を設立する。1949年(昭和24年)関西学院を一時休職してカナダに渡りトロント大学で学び、1950年(昭和25年)には博士号を取得する。
1962年(昭和37年)に関西学院を辞職し伝道に専念する。1963年(昭和38年)河辺貞吉記念礼拝堂を建設する。産婦人科、幼稚園、教会学校体育館、祈祷室、集会・宿泊所「シオン・ロッジ」などの建設を計画し、4500坪の丘陵を「シオンの丘」と名付け、施設の建設を行った。また、ケズィック・コンベンションや大阪朝祷会などの超教派の活動を行う。
晩年は、信徒教育のための「シオン聖書学校」を開校した。1970年(昭和45年)に死去する。
年譜
[編集]- 1897年 - 兵庫県生まれ。河辺貞吉の長男として淡路島・福良に生まれる。
- 1919年 - 関西学院文学部卒業。
- 1920年 - ドルー神学校で卒業。
- 1925年 - 関西学院文学部教授。のち予科長、高校校長、宗教総主事をつとめる一方、自由メソヂスト教会教職として牧会にも従事。
- 1948年 - 自由メソヂスト教会を離れ自宅を開放し開拓伝道を開始。単立千里山基督教会を設立。
- 1970年 - 死去
著書
[編集]- 『概説旧約地誌』(1950年)
- 『旧約の歴史』(1950年)
- 説教集『千里山の声』(1971年)
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 吉木裕「河辺満甕」『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、340頁
外部リンク
[編集]- 単立 千里山基督教会 - ウェイバックマシン(2003年5月2日アーカイブ分)