池長孟
池長 孟(いけなが はじめ/たけし、1891年〈明治24年〉11月24日 - 1955年〈昭和30年〉8月25日)は、日本の教育者、美術品収集家[1]。旧姓井上、号は南蛮堂。植物学者である牧野富太郎の研究を経済面で支援した[2]ことでも知られる。谷崎潤一郎とも交流があり、1940年春に自らの美術館の開館式に招いた[3]。
経歴
[編集]1891年(明治24年)11月24日に井上德左衞門の長男として 神戸市に出生[4]。幼少時に叔父で神戸市議会議長を務めた池長通の養子に入り池長姓に改姓[4]。池長家は、江戸時代から続く瓦屋や貸金業を祖父吉佐衛門の代(明治5年)にたたんで、兵庫一帯の土地を買い付け柳原や門口町、白川村などで住宅や不動産の賃貸業を指揮する[6]。家作の管理を手がけた祖父は、1898年(明治31年)4月に没し、孟を迎えた頃の池長家は大地主であった。
1905年(明治38年)に修業年限1年間の[7]神戸育英義塾予備科に中学受験のため入学の後[8]、卒業する[9]。1906年(明治39年)、15歳で兵庫県立第一神戸中学校に入学[8]し、第三高等学校から京都帝国大学法科大学に進む[10]。23歳になる1914年(大正3年)に父通が56歳で死去、孟は相続人として高額納税者となった。第一次世界大戦中の1917年(大正6年・26歳)に法科大学を卒業し[11]、同年9月に文科大学に再入学[12]、27歳になった翌年12月1日に大日本帝国陸軍歩兵第39連隊に1年の期限つきで予備役として入営した[12]。やがて期間は明け、軍務を延長した池長は幹部候補生として兵舎に住み続けるも、1921年(大正10年)5月に招集解除となり除隊した[12]。最終階級は陸軍三等主計である[8]。同年に神戸市学務委員に就任した[13]。
郷土史研究家の豊田實(神戸歴史クラブ理事長[5])によると、30代になったばかりの池長は退役の翌年にヨーロッパを視察した(1922年=大正11年)。大英博物館(ロンドン)やルーヴル美術館(パリ)、バチカン(ローマ)、フィレンツェの美術館などを見て回り美術品収集家の核となるものを得た[6][1]。
帰国した池長が神戸市学務委員を務めるころ[12]、私立校の育英商業学校は校長の急死とともに懸案の不安定な財政状態の解決を迫られる[8]。素封家で同校と同運営の神戸育英義塾卒だった池長は次期校長を打診され[9]、本意ではないのに[12]事に推されて1923年(大正12年)6月12日に就任、同年10月29日に校長の委嘱を受けた[14]。同年に戯曲集2冊を出版した[12]。池長は育英商業学校に名誉校長の肩書を与えられ無給で校長を務め[15]、1928年(昭和3年)1月26日[14]には前校長の妻に代わって池長が設立者・校主となり経営の全権を握る[9]。その後1942年(昭和17年)3月まで設立者・校主兼校長として育英商業学校を運営し[9][注釈 1]、31日に校長を辞職した[19]。
牧野富太郎と池長孟
[編集]牧野富太郎は1916年(大正5年)12月、生活苦から収集した植物標本10万点を海外の研究所に売ることを決断する。その窮状を知った牧野の知人渡辺忠吾は、『東京朝日新聞』に「篤学者の困窮を顧みず、国家的資料が流出することがあれば国辱である」との記事を書くと『大阪朝日新聞』がこれを転載、すると反響を呼び神戸から二人の篤志家が現れた[20]。一人は久原房之助、もう一人が当時25歳で京都帝国大学在学中の孟であった[20]。
12月21日、富太郎は壽衛夫人と共に神戸に向かい池長と面会すると、2年前に受け継いだ亡父の遺産から3万円[注釈 2]で標本をいったん買い取り、改めて富太郎に寄贈しようと申し出を受け、感激した富太郎はこれを固辞[20]、池長は先代が会下山に建てた池長会館に標本の収蔵と保管を手配し、大正7年[21]に同館を池長植物研究所と改称する[22]。毎月の生活費の補助も受けて困窮を脱した富太郎は現在の会下山小公園周辺でフィールドワークを行い[注釈 3]、池長家の別荘を借りて研究を続ける富太郎に孟は、引き続き援助すると約束した[24][25]。
しかし富太郎は支援金の中から数百円を持ち出して福原[22]の女郎屋で散財したり[26][注釈 4]、池長家から提供された神戸市須磨の別荘でメイドに手を付けたりしたため、孟は援助を打ち切った[27][20]。
美術品のコレクション
[編集]軍隊を退き西洋画の名品をヨーロッパで確かめた池長は、コレクターとして「蒐集は一つの創作」であると念じ、「日本で製作された異国趣味美術品」を1箇所に集める個人コレクションを目指した。公務員から1929年に私立学校の校長に転じると、教育に携わる傍ら南蛮美術の作品を買い求めた[1]。小川安一郎に設計を託してアールデコ建築の「池長美術館」を1938年に建てて収め[28][29]、開設から2年を経た1940年(昭和15年)から、一般に公開することにした[30][31]。
戦局の悪化から同館は1944年(昭和19年)に閉館、幸いにも神戸大空襲の戦災を免れた。第二次世界大戦後、神戸市は1951年(昭和26年)に池長から池長美術館の建物とコレクションを受贈すると、これを元に「市立美術館」と称して一般に開く。1965年(昭和40年)に「市立南蛮美術館」と改称[32]、同市の美術館・博物館の統合計画が進むと、旧池長コレクションは[いつ?]神戸市立博物館に移管されて収蔵品の中核をなす。また旧南蛮美術館は1989年6月には神戸市文書館に転用され、行政の一翼を担っている。
池長コレクションは「秦西王侯騎馬図屏風」「四都図・世界屏風」「フランシスコ・ザビエル肖像」[33]という重要文化財のほか4500点にのぼり、陶磁器や金属製品、民俗資料、記録写真に至る。幼い頃から美術品に関心が高かったとされる[34][出典無効]池長は、版画家の石井柏亭から譲り受けてエドアルド・キヨッソーネの石版画「シーボルト肖像」[注釈 5]、同じキヨッソーネの銅版印刷指導で大蔵省印刷局が製作した大久保利通の肖像「勲一等贈正二位右大臣大久保公(像)」(1879年)[36]、洋画家田村宗立が描いた原画を京都画学校がリトグラフに加工した有栖川熾仁親王の石版画肖像をコレクションに加えた[37]。
銅版画
[編集]銅版画という新しいメディアを手がけた亜欧堂田善(1748年-1822年)とその一派は、〈小形江戸名勝図〉という人気シリーズを残した。伝世する絵柄は25種、そのうち19種を神戸市立博物館が所蔵する。池長が入手した「三ツ俣真景」を含む16点は1951年に神戸市に寄贈された作品群に含まれ、1982年以降は神戸市立博物館が所蔵する[39][46]。
池長美術館
[編集]池長は美術館を築き、開会式を催した当日の写真が伝わっている[3]。池長は1940年(昭和15年)3月30日に美術家と文化人を招待し、記念写真を撮影した。1葉は「泰西王侯騎馬図」を展示した部屋に椅子を配し、イスラム風の水盤を挟んでカメラに向かう集合写真で、前列は向かって右から着物姿の3名が池長、谷崎潤一郎、林重義、洋装は画家の川西英と、記録では向かって左端は大塚銀次郎という。後列は全員スーツ姿で、同じく向かって右から詩人の竹中郁、洋画家の小磯良平と鈴木清一(実業家)が立った[47]。「池長美術館来館者」というサイン帳が保存されており、当館の礎石を置いた池長館長とこまやかな交流を交わした人々の筆跡を留める。館を訪れて展示を楽しんだ心を記し、主の池長に和歌や短歌、走り書きの絵を宛て書きしてある[29]。このコレクションの特徴をいくつかあげる。(長さの単位はいずれもセンチメートル)
- 浮世絵版画
- 葛飾北斎「吉原楼中図」江戸時代、文化8年(1811年)、木版色摺、37.0×123.9(大判5枚続)5枚、伊勢屋利兵衛版。状態がとても優れ、保存の難しい紫色が残った点を文化庁の調査により評価された[48]。
- 歌川国芳「生人形浅草奥山」江戸時代、安政2年(1855年)、木版色摺、36.1×75.3(大判3枚続)3枚、釜屋喜兵衛版[49]
- 海外の手法を吸収する画家(1)
池長が集めた亜欧堂の〈小形江戸名勝図シリーズ〉(全25点中16点)は、前述の一覧に詳しい[39]。 時代の息吹を留めた作品群があり、版画のアウトラインに筆で彩色した。
- 浮絵(うきえ)は西洋風の遠近法
芝居の書割(かきわり)に用いた手法を応用して遠近法を読み解き、絵画作品に持ち込んだ[52]。
- 海外の知識を吸収する画家(2)
牧野富太郎や新村出の蔵書や所蔵を譲り受けた。
- 杉田玄白 訳『解体新書』小田野直武 画、紙本木版墨摺、安永3年(1774年)、5冊。牧野富太郎から譲り受けた[54]。
- 長崎版画「阿蘭陀人之図」針屋版、紙本木版筆彩、江戸(1740年代)。新村出の旧蔵。
- 五雲亭貞秀「西国名所之内」
五雲亭貞秀による大判浮世絵は、25枚組の風景・民俗シリーズ。江戸時代、慶応元年(1865年)、木版色摺 [注釈 9]。
- 大黒屋(大金):「大坂安治川橋」「みなと川」
- 山口屋藤兵衛(山口):「尼ケ崎大物浦」「兵庫磯の町」「岩国錦帯橋」「備前ひと日河原」「備後尾の道・浄土山寺」「安芸広島」「げん海なだ」
- 笹屋喜助(笹喜):「西之宮」「須磨明石」
- 平野屋新蔵(平野屋):「高砂の松・尾上の鐘」「備後三はら」「長府の沖」
- 藤岡屋慶次郎(藤慶):「備後ふく山」「亀山八幡宮」
- 恵比須屋庄七(恵比須屋):「室湊はや咲町」「赤穂千軒塩屋」「上のせき」
- 丸屋鉄次郎版(丸鉄):「書写山」「備後鞆の湊」「与治兵へ岩岩流島」
- (藤藤):「姫路書写山」
- (〃)「いけ田伊丹」「芸の宮島」
- (〃)「摂州神戸海岸繁栄之図」
- 外国人のスケッチ画から新しい視点を得た画家
家族・親族
[編集]池長は生涯に3回結婚し、最初の妻・正枝は荒木村重の末裔と言われる家系の出身であった。2男1女を儲けたが[4]、二男の出産時(同14年9月生まれ)に体調を崩して死去。後添えの富子は淀川長治の姉で、結婚2年目に家を出たため籍を抜く。3番目の妻・とし子との間に2子がある[12]。
池長は少年期を過ごした神戸市内兵庫区門口町の屋敷に正枝と暮らし[58]、その没後、小川安一郎の設計した「紅塵荘」(葺合・野崎通)に移り住む[58]。美術館を構える時はやはり小川に委託し、熊内町に展示施設と収蔵施設(附属倉庫)、自邸を構える。戦後、コレクションと館を手放すと、東灘区本山町森で余生を送った。1955年8月25日、胃潰瘍のため[10]65歳で永眠[58]。
長男は倫理学者・池長澄[4](元摂南大学教授、1920-2001年)。長女は、池長のヨーロッパ視察の1922年12月に生まれ澪と名付け[4]、二男の廣は池長しまの養子に出された[4]。三男の池長潤はイエズス会士であり、カトリック大阪大司教区の第7代大司教を務めた。
著作
[編集]- 『荒つ削りの魂 戯曲集』(弘文社、1929年)
- 『開国秘譚 戯曲 別名・ラシヤメンお蘭一代記』(弘文社、1930年)
- 『「狂ひ咲き」 戯曲集』(福音社、1933年)
- 『邦彩蛮華大宝鑑 池長蒐集品目録』(創元社、1933年)全2巻、doi:10.11501/8798436[62]。革製の表紙(帙)に2冊を収め、付録は年表、「池長美術館陳列目録」[63][64]と袋入りの英文解説。
- 『南蛮堂要録』(池長美術館、1938年)doi:10.11501/1686970[65]。
寄稿
[編集]- 「第二次海外文化に伴ふ日本的藝術:わが蒐集について」『美術新報』26号(6月上旬号)、日本美術新報社、1942年6月、12-13頁、doi:10.11501/1579272。。この号は「南蛮美術」を特集し、写真は池長コレクションの陳列品。
- 『黒船』、黒船社、1940年。1941年に連載。
番 | 書誌情報 | リンク |
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01 | 第17巻第6号、1940年6月。
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doi:10.11501/1473098 |
02 | 第17巻第9号、1940年。
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doi:10.11501/1473101 |
03 | 第17巻第12号、1940年12月。
|
doi:10.11501/1473103 |
04 | 第18巻第1号、1941年1月。
|
doi:10.11501/1473104 |
05 | 第18巻第2号、1941年2月。
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doi:10.11501/1473105 |
06 | 第18巻第3号、1941年2月。
|
doi:10.11501/1473106 |
07 | 第18巻第4号、1941年3月。。
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doi:10.11501/1473107 |
08 | 第18巻第5号、1941年5月。
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doi:10.11501/1473108 |
09 | 第18巻第6号、1941年2月。
|
doi:10.11501/1473109 |
10 | 記者「世界の植物学者牧野富太郎博士と池長孟氏の美談」第18巻第12号、1941年2月。 | doi:10.11501/1473115 |
編集
[編集]- 『対外関係美術史料年表』(創元社、1937年)doi:10.11501/1112820。
- 『紀元二千六百年記念開館陳列品目録』池長美術館、1940年)doi:10.11501/1684062。
- 『南蛮堂要録』池長美術館、1940年)doi:10.11501/1686970。
参考文献
[編集]- 育英高等学校『夢の彩り : -育った力 一世紀-(育英 100年の歩み)』武井育英会育英高等学校、1999年。 NCID BA46599024。OCLC 675594062。国立国会図書館書誌ID:000002841885。
- 「第一部 育英百年の歩み 第二章 成長期へ(池長 孟時代) : 商業学校時代」pp30-31, 34
- 「第一部 育英百年の歩み 第三章 新生(武井尹人時代) : 苦難を越えて」p46
- 「育英高等学校略年表」pp177-178, 180
- 『池長孟関係写真』昭和時代前期/1930年代、全4冊、神戸市博物館収蔵。写真73枚を掲載。
- 「南蛮堂コレクションと池長孟」『平成15年度 神戸市立博物館年報』第20号、神戸市立博物館、2005年(平成17年)3月31日、6-12頁。本展では、未公開資料を通して池長孟のコレクター像を初めて回顧した。
- 兵庫区総務部地域協働課 編『G.「湊川新開地・会下山 植物学者・牧野富太郎ゆかりの地を訪ねて」』(PDF)神戸市〈兵庫区歴史さんぽ道〉、2024年2月6日。「明治時代後期、旧湊川の付け替えによって誕生し、市民の台所として栄えた湊川エリアと、「東の浅草、西の新開地」と謳われた新開地エリア。この散策マップでは、日本の植物分類学の基礎を築き、「植物学の父」と呼ばれた牧野富太郎ゆかりの会下山小公園と、神戸らしい眺望景観10選に選ばれた会下山公園周辺をめぐる。」
- 小松左京、堺屋太一、立花隆 企画委員 編『20世紀全記録 クロニック』講談社、1987年9月21日、237頁。
- 東京文化財研究所文化財情報資料部(編)『美術研究』、国立文化財機構東京文化財研究所。
- 1935年3月、第4巻第3号(通号39)「図版7 信方筆人物図 池長孟氏蔵」、「図版13 信方筆人物図 池長孟氏蔵」。doi:10.11501/7964141。
- 1937年5月、第6巻第5号(通号65)「(2)慶賀筆ブロムホフ家族図 池長孟蔵」
- 牧野富太郎「§池長植物研究所」『牧野富太郎自叙伝』 。2024年2月20日閲覧。副題は『第1部 牧野富太郎自叙伝』[注釈 11]。
関連資料
[編集]脚注に使っていない資料。発行年順。
- 杉森哲也『描かれた近世都市』山川出版社 日本史リブレット044。
- 高見澤たか子『金箔の港 コレクター池長孟の生涯』(神吉敬三「美術の本棚Book Review:高見澤たか子著『金箔の港-コレクター池長孟の生涯』」『季刊みづゑ』第952号、p140-141(美術出版社、1989年9月)NDLJP:2255323。
- 三隅貞吉「池長さんとの三十年」日本美術工芸社 編『日本美術工芸』第206号、p15-16(日本美術工芸社、1955年11月)doi:10.11501/2281417。この号は「故池長孟氏記念・南蛮美術特集」を企画。
- 『池長孟旧蔵写真帖』明治時代後期〜大正時代/20世紀初期、全1冊。写真写真65枚を掲載。13.0&nbhp;cm×18.6&nbhp;cm。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 3月11日付で文部省から、3月より資産家の[16]武井尹人への設立者変更の認可が下りる[17][18]。
- ^ 現代の貨幣価値で約2240万円[12]。
- ^ 池長植物研究所があった会下山小公園は、地域で「牧野公園」と通称される[23]。
- ^ 現代の貨幣価値で数億円の支援金の中から数百万円を持ち出した[27]。
- ^ 石版画に署名「E Chiossone Tokei Giappone 1875」があり、明治8年の作品とわかる。57.6×37.8 cm。た池長孟は、1951年に市立神戸美術館に寄贈、神戸市立博物館に移された[35]。
- ^ 早稲田大学図書館に9枚収蔵され、内訳は「東都名所全図」「真洲先稲荷隅田川眺望」「桜田馬場射御之図」「三囲眺望之図」「自上野望山下」「今戸尾焼之図」「新吉原夜俄之図」「自道権山望鴻台之図」。11×15-12×16 cm[38]。
- ^ 「山塘普済橋中秋夜月」(さんとう ふさいきょう ちゅうしゅう やげつ)は清時代の木版画に筆で彩色した画面である。作風は西洋画の描き方(泰西筆法)に習った。陳仁桑店版。
- ^ 取材した資料がニーホフ著『東西海陸紀行』(地理書)であると明らかにされ、「バタヴィアの町の役人と職人の家」を描いた銅版の挿絵であるという[53]。
- ^ 1帖25枚の版元は以下の資料による [56]。
- ^ 『三県道路完成記念帖』は、郡山市立美術館に貸し出された。1885年(明治18)石版、絹、玄々堂(製造)「開館30周年記念展 1:記録する眼:豊穣の時代明治の画家 亀井至一、竹二郎兄弟をめぐる人々
- ^ 青空文庫の底本:『牧野富太郎自叙伝』第1刷(講談社〈講談社学術文庫〉、2004(平成16)年4月10日)。底本の親本:『牧野富太郎自叙伝』(長嶋書房、1956(昭和31)年12月)。
脚注
[編集]- ^ a b c 池長 1942, pp. 12–13, 『美術新報』
- ^ 『黒船』 1941g, p. 34
- ^ a b 〈池長孟関係写真〉“昭和時代前期/1930年代”. 文化遺産オンライン. 2024年2月19日閲覧。 “写真 / 昭和以降、池長孟”
- ^ a b c d e f “『人事興信録』データベース 池長孟”. 名古屋大学大学院法学研究科 (1928年7月). 2023年11月1日閲覧。
- ^ a b 「【須磨区】須磨ニュータウンで神戸ゆかりの人物シリーズ歴史講座」『神戸新聞』2015年2月26日。2024年2月19日閲覧。
- ^ a b 2015年2月、須磨区北須磨文化センターで「池長と神戸」を解説する市民講座が開かれた[5]。
- ^ 育英高等学校 1999, p. 180
- ^ a b c d 育英高等学校 1999, p. 30
- ^ a b c d 育英高等学校 1999, p. 31
- ^ a b “池長孟 :: 東文研アーカイブデータベース”. 東京文化財研究所. 2023年12月25日閲覧。
- ^ 帝国秘密探偵社(編)、1935、『大衆人事録』11、帝国秘密探偵社[ほか] doi:10.11501/8312058
- ^ a b c d e f g h “荒っ削りのコレクター「池長孟(いけながはじめ)」”. ナガジン!. 特集:発見!長崎の歩き方. 長崎市. 2021年5月30日閲覧。
- ^ 岩田照彦: “みなと元町タウンニュース第302号” (PDF). みなと元町タウン協議会. p. 2 (2017年10月1日). 2024年5月2日閲覧。
- ^ a b 育英高等学校 1999, p. 178
- ^ 育英高等学校 1999, p. 34
- ^ “武井尹人 (第8版)”. 『人事興信録』データベース. 名古屋大学大学院法学研究科. 2024年5月16日閲覧。
- ^ 大蔵省印刷局(編)、1942、「文部省告示第167号」、『官報』1942年03月14日 本号 第4552号、日本マイクロ写真 doi:10.11501/2961054 p. 400
- ^ 育英高等学校 1999, p. 46
- ^ 育英高等学校 1999, p. 177
- ^ a b c d 牧野 1956
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- ^ a b 神戸市 2024, 「〈東の浅草、西の新開地〉と謳われた新開地エリア」
- ^ “会下山小公園”. www.shintetsu.co.jp. 神戸電鉄. 2024年2月19日閲覧。
- ^ 『20世紀全記録 クロニック』 1987, p. 237
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- ^ 堀江宏樹 (2023年9月5日). “研究費を「女遊び」で使い込む!植物学者・牧野富太郎の「ヤバすぎる倫理観」”. 歴史人WEB. ABCアーク. 2024年5月15日閲覧。
- ^ a b 「メイドに手を付け、女郎屋で散財も……朝ドラには描かれない牧野富太郎の人生が「激ヤバ」すぎた」『プレジデントオンライン』、プレジデント社、2023年10月15日、2頁、 オリジナルの2023年10月26日時点におけるアーカイブ、2023年12月23日閲覧。
- ^ 『黒船』 1940a, pp. 5–12, 「池長美術館陳列目録」
- ^ a b “池長美術館recollection:美への想いがつなぐもの”. www.kobecitymuseum.jp. 神戸市立博物館. 2024年2月19日閲覧。 “会期は2023-07月22日 ~ 2023年9月10日。”
- ^ 『黒船』 1940a, 写真版・口絵「池長美術館全景と泰西王族騎馬図の前に於ける池長孟氏」
- ^ 『黒船』 1940a, pp. 2–4, 石黒敬七「池長美術館を観る」
- ^ 1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
- ^ 「聖ザビエル像は神戸市立博物館所蔵」『神戸新聞』(夕刊)2015年2月24日。
- ^ 日本経済新聞 2012年4月17日付。
- ^ “Denkmal Siebold Wurzburg”. 文化遺産オンライン. 2024年2月19日閲覧。
- ^ キヨッソーネ(原画)「勲一等贈正二位右大臣大久保公(像)」大蔵省印刷局、銅版墨摺、明治12年(1879年)。63.7×47.0 cm×37.8 cm、左下にサイン「E Chiossone Tokio 1878」。
- ^ 田村宗立(原画)、京都画学校(石版刷り) (1881年). “有栖川熾仁親王像”. 文化遺産オンライン. 2024年2月19日閲覧。30.3×22.2 cm。画面右下の署名は「S. Tamura」、下の余白の画題は「明治十四年十月京都画学校製」。
- ^ a b c d e f g “亜欧堂田善江戸名所図 / 亜欧堂田善 [画]”. 早稲田大学図書館. 2024年2月20日閲覧。
- ^ a b “三ツ俣真景”. 神戸市立博物館. 小形江戸名勝図シリーズ. 2024年2月19日閲覧。
- ^ 『黒船』 1940a, pp. 8–11
- ^ 『黒船』 1941a, pp. 26–28, (2)
- ^ 『黒船』 1941b, pp. 41–44, (3)
- ^ 『黒船』 1941d, pp. 30–33, (4)
- ^ 『黒船』 1941e, pp. 31–34, (5)
- ^ 『黒船』 1941f, pp. 31–35, (6)
- ^ 池長は蒐集美術に関するエピソード6編を「余譚」として雑誌『黒船』に記した [40] [41] [42] [43] [44] [45]。
- ^ 『年報』 2005, p. 7
- ^ “吉原楼中図”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。 “美人画をあまり残さなかった北斎には珍しく続き物5枚組である。”
- ^ “生人形浅草奥山”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “大日本金龍山之図”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “摺物 紅毛銅版画”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “UKIE(浮絵):江戸を魅了した、吸い込まれる空間(会期:2022年12月24日-2023年2月12日)”. www.kobecitymuseum.jp. 美術. 神戸市立博物館. 2024年2月19日閲覧。
- ^ “忠臣蔵十一段目夜討之図”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “コレクターたちの片鱗―池長孟・南波松太郎・秋岡武次郎(会期:2022年10月15日-同年12月4日)”. www.kobecitymuseum.jp. 美術. 神戸市立博物館. 2024年2月19日閲覧。
- ^ “西国名所之内”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
- ^ 神戸市立博物館特別展『神戸開港150年記念特別展:開国への潮流、開港前夜の兵庫と神戸』図録、2017年。神戸市立博物館特別展『よみがえる兵庫津』図録、2004年[55]。
- ^ “英国からはじまる明治日本のスケッチ巡り(会期:2022年8月23日-同年9月25日)”. www.kobecitymuseum.jp. 美術. 神戸市立博物館. 2024年2月19日閲覧。
- ^ a b c “「生粋の神戸人間 池長 孟 の足跡:建物の記憶をたどって」の開催”. 神戸市. 神戸市:文書館企画展. 2024年2月20日閲覧。
- ^ Collection Iquenaga, Osaka, 1933, Vol. I, p. 54.
- ^ 東京文化財研究所 1937, 「(2)慶賀筆ブロムホフ家族図 池長孟蔵」『美術研究』、doi:10.11501/7964167。
- ^ 画像ファイルの注記[59]より『邦彩蛮華大宝鑑 池長蒐集品目録』第2巻p54掲載の作品[60]か(1933年)。
- ^ 東京文化財研究所 1937, 「(2)慶賀筆ブロムホフ家族図 池長孟蔵」『美術研究』1937年5月、第6巻第5号(通号65) doi:10.11501/7964167
- ^ 『黒船』 1940a, pp. 5–12
- ^ 『黒船』 1940c, pp. 24–28, 「池長美術館蒐蔵品解説(2)」
- ^ 『黒船』 1940a, pp. 2–10, 「南蛮堂要録」
関連項目
[編集]- 永見徳太郎 - 美術品コレクター、『黒船』に寄稿。