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江東城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

江東城の戦い(カンドンソンのたたかい)は、1219年モンゴル帝国東夏国(大真国)高麗国の連合軍が高麗国領に侵攻していた後遼政権を滅ぼした戦い。モンゴル帝国と高麗国が始めて公的に接触した事件でもあり、この戦闘を経てモンゴル帝国と高麗国は一時的にではあるが友好的な関係を築いた。

背景

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1211年よりモンゴル軍の侵攻を受けた金朝は長城以北の統制を失い、1213年には耶律留哥が「遼王」を称して遼東地方で自立した[1][2]。耶律留哥はモンゴル帝国の傘下に入って庇護を得たものの、モンゴルに従属することに不満を抱いた耶律廝不耶律乞奴耶律金山・耶律青狗・耶律統古与らに推されて1216年に自立した[3]。耶律廝不は耶律留哥と同じく「遼」を国号としたが、この政権は耶律留哥の遼(東遼)などと区別するために、一般に「後遼」と呼ばれる。

皇帝を称した耶律廝不は国家制度を整えたものの、即位から僅か70日余りで内紛にあって殺されたため、丞相の地位にあった耶律乞奴が監国として国政を預かり、元帥の鵝児とともに兵民を左翼・右翼に分けて高麗との国境に近い開州中国語版(現在の鳳城市)・保州中国語版(現在の義州郡)に駐屯した[4][5]

これに対し、金朝は蓋州の守将の衆家奴を派遣して後遼政権を攻撃し、また耶律留哥もモンゴル兵数千を借りて後遼軍を破った[6]。挟み撃ちにあった後遼政権は東南方に逃れて高麗国に侵入したが、そこで更に内紛を繰り返し、耶律金山・耶律統古与らが殺された後に国王となった耶律喊舎が最終的に後遼の支配権を握ることになった[7]。しかし、後遼政権が金朝・モンゴル・東真国・高麗といった周辺諸国全てを敵に回して孤立状態にあることは変わらず、追い詰められた後遼政権を最終的に滅亡に至らしめたのが江東城の戦いであった。

概要

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1218年4月、契丹兵は更に南下して清川江・大同江流域に進出したため、高麗側は新たに金君綏を趙沖の代わりに西北面兵馬使とした[8][9]。この年、契丹兵の行動範囲は更に広がり、楊州(雲山郡博川郡の間)を侵掠し、谷州(黄海道の東端)で高麗軍と戦った[10][11]。一方、趙沖は諸道の兵を集めて将軍の李敦守・金季鳳らとともに契丹兵を討ち、「賊の首魁(=喊舎)」は退却して江東城に入った[12]

同年末の12月、突如として高麗の東北国境から「モンゴル(蒙古)元帥」の哈真と札剌率いるモンゴル帝国軍1万・蒲鮮万奴が派遣した完顔子淵率いる東夏国軍2万の連合軍が現れ、高麗国に協力して「丹賊(=後遼政権)」を討伐することを申し出た[13][14]。この頃、天候は大雪となったためにモンゴル・東夏国連合軍は兵站の確保に苦労し、後遼政権の拠る江東城を攻めあぐねた[15]。そこで、哈真は通訳の趙仲祥と徳州から伴っていた進士の任慶和を高麗軍の指揮官の趙沖の下に派遣し、「皇帝(=チンギス・カン)は契丹兵が爾の国に逃れ今や三年になるも、未だ掃滅することができないため、兵を派遣してこれを討伐しようとしている。爾の国がただ兵糧を支援してくれれば、足りないものはない」と申し送り、また「皇帝は『賊(後遼)を破った後、約して兄弟の関係を結ばん』と命じている」とも伝えている[16]。趙沖は尚書省の許可を得た上で中軍の判官金良鏡に米一千石を輸送させ、これを迎えたモンゴル・東夏国の両元帥は宴を設けた上で「両国が兄弟の関係を結んだこと、国王に報告して文牒を受けたならば、我らはそれを皇帝の下に報告しよう」と述べている[17][18]

数度のやり取りを経て高麗軍とモンゴル・東夏国連合軍は協力して江東城を攻めることを約し[19]、南門から東南門をモンゴル軍を率いる哈真が、西門から北を東夏国軍を率いる完顔子淵が、東門から北を高麗軍を率いる金就礪が担当することが決められた[20]。モンゴル・東夏国・高麗国連合軍の威容を見た後遼軍は戦わずして戦意を喪失し、40名余りが城を出てモンゴル軍に降ったため、敗北を悟った「賊の首魁たる喊舎王子(賊魁喊舎王子)」は自ら首を括り1219年正月14日に江東城は陥落した[21]。後遼に属する官人・軍卒・婦女5万人余りは城を開いて投降し、これを受けた哈真らは喊舎の妻子及び丞相・平章ら高官100名余りを処刑したほかは命を取らず捕虜とし、これを以て後遼は滅びた[22][23]

戦後

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1219年よりチンギス・カンが西方遠征を始め、モンゴル軍の大部分が東アジアを離れたこともあり、1220年代の東北アジアでは東夏国・高麗国・遼東の金朝残存勢力が並立する状況が定着した。江東城の戦いを経てモンゴル帝国と友好関係を樹立した高麗国は、毎年互いに使者を派遣することを約し、使者は必ず「万奴之地(東夏国)」を通過するよう取り決められていた[24]

ところが、1224年正月に東夏国は高麗に使者を派遣し、二通の国書をもたらした。一通には「モンゴルのチンギス・カンは絶域に赴いて所在が知れず、[モンゴル本土に残ったチンギスの末弟の]オッチギンは貪暴不仁であり、[東夏国はモンゴル帝国との]旧好を既に絶った」と記され、もう一通には榷場(交易管理所)を互いに設置することの要求が記されていた[25]。これを受けてモンゴル帝国の使者古与らは従来の東夏国領を通るルートではなく鴨緑江下流域を越えて高麗国内に入ったが[26]1225年正月の帰路にて盗賊によって殺害されてしまった[27]。この一件を経てモンゴル帝国・東夏国・高麗国の関係は悪化し、定期的な使者のやり取りは途絶え、蒲鮮万奴はしばしば高麗に出兵するようになった。1225年8月には朔州[28]1227年9月には定州・長州を[29]1228年7月には長平鎮を[30]、それぞれ東夏国の兵が侵掠している。1229年2月には東夏国より高麗に講和の使者が出されたが[31]、交渉は失敗に終わり[32]再び高麗領和州が掠奪を受けた[33]。この間、蒲鮮万奴が高麗国に語ったようにモンゴル帝国ではチンギス・カンが常に西方で遠征の途上にあり、モンゴル軍は遼東方面にはほとんど介入することがなかった。しかし、チンギス・カンが死去しその息子のオゴデイを中心とする新たな体制がモンゴルで発足すると、東夏国と高麗国は再びモンゴル軍の侵攻に晒されることとなる。

脚注

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  1. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「癸酉三月、推留哥為王、立妻姚里氏為妃、以其属耶廝不為郡王、坡沙・僧家奴・耶的・李家奴等為丞相・元帥・尚書、統古与・著撥行元帥府事、国号遼」
  2. ^ 池内1943,568頁
  3. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「丙子、乞奴・金山・青狗・統古与等推耶廝不僭帝号於澄州、国号遼、改元天威、以留哥兄独剌為平章、置百官」
  4. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「方閲月、其元帥青狗叛帰于金、耶廝不為其下所殺、推其丞相乞奴監国、与其行元帥鵝児、分兵民為左右翼、屯開・保州関」
  5. ^ 池内1943,569頁
  6. ^ 『金史』巻14宣宗本紀上に「[貞祐四年三月]丙子、曲赦遼東路」とあるのは、この時の戦いで金朝が遼東路を回復したことを反映していると考えられる(池内1943,569-570頁)。
  7. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「乞奴走高麗、為金山所殺、金山又自称国王、改元天徳。統古与復殺金山而自立、喊舎又殺之、亦自立」
  8. ^ 『高麗史』巻22高宗世家一,「[高宗五年夏四月]丙寅、中軍兵馬使報丹兵大至。丁卯、以左諫議大夫金君綏、代趙沖為西北面兵馬使」
  9. ^ 池内1943,600頁
  10. ^ 『高麗史』巻22高宗世家一,「[高宗五年八月]癸亥、丹兵寇楊州。己巳、西海道防守軍与丹兵、戦于谷州、斬首三百餘級」
  11. ^ 池内1943,601頁
  12. ^ 『高麗史』巻103列伝16趙沖伝,「沖等道長湍至洞州、遇賊東谷、擒其謀克高延・千戸阿老、次成州、以待諸道兵。慶尚道按察使李勣引兵来、遇賊不得前、遣将軍李敦守・金季鳳、撃之以迎勣。既而、賊従二道、倶指中軍、我張左右翼、鼓而前、賊軍望風而潰。敦守等与勣来会、録事申仲諧分其兵輸軍食、賊又要之。将軍朴義隣敗之于禿山。賊散而復集、騎数万尽鋭来攻。我又敗之。亜将脱剌逃帰。賊魁又欲引還、慮我要其帰路、入保江東城」
  13. ^ 『高麗史』巻22高宗世家一,「[高宗五年]十二月己亥朔、蒙古元帥哈真及札剌、率兵一万、与東真万奴所遣完顔子淵兵二万、声言討丹賊、攻和・猛・順・徳四城、破之、直指江東城」
  14. ^ この時、モンゴル軍が落とした和州(金野郡)・猛州(金野郡と孟山郡の境界)・順州(徳川市成川郡の中間)・徳州(徳川市)の諸城は現在の咸鏡南道から平安南道に属しており、モンゴル軍は東方から回り込むようにして後遼政権の拠点である江東方面(現在の平安北道)に進んだと見られるため(池内1943,603-604頁)。
  15. ^ 池内1943,604頁
  16. ^ 『高麗史』巻103列伝16趙沖伝,「蒙古太祖、遣元帥哈真及札剌、率兵一万、与東真万奴所遣完顔子淵兵二万、声言討契丹賊、攻和・孟・順・徳四城破之、直指江東。会天大雪、餉道不継、賊堅壁以疲之。哈真患之、遣通事趙仲祥、与我徳州進士任慶和、来牒元帥府曰『皇帝以契丹兵逃在爾国、于今三年、未能掃滅故、遣兵討之。爾国惟資糧是助、無致欠闕』。仍請兵、其辞甚厳。且言『帝命、破賊後、約為兄弟』」
  17. ^ 『高麗史』巻103列伝16趙沖伝,「於是、以尚書省牒答曰『大国興兵、救患弊封、凡所指揮、悉皆応副』。沖即輸米一千石、遣中軍判官金良鏡、率精兵一千護送。及良鏡至、蒙古・東真両元帥、邀置上坐、宴慰曰『両国結為兄弟、当白国王、受文牒来則、我且還奏皇帝』」
  18. ^ 元帥の哈真らは両国が同盟関係を結んだ証として、尚書省の牒だけでは不十分で、国王自らの文牒が必要であると判断したとみられる(池内1943,605頁)。なお、高麗側の記録にこの国王自らの文牒が欲しいという要求にどう対応したかは記載されていないが、『元史』巻208列伝95高麗伝に「[太祖]十四年正月、高麗は権知閤門祗候の尹公就・中書注書の崔逸を派遣して和を結び牒文を札剌の行営に送った」とあるのが、この要求に対する高麗側の返答であったとみられる(池内1943,605頁)。
  19. ^ 『高麗史』巻103列伝16金就礪伝,「明年、就礪乃与知兵馬事韓光衍、領十将軍兵及神騎・大角・内廂精卒、往焉。……約詰朝会江東城下」
  20. ^ 『高麗史』巻103列伝16金就礪伝,「去城三百歩而止、哈真自城南門至東南門鑿池、広深十尺。西門以北、委之完顔子淵、東門以北、委之就礪、皆令鑿隍、以防逃逸」
  21. ^ 『高麗史』巻22高宗世家一,「[高宗]六年春正月辛巳、趙沖・金就礪、与哈真・子淵等、合兵、囲江東城、賊開門出降」
  22. ^ 『高麗史』巻103列伝16金就礪伝,「賊勢窘、四十餘人踰城、降於蒙古軍前、賊魁喊舎王子自縊死。其官人・軍卒・婦女五万餘人、開城門出降、哈真与沖等、行視投降之状。王子妻息、及偽丞相・平章以下百餘人、皆斬於馬前、其餘悉寛其死、使諸軍守之」
  23. ^ 『元史』巻208列伝95高麗伝,「太祖十一年、契丹人金山・元帥六哥等領衆九万餘竄入其国。十二年九月、攻抜江東城拠之。十三年、帝遣哈只吉・札剌等領兵征之。国人洪大宣詣軍中降、与哈只吉等同攻囲之。高麗王奉牛酒出迎王師、且遣其枢密院使・吏部尚書・上将軍・翰林学士承旨趙沖共討滅六哥。札剌与沖約為兄弟。沖請歳輸貢賦」
  24. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2,「[高宗十九年冬十一月]越丙子歳、契丹大挙兵、闌入我境、横行肆暴。至己卯、我大国遣帥河称・札臘、領兵来救、一掃其類。小国以蒙賜不貲、講投拜之礼、遂向天盟告、以万世和好、為約、因請歳進貢賦所便。元帥曰『道路甚梗、你国必難於来往。毎年、我国遣使佐、不過十人、其来也、可齎持以去。至則道必取万奴之地境、你以此為験』」
  25. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十一年春正月]戊申、東真国遣使、齎牒二道来、其一曰『蒙古成吉思師老絶域、不知所存、訛赤忻、貪暴不仁、己絶旧好』。其一曰『本国於青州、貴国於定州、各置榷場、依前買売』」
  26. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十一年]十一月乙亥、蒙古使著古与等十人、至咸新鎮」
  27. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十二年春正月]癸未、蒙古使離西京、渡鴨緑江、但齎国贐獺皮、其餘紬布等物、皆棄野而去、中途為盗所殺。蒙古、反疑我、遂与之絶」
  28. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十二年]八月辛卯、東真兵百餘寇朔州」
  29. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十四年九月]壬午、東界兵馬使奏、東真寇定・長二州。遣右軍兵馬使上将軍趙廉卿、知兵馬事大将軍金升俊、中軍兵馬使枢密院使丁公寿、知兵馬事金良鏡、後軍兵馬使上将軍丁純祐、知兵馬事大将軍金之成、率三軍禦之」
  30. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十五年秋七月]庚子、東北面兵馬使報『東真兵千餘人來屯長平鎮』。議遣三軍、以禦之、尋聞賊退、竟不行」
  31. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十六年二月]壬子、東北面兵馬使報『東真人到咸州、請和』。親遣式目録事盧演、往聴約束」
  32. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十六年]五月甲戌、盧演、還自東北面、時東界赴防将軍金仲温訴演怯懦、不与東真約束。崔瑀怒、囚演于街衢所、以前巨済県令陳龍甲為長平鎮将、約束東真。詔曰『農事方殷、騎陽為沴、良由政刑之失、朕甚懼焉、其二罪以下流配人量移、囚徒并原』。戊寅、東真寇和州、掠牛馬人口、陳龍甲遣人諭之、皆棄去」
  33. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十六年八月]癸亥、東真四十人托言追温迪罕、至和州」

参考文献

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  • 池内宏「金末の満洲」『満鮮史研究 中世第一冊』荻原星文館、1943年